八瀬 (京都市左京区)
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八瀬を流れる高野川(八瀬川)







「春さめの振はへて行く人よりは我先摘まむ八瀬川の芹」(「古今六帖」)


八瀬






八瀬の里、左は比叡山麓




「八瀬かま風呂」

 八瀬(やせ)は、東の比叡山と西の瓢箪崩山の間を流れる高野川の谷地の里をいう。旧愛宕(おたぎ)郡小野郷に属し、中世には八瀬庄(やせのしょう)ともいわれた。この旧若狭街道(大原街道、朽木越)沿いの里では、古くから薪炭の生産が行なわれていた。八瀬は、江戸時代には湯治場として知られていた。
◆歴史年表 飛鳥時代、672年、壬申の乱で、背に矢を受け傷ついた大海人皇子(おおあまのおうじ)は、この地のかま風呂により全治したとの伝承があるう。(『扶桑京華志』『雍州府志』)
 平安時代以来、八瀬童子は比叡山延暦寺とのかかわりが深かった。道案内、警護などで寺に貢献し、雑役を免除されていた。
 1019年、八瀬村が延暦寺領であると記されている。(『小右記』)
 11世紀(1001-1100)末、八瀬には座(宮座)があった。
 1159年、平治の乱で敗走した源義朝・頼朝父子の伝承が八瀬に残る。
 南北朝時代、1336年、足利軍の入京に伴い、北條氏に追われた後醍醐天皇は、八瀬童子により助けられ天皇一行を比叡山へと導いたという。 
 江戸時代、八瀬童子は、天皇の皇居内移動の際に乗る輿を担ぐ、臨時の駕輿丁役(かよちょうやく)などの朝廷への奉仕活動を行なう。
 1708-1710年、延暦寺との間で境界争いが起こる。
 1710年、秋元但馬守喬知が八瀬村の私領、寺領200石余りをほかへ移し、禁裏御料になった。年貢、諸役が免除になる。
 近代以降、八瀬童子は、天皇の大喪、大礼に駕籠丁として供奉した。
 1945年まで、八瀬村の地租免除が続く。
 現代、1949年、八瀬村は京都市に編入された。
 2000年、かま風呂が、京都市登録有形民俗文化財に指定された。『八瀬童子会文書』が復刻される。
◆八瀬 鴨川最大の支流・高野川は、上流域の大原では「大原川」、八瀬では「八瀬川」、下流域では「高野川と名を変え、鴨川に合流している。八瀬川は、平安時代中期-幕末に「垣川」とも呼ばれた。
 八瀬の地名の由来は、高野川(八瀬川)に瀬が多く見られることに由来するという。現在も、七瀬、余瀬(よせ)、野瀬(のせ)、大長瀬(おおながせ)、美濃瀬(みのせ)などの名が残されている。
 また、飛鳥時代、672年の壬申の乱で、甥の大友皇子との争いに敗れた大海人皇子(おおあまのみこ、おほしあまのみこ、天武天皇、631? - 686)が矢傷を負ったことから、「矢背(やせ)」とする伝承説もある。(『水鏡』『山城名勝志』)。さらに、八瀬の土地が「痩せ地」のためとする俗説ある。
 八瀬村は、古くより延暦寺領として租税、課役を負った。室町時代-江戸時代初期に、隣の高野郷との間で山林をめぐる抗争が続いた。延暦寺との間では後に、境界争い(1708-1710)が起こる。江戸時代、1710年以降は、全村が禁裏御料になった。
◆源氏 平安時代、1159年の平治の乱の際に、戦に敗れた源義朝が彫らせたという線刻の「かけ観音像」が、碊(かけ)観音寺に残されている。
 高野川の「義朝駒飛石」は、平安時代の武将・源義朝の馬が渓谷に差し掛かり足を滑らせた際に、この大岩にかかり一命を取り留めた伝承に因む。
 「甲ヶ淵」は、義朝一行が東国に落ち延びる際に、比叡山の法師に襲われた。家臣の斎藤実盛が、とっさに鎧、兜を川に投げ入れ、法師らがそれを奪い合う間に逃げ延びたとも伝えられる。
 八瀬八幡宮の「矢負地蔵」は、源平合戦の犠牲者を弔うためのものといわれる。「弁慶背比べ石」は、比叡から下りた弁慶が背比べをした石という。
 なお、大原路は木曽(源)義仲、土佐房昌俊の敗走の道との言い伝えもある。
◆八瀬童士 八瀬童子は、「鬼の子孫」との伝承があり、瓢箪崩山中腹には、「鬼洞」(おにがほら)という洞穴もある。
 八瀬童子の童子とは、本来は寺院内の実務労働する階層の人たちをいう。八瀬童子は平安時代以来、比叡山延暦寺とのかかわりが深く、道案内、警護などで寺に貢献し、雑役を免除されていた。
 平安時代末期、八瀬童子は禁裏の警護に就いていた。 
 足利軍の入京に伴い、北條氏に追われた後醍醐天皇(1288-1339)を、八瀬童子が助けたという伝承が残る。南北朝時代、1336年、里人は弓矢を持ち、輿を担いで天皇一行を比叡山へと導いた。その後、後醍醐天皇は京を脱出し、吉野で南朝(大和国吉野行宮)を開く。以来、南朝と北朝(山城国平安京)の二つの朝廷が並存する南北朝時代(1336-1392)が続いた。
 この時の八瀬童子の貢献によって、13の国名(くにな、「河内」「和泉」「丹後」「但馬」など当初は13、江戸時代には92になった)が与えられ、諸役免除の特権も与えられた。特権は以後も引き続き、江戸時代中期には年貢諸役免除となり、何らかの特権は、第二次世界大戦終戦時まで続いた。
 八瀬童子は、江戸時代、天皇の皇居内移動の際に乗る輿(こし)を担ぐ、臨時の駕輿丁役(かよちょうやく)など、朝廷への奉仕活動を行なった。明治期以降、駕輿丁役、さらに大役の大喪、大礼の際の駕輿丁奉仕が加わった。八瀬童子の家々では、明治期まで、枕元に提灯と草鞋を置いて寝た。御所で何らかの異変にすぐに対応するためだった。
 昭和天皇大喪の際には、八瀬童子による駕輿丁役奉仕はなく、参列・霊柩奉仕が行なわれた。また、葵祭「路頭の儀」における行列奉仕が今も行なわれている。
◆座 11世紀末、八瀬には「座」(宮座)があった。これは産土神を祀る鎮守社の神事組織で、里人により構成され、中世には各地に広まった。
◆小原女 薪炭を産した八瀬では、11世紀末・12世紀中期-昭和初期頃まで、「小原女」(おはらめ)と呼ばれる女性が、炭や薪、蔬菜草花などを頭に乗せて京へ売りに出た。「八瀬女」との呼び名もある。江戸時代の書物に、「八瀬の黒木(柴)売、大原の柴うり」として描かれている。
 なお、大原の「大原女」(おはらめ)も「小原女」とも書いた。小原女と大原女は、紺衣に御所染めの帯、立掛を着け、白地の脚絆手甲を穿ち、頭に染め模様の手拭を被る装いになる。それぞれに違いがあり、互いに競い合った。
◆かま風呂 「八瀬かま風呂」は、高野川河畔の料理旅館「八瀬かまぶろ温泉ふるさと」(近衛町)に設置されている。
 飛鳥時代、672年の壬申の乱で、背に矢を受け傷ついた大海人皇子(631?-686)は、この地のかま風呂により全治したという。(『扶桑京華志』『雍州府志』)
 蒸し風呂は、室町時代より使用していたという。かま風呂は、安土・桃山時代よりあった。薬風呂として中世以降利用され、岩倉などにもあったともいう。安土・桃山時代の『言経卿記』、江戸時代の『雍州府志』にも記されている。江戸時代、1715年に16軒あった。1780年には7、8軒存在したという。(「都名所図会」)。現在は1基だけが残されている。
 八瀬かま風呂は、現在、八瀬童士会(1884年結成)が所有、管理している。かま風呂は、第4回内国博覧会記念のために、1895年に造られた可能性が高いという。土石で作られており、江戸時代の系譜を引く唯一のものになる。かま(直径3.5m、高さ2.4m、7㎡)の中で青松葉、生木などを焚き、摂氏45度前後に一度土を暖める。灰を取り、塩水に浸した筵を敷いて木枕を置き寝る。蒸風呂でありサウナ形式であり、千利休も利用したという。
 2000年、京都市登録有形民俗文化財に指定された。
◆文学 1907年4月、夏目漱石は八瀬より比叡山に登った。『虞美人草』では甲野と宗近という登場人物が、この辺の女性は綺麗だとして、大原女、八瀬女について語っている。 


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都の地名検証』『文学散歩 作家が歩いた京の道』『京都隠れた史跡の100選』『京都発見三 洛北の夢』『京都大事典』『古代地名を歩くⅡ』


   八瀬天満宮社     延暦寺・東塔(大津市)              

八瀬かまぶろ温泉ふるさと、八瀬川(高野川)河畔にある。

【参照】大原女、時代まつり、京都御所

愛宕石塔と「外井戸」
愛宕社の火の神「あたごさん」が祀られている。


共同洗い場「外井戸」
 八瀬 京都市左京区八瀬近衛町、秋元町 

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