地祇神社 (京田辺市)
Chigi-jinja Shrine

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覆屋、本殿、拝所

末社右より祈雨神社、天満宮
 観音寺の北西に隣接して、小社の地祇神社(ちぎ じんじゃ)がある。かつて「ちのき」「くにつやしろ」「くにつかみ」「くにかみ」「くにつ/くにつじんじゃ」などと記された。 
 祭神不明。また、本殿に大国主神(おおくにぬしのかみ、地主神)、息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)、大山祇神(おおやまつみのかみ、山王権現)を祀るともいう。
 末社・天満宮に菅原道真(すがわらのみちざね)、祈雨神社に彌都波能売命(みずはのめのみこと)、白山神社を祀るともいう。
 式内社。平安時代、『延喜式神名式(延喜式神名帳)』(927)中「十四座 大三座 小十一座」の「地祇神社」に比定されている。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 かつて、観音寺境内の北東に祀られていたという。
 平安時代、927年、『延喜式神名式(延喜式神名帳)』中「十四座 大三座 小十一座」の「地祇神社」に比定されている。
 室町時代、天文年間(1532-1555)、現在地に遷されたという。(社伝)。その後、権現大明神と呼ばれたともいう。
 1533年、北に「御霊天神」、南に「地主権現」として描かれている。(「興福寺別院山城国綴喜郡観心山普賢教法寺四至内之図」、1428年改正、1533年再画)
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、「大御堂(観音寺)」、「大講堂」が描かれ、「普賢教寺」の東、南北に「御霊社」「地主社」が描かれている。(「筒城郡朱智荘佐賀荘両惣図」)
 江戸時代、1711年、「大御堂(観音寺)」の西山麓、北に鎮守社の「権現大明神」、南に「地主権現」が記されている。(「山州名跡志」)
 1754年、「地祇ノ神社」は「権現大明神」とされ、「地主権現ノ社」は式内社として記されている。(「山城名跡巡行志」)
 近代、明治期(1868-1912)初期、地主神社と呼ばれていた。(案内板)
 1877年、式内社に比定された。また、古くより地主神社と誤って呼ばれていたと記されている。(「綴喜郡神社明細帳」)
◆祭神 祭神についても諸説あり、大国主神(地主神)、息長帯比賣命(神功皇后)、大山祇神(山王権現)とみられいる。
 社伝として御霊天皇(第26代・継体天皇)、山王権現(第14代・仲哀天皇の神功皇后)ともされた。(「綴喜郡神社明細帳」)。
◆大西敏元・大西屋敷 石段に室町時代、「天文十幸丑年(1541年)卯月吉日 大西備前守」の銘が残る。
 大西備前守とは室町幕府15代将軍・足利義昭の家臣・大西敏元であり、大御堂西の山麓、上村に大西屋敷(大西館)が築かれていた。(「筒城郡朱智荘佐賀荘両惣図」「興福寺別院山城国綴喜郡観心山普賢教法寺四至内之図」)
 1573年、宇治・槇島城の戦いで敏元は義昭とともに織田信長との戦い敗れ、事実上、室町幕府は滅亡する。その後、敏元は義昭とともにこの地に逃れたという。さらに、敏元は同年の河内・若江城の戦いで城に籠り討たれたという。
◆建築 瓦葺の覆屋の中に東面し本殿がある。三間社流造、板葺、正面三間・奥行一間。
◆文化財 境内の石灯籠に安土・桃山時代、「永禄二年(1559年)」の銘がある。 
◆年間行事 歳旦祭(1月1日)、例祭(10月8日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』、京田辺市教育委員会の案内板


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地祇神社 〒610-0322  京田辺市普賢寺下大門65 
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