西往寺 (京都市下京区) 
Saiju-ji Temple
西往寺 西往寺 
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 高辻通に南面して西往寺(さいじゅうじ)が建つ。
 浄土宗、金戒光明法寺末寺、本尊は阿弥陀如来を安置する。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 江戸時代、1687年、仲秋の正日、宝誌立像は、光舟が伊豆国庭冷山(天嶺山?)より当寺に遷したという。(縁起)
◆宝誌 中国南朝の伝説的な僧・宝誌(ほうし、418-514)。説話は諸書にある。宋代465年頃に、都の建康郊外の鍾山に現れた。建元年間(479-482)より長髪に裸足で徘徊し、錫杖に鏡などを下げていた。酒肴を口にし、何日も食しないこともあったという。予言を行い、人の死を予期し、心中を言い当てた。分身し一時に数所に現れる。華林園内の仏堂で没したという。武帝は鍾山に開善寺を建立し、菩提所として手厚く供養する。また、人々が信奉したため、南斉の武帝は獄舎に捕えた。だが、保誌は分身し市中に現れ、予言した。武帝の亡き父・高帝が地獄で錐刀の極苦を受けている様を見せ、帝は錐刀の刑罰を止めた。建元年間(479-482)より宮中への出入も容認されたという。
 日本の『宇治拾遺物語』巻9には、宝志和尚として登場する。帝がその像を残そうとし、3人の絵師に描かせた。宝志は絵師たちに真影を見て描くようにという。宝志は、親指の爪で自らの額を裂くと、中より金色に輝く菩薩の面相が現れた。絵師の一人は十一面観音に、また聖観音にも見え、各々写し取り、帝に献上した。帝が宝志のもとに使者を遣すと、宝志は姿を消していたという。
◆仏像 かつて、平安時代、11世紀の木造「宝誌(ほうし)立像(宝誌和尚立像)」(重文)(159cm)を安置していた。像は、江戸時代、1687年、光舟が伊豆国庭冷山(天嶺山)より当寺に遷したものという。(縁起)。
 現在、静岡県伊豆河津町に天嶺山(てんれいざん、350m)があり、その北麓には南禅寺がある。奈良時代、749年に行基が開基した仙洞山那蘭陀寺(せんとうざん ならんだじ)が前身とされる。後に、山崩れにより一夜で埋没したという。現在の堂宇は江戸時代に再建された。現在も、平安時代前期、10世紀の24体の仏像、破損した仏像・神像も安置している。一部、宝誌立像との類似点も指摘されているが、南禅寺の仏像の造立年はやや早く、詳細は不明とされる。
 宝誌立像は、中国の僧・宝誌和尚が自らの面の皮を指で裂き、十一面観音の容貌を現したという伝承による。顔の中央が縦に開き、中より頭上面を頂いた菩薩面が新たに出現しようとしている。痩身の像は、左手に薬壺、右手を施無畏印を結び、蓮華座に立つ。像表面の全面にノミ痕を残した鉈彫像は、平安時代に東国を中心に流行した。木造、ヒノキ材、一木造、ナタ彫り、彫眼、素地。京都国立博物館寄託。
 宝誌像の例は、晩唐(836-907)頃の敦煌千仏洞壁画、1178年、周季常・林庭珪筆の大徳寺旧蔵「五百羅漢図」中「応身観音図」(ボストン美術館蔵)にも見られる。宝誌像は羅漢として描かれており、近代に大徳寺より流出した。また、奈良時代、奈良・大安寺に唐に渡った戒明が持ち帰ったという木像が安置されていたという。


*非公開
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 京都国立博物館のサイト、『京都で日本美術をみる』


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西往寺 〒600-8388 京都市下京区坊門町  075-811-7951
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