遣迎院 (京都市北区)
Kenko-in Temple
遣迎院 遣迎院
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蟇股は、材を受ける繰形(くりがた)付きのもので、蛙が足を広げた形に似ているところから名付けられた。次第に装飾材として用いられた。





桃隅蓋、隅蓋は取合部の防水のために用いられる。様々な形があり桃は魔除けの意味がある。



なまこ壁、壁に瓦が垂直に張られ、目地に漆喰で盛り上げている。その形が海鼠(なまこ)に似ていることから呼ばれた。風雨に強い。





「ゆけよ 遣釈迦 こいよ 迎弥陀 本尊」と書かれている。遣迎院の由来になる。
 鷹峯に遣迎院(けんこういん/けんごういん)はある。長屋門が北面して建つ。山号はない。 
 浄土真宗遣迎院派本山、本尊は釈迦如来・阿弥陀如来の二尊を安置する。
 京都七福神めぐりの福禄寿。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 鎌倉時代、1201年、1199年、1234年とも、証空により開山された。当初は、伏見大路の東(東山区、東福寺前三ノ橋南)にあったという。(『拾遺都市名所図会』『山城名跡志』)。証空に帰依した九条道家が住処し、後に仏閣としたともいう。浄土、天台、真言、律の四宗兼学道場になる。「四箇本寺」(ほかに、廬山寺、二尊院、般舟院)のひとつに数えられた。発遣釈迦、来迎弥陀の二尊を本尊とした。(『拾遺都市名所図会』)。
 1247年、証空は遣迎院で亡くなる。
 安土・桃山時代、1575年、定額寺になる。(『山城名跡巡行志』)
 1583年、1585年、天正年間(1573-1592)とも、二寺に分割され、一寺は旧地(東山区)に残り、浄土宗西山禅林寺派の南遣迎院になる。当遣迎院(北区)の前身は北之辺町(きたのべ、京都御所の東方、上京区寺町通り広小路上る)に移され天台宗となる。(『山城名勝志』)。以来、禁裏御内仏殿として寶祚無窮(ほうそむきゅう)を祈る道場になる。
 年代不詳、弘空が中興した。
 江戸時代、江戸・寛永寺の末となる。朱印寺領53石、寺地を得る。
 1708年、焼失した。
 1788年、焼失する。
 現代、1955年、1954年とも、現在の寺地(北区)へ移る。天台宗より、浄土真宗遣迎院派の本山になった。
◆証空 平安時代-鎌倉時代の僧・証空(しょうくう、1177-1247)。善恵房証空。鑑知国師、西山国師、弥天国師。京洛の村上源氏の流れをくむ久我一門源親季の長男。加賀に生まれたとも。1185年、内大臣・久我通親の猶子になり、道元の兄弟に当たる。1190年、14歳で出家した。当初、親季は許さず、一条戻橋での橋占いにより、僧が法華経普門品の偈を唱えながら橋を渡ったことから許したという。浄土宗開祖・法然の弟子になり、善恵房證空と名付けられた。以後、法然臨終までの23年間師事した。1198年、法然が九条兼実の請により、浄土宗の根本聖典「選択本願念仏集」を撰述した際に勘文の役を務めた。1199年、法然に代わり九条兼実邸で選択集を講じる。1207年、法然とともに遠流になる。慈円に預けられ京都に留まる。「七箇條起請文」を制定しその第四位に署名した。日野の願蓮に天台学、政春に台密も学ぶ。1211年、太子御陵に二重の塔を建て仏舎利を納めた。1212年、法然没後、1213年、東山小坂から慈円の譲りを受け、善峯寺中尾・蓮華寿院に入り、道覚法親王に譲り北尾往生院(三鈷寺)に移った。1215年、「観経玄義分観門義」を開講する。1217年、仁和寺経蔵より善導大師の「般舟讃」を発見した。1221年、往生院で初の不断念仏を行う。仰木の公円より伝法灌頂を受ける。1225年、慈円の臨終の善知識になる。1227年、嘉祿の法難に際し流罪を免がれる。西園寺公経の北山邸で念仏勧進をする。1229年、奈良・当麻寺の「観経曼陀羅」に感得した。寛喜年間(1229-1231)、関東から陸奥へ游化する。1230年、西山・三鈷寺塔を建てる。1231年、浄蓮寺、鵜野木光明寺を開基、復興した。1243年、第88代・後嵯峨天皇の勅により歓喜心院を創建する。1244年、生瀬浄橋寺の梵鐘鋳造になる。1247年、後の天台座主道覚法親王のために「鎮勧用心」を述べた。宮中で度々講じ円頓戒を授与した。建立した主な寺院は、西山善峯寺北尾往生院、歓喜心院、浄橋寺、遣迎院など11寺になる。浄土宗西山義の派祖。
◆本尊・寺号 寺名の「遣迎院」の「遣」とは、現世の仏である釈迦如来が「遣わした」往生者、発遣(ほっけん)の釈迦の意味になる。「迎」とは、来世の仏・阿弥陀如来が「迎える」という意味を表している。
 このため、西方極楽浄土へ送り出す釈迦と来迎の阿弥陀の二尊(釈迦如来、阿弥陀如来)を本尊にしている。二尊は、当初、藤原(九条)兼実の邸宅に安置されていた。
◆仏像 本尊の「阿弥陀如来立像」(90cm)(重文)は、鎌倉時代の仏師・快慶の作による。足枘(あしほぞ)に「巧匠安阿弥(あんあみ、快慶)」の銘が入る。鎌倉時代、1194年-1199年までの作による。胎内には阿弥陀如来の「摺り仏」が68枚納入されていた。平清盛、宗盛、源頼政、義経、義仲などの名も記されていた。中品下生の来迎印を結ぶ。木造、寄木造、玉眼入。
 本尊の木造「釈迦如来立像」(90cm)(重文)がある。左手に宝珠を持つ。木造、寄木造、玉眼入。
 聖天堂には、「福禄寿像」が安置されている。平安時代の慈覚大師(円仁、794-864)が唐より持ち帰ったという。福神、禄神、寿神の三神合体像になる。鹿の上に乗り、巻物を持つ。福寿、増長のご利益がある。京都七福神めぐりの福禄寿になる。
◆建築 「表門」は、備中高松城の城門を移した。
◆文化財 本尊の像内納入品の紙本「阿弥陀如来摺仏」など68枚(重文)がある。1枚の紙背に鎌倉時代、「建久五年(1194年)」の年記があった。
◆庭園 鷹峯、鷲峯を借景とした庭園がある。低く刈り込まれた大刈込が庭面を覆い、その間の飛石が奥へと向う。複数の北山杉が植えられ、借景の山が見えている。
◆黒戸四ヵ院 近代以前まで、「御黒戸四箇院(黒戸四ヵ院)」と呼ばれる4寺院があった。宮中の仏事を司り、仏殿を守った。4寺院は廬山寺(上京区)、二尊院(右京区)、般舟三昧院(上京区)、遣迎院(北区)であり、南北朝時代-近代以前まで続いた。住職晋山の際には参内し、紫の衣を贈られるのを慣例としていた。
 御内仏殿に黒戸を用いており「黒戸」、「黒戸の御内仏」ともいう。京都御所内には「黒戸の間」が残されている。
◆墓 釈迦谷墓地に初代・御薗常心(意斎、1557-1616)の墓がある。打鍼術を再興した。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都市の地名』『京都の仏像』『證空辞典』『昭和京都名所図会 3 洛北』『増補版 京の医史跡探訪』『京都 阿弥陀の寺と庭』『京都大事典』『京の福神めぐり』


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