北真経寺 (向日市)
Kitashinkyo-ji Temple
北真経寺 北真経寺 
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本堂


本堂、扁額「鶏冠山」  


妙見大菩薩



妙見大菩薩



妙見大菩薩




 鶏冠井(かいで)の北真経寺(きたしんきょうじ)は、日像ゆかりの寺であり、関西初の日蓮宗寺院だった真経寺を前身にしている。かつて、壇林(宗門の学問所)が置かれていた。山号は鶏冠井山(かいでざん)という。   
 日蓮宗、本尊は一塔両尊四士。
 「鶏冠井檀林」と呼ばれ日蓮宗京都六壇林の一つ。
◆歴史年表
 鎌倉時代、1307年頃、日像は乙訓山崎付近で布教活動を行う。
 1307年、徳治年間(1306-1307)頃とも、真言宗の真言寺(鶏冠井村)住持・実賢(じつけん)が、日像に帰依し日蓮宗に改宗した。寺号も真経寺に改める。真言宗の「真」と日像の幼名・経一丸の「経」より採った。以後、関西初の日蓮宗寺院になり、鶏冠井村は布教の拠点になる。(寺伝)。この地の上辻三良四郎家は、日像の最初の帰依者になり、いまも檀家として続いている。
 1332年-1333年、南北両寺に分かれたともいう。
 江戸時代、1654年、真経寺は南北(現在の位置関係は東西)二つに分かれる。北真経寺には鶏冠井壇林(宗門学問所、鶏冠井山北真経寺学校)が置かれ、宗通明院日祥により開講された。南真経寺は村民の信仰の場になる。
 1787年、「西国村壇林」として描かれている。(『拾遺都名所図会』)
 近代、1875年、壇林は廃止された。
 1878年、学舎が解体された。
 現代、1985年、伝えられてきた鶏冠井題目踊は京都府指定無形民俗文化財に指定される。
日像 鎌倉時代の日蓮宗の日像(にちぞう、1269-1342)。肥後房、肥後阿闍梨。下総国に生まれた。7歳で日蓮の六大弟子のひとり日朗に師事した。1275年、身延の日蓮の弟子になり、日蓮が経一丸と命名し本尊を授与する。1282年、日蓮没後、日朗に再び師事した。北陸を経て、1294年、入洛、日蓮の遺命により、日蓮宗最初の京都弘通(ぐつう、布教)、宗義天奏(天皇への布教)を行う。松ヶ崎・歓喜寺(妙泉寺)、洛西・真経寺、深草・極楽寺(宝塔寺)を日蓮宗に改宗させた。町衆に信徒拡大し、一時の京都は「法華題目の巷」と呼ばれた。1307年頃、乙訓山崎付近で布教を行う。比叡山延暦寺などの圧力により、1307年、土佐配流、1308年、紀伊流罪、1321年、洛内追放と3度の弾圧と赦免「三黜三赦(さんちつさんしゃ)の法難」を受ける。1311年、妙顕寺を開創し、教団発展の礎を築く。深草・宝塔寺に葬られる。
 一門は四条にあったことから四条門流と呼ばれた。1358年、弟子・大覚の祈雨の功により菩薩号が贈られた。
◆通明院日祥 江戸時代の日蓮宗の僧・通明院日祥(?-1671)。詳細不明。鷹ヶ峰壇林。1654年、鶏冠井壇林の開祖になる。66歳。
◆日蓮宗教化 日像は他宗の迫害により幾度か京都を追われた。その際に、西国街道沿いの向日神社、鶏冠井村での布教を行ったという。
 伝承が残る。ある時、日像は法華弘通の祈願に向日明神に参詣した。境内に野宿していると白髪の明神が現れる。明神はこの地で布教せよと夢告したため、日像は西ノ岡で教化し始めると多くの帰依者が出た。
 日像は、この地にあった真言宗、真言寺住持・実賢と法論を三昼夜にわたり交わした。ついに、実賢は日像に帰依し、その弟子になる。寺も日蓮宗に改宗し、寺号も真言宗の「真」と日像の幼名・経一丸より「経」により真経寺と改める。寺は、関西初の日蓮宗寺院になり、村は布教活動の拠点になった。
 向日神社の鳥居脇に、日像が村人に説法を行った際に、腰掛けたという「説法石」が残されている。
◆壇林 江戸時代、1654年、真経寺は南北に分かれた。北真経寺は宗門の学問所(講学所)である鶏冠井壇林になる。日蓮宗京都六壇林のひとつに数えられた。鷹ヶ峰壇林の通明院日祥により開講される。2代・日春により確立し、就学規定『万代制法』が定められた。鶏冠井壇林(宗門学問所、鶏冠井山北真経寺学校)と呼ばれた。
 講堂(現在の本堂)、客殿(方丈)、食堂(じきどう)、経堂(釈迦堂)などが建ち並んでいた。最盛期には9棟の所化寮(しょけりょう、学寮)があり、60室に100人以上の学僧が諸国より集ったという。経典収集、出版事業なども行われていた。
 近代、1875年、壇林は廃止になる。1878年、学舎の5つの建物が破却されている。
◆建築 山門、本堂(旧講堂)、方丈(客殿)、食堂(じきどう)、釈迦堂(旧経堂)、塔堂、鐘楼、庫裡、妙見堂、三十番堂、七面堂などが建つ。
 「本堂」(京都府指定有形文化財)は、壇林時代に講堂として使われていた。
 「食堂」も残されている。
 「開山堂」も建つ。
◆文化財 日像の遺品という「尊性法親王消息翻慴(ほんしゅう)法華経開結共十巻」(重文)がある。親王の消息24通を翻し料紙にしている。当時の宮廷、宗教界の状況を伝える。
 日像筆「本曼荼羅」1軸。
 日春の「万代制法」原本。
 鎌倉時代末の日像坐像、「教義書版木」、本堂の「壇林学徒の名札」などがある。ほかに、壇林で使われた「教義書」、学僧の規則集「定書」なども残る。
 文化財の一部は、南北真経寺が題目講を結成し、半年毎に交互に管理する習わしになっている。
◆日蓮宗・鶏冠井題目踊 鶏冠井町には、「鶏冠井題目踊」が伝えられている。
 鎌倉時代後期、日像は日蓮宗の布教を行う。真言寺住持の実賢が改宗し、関西初の日蓮宗寺院として真経寺と寺号も改めた。以後、鶏冠井村あげて法華信徒になる。江戸時代、1654年、真経寺は南真経寺、北真経寺に分かれ、石塔寺、興隆寺と日蓮宗の4寺のみが存在した。その後、興隆寺は石塔寺に吸収合併になる。
 鎌倉時代末より、南北真経寺で交互に、檀家による題目踊が伝えられてきた。音頭には、日蓮宗の平易な教説が織り込まれている。かつて、踊りは長男のみに伝承され、御霊宝開帳の際に踊る習わしになっていた。伝承があり、日像が布教に訪れた際に、村人が昼食の用意をしていると、炊煙が「南無妙法蓮華経」のお題目七文字を描いたという。村人はこれに驚き帰依し、踊り出したのが始まりという。
 踊り手は着流しの着物、手甲、白足袋に扇と菅笠姿を持つ。ほかに拍子木、太鼓たたき、音頭取りからなる。踊りは「序ひらき」「地築踊」「扇千鳥」「笠の 流し」「扇まぬけ」「居やゐ踊」「三笠踊」「たんだ踊」「蓮華踊」「拍子踊」「扇踊」「志具美(しぐみ)踊」「結踊終(みつじゅ)」の13曲がある。曲の終わりにお題目「南無妙法蓮華経」が唱えられ、太鼓、拍子木が打たれる。流しの手振り、室町時代の風流踊りを取り入れた踊りがある。
 一時は廃絶の危機にあった。「鶏冠井題目踊保存会」(石塔寺、南真経寺、北真経寺の檀家有志)が結成され、石塔寺の花まつり(5月3日)、高槻市の本澄寺の「竜口法難会」(10月12日)などで奉納されている。1985年、京都府指定無形民俗文化財に指定された。
◆鶏冠井 鶏冠井(かいで)の地名は、奈良時代の長岡京(784-794)の頃、九条蝦手(鶏冠井)里、弓絃羽(ゆずりは)里にあたる。蝦手井は「かえるてい」「かてい」「かいて」と読まれたとみられている。「かいて井」「かいて村」とも記されていた。
◆長岡京 境内の北半分は、かつての長岡京(784-794)の内裏後宮にあたり、登華殿、弘徽殿(こきでん)、貞観殿、淑景舎(しゅげいしゃ)などがあった。また、南門付近に内裏正殿が置かれていた。
◆桜 境内には多くの桜が植えられている。
◆年間行事 初講(1月第3日曜日)、盂蘭盆施餓鬼会(8月17日)、秋季彼岸会(9月)、星祭(2月6日)、鬼子母神会(9月7日)、御火焚祭(12月15日)、春季彼岸会(3月)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 向日市教育委員会等説明板、『京都おとくに歴史を歩く』『昭和京都名所図会 6 洛南』『京都府の地名』『京都府の歴史散歩 下』『事典 日本の名僧』『京都古社寺辞典』


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探玄窟

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鐘楼

八大竜王

鎮守社

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 北真経寺 〒617-0004  向日市鶏冠井町御屋敷28   075-933-7563
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