聴松院 〔南禅寺〕 (京都市左京区)
Chosho-in Temple
聴松院 聴松院 
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「大聖摩利支尊天」の石標






西門












狛猪





 南禅寺境内北西に塔頭の聴松院(ちょうしょういん)がある。山門は南面して建つ。かつて瑞松庵と称した。
 臨済宗南禅寺派大本山。本尊は摩利支天を安置する。開運勝利、福利円満、万難消除などの信仰を集める。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 鎌倉時代-南北朝時代、天境霊致(1291-1381)の塔頭・善住庵があった。清拙正澄(1274-1339)の塔所として創建される。
 南北朝時代、1334年、武将・大友貞宗は上洛後、病のため聴松院(瑞松庵?)で急逝した。
 清拙正澄(1274-1339)は塔頭・瑞松庵を創建する。清拙の塔所になるともいう。(「雍州府志」)
 1381年、天境霊致の没後、斯文正宣が善住庵を継承した。
 室町時代、1433年、善住庵は焼失し、再興されず一時、廃絶する。
 1447年、雲興庵より発した火は南禅寺を焼失させ、雲興庵もまた焼失した。
 1453年、斯文正宣の法嗣・清拙正澄は、建仁寺・雲興庵の旧地に祖塔を復興し、檀越・細川満元の号により聴松院を創建した。(「雍州府志」)。聴松院は、清拙正澄の塔の創建、善住庵の復興を期したものとなる。
 応仁・文明の乱(1467-1477)により、聴松院は焼失した。
 1483年、希世霊彦は聴松院を再興した。
 足利義教(1394-1441)、足利義晴(1511-1550)も長く聴松院に宿して要害の地としたという。(「雍州府志」)
 1529年、武将・細川満元が瑞松院に帰依し、瑞松庵を再興して聴松院に改めたともいう。(「雍州府志」)
 1534年、足利義晴が近江より聴松院に入る。
 足利義輝(1536-1565)の寵童・松井佐渡守(松井興長、1582-1661)も当院の檀越になったという。義輝が院を建てたという。(「雍州府志」)
 1597年、玄圃霊三は聴松庵に退隠する。
 武将・織田信長(1534-1582)も院にしばらく止宿した、武将・蒲生氏郷(1556-1595)も訪れたという。(「雍州府志」)
 安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1615)、摂州大坂陣の後、藤堂高虎はしばらく聴松院に寓居し、書院を建立したという。南禅寺の三門が荒廃しており、後の1628年に再興した。(「雍州府志」)
 江戸時代、元禄時代(1688‐1704)より、名物の湯豆腐を寺で供する。
 1759年、龍堂正旬は印金法衣を売却、西奉行所はこれを買い戻す。
 1761年、龍堂正旬が追放される。
 現代、2007年、院内の湯豆腐料理店は廃業になる。
◆清拙正澄 鎌倉時代末期-南北朝時代初期の僧・清拙正澄(せいせつ しょうちょう、1274-1339)。臨済宗破庵派。諡号は大鑑禅師。福州に生まれた。松源派の月江正印の俗弟。日本禅宗大鑑派の祖。杭州・浄慈寺の愚極智慧の法を嗣ぎ、袁州の鶏足山聖因寺、松江(江蘇省)・真浄寺に住した。1326年、来日し、北条高時の招きで鎌倉・建長寺に住し禅規を刷新した。浄智寺、円覚寺、さらに後醍醐天皇の勅命で建仁寺、南禅寺などに住した。1335年、信濃守護の小笠原貞宗の招きで信濃伊賀良の畳秀山開善寺の開山になる。清規(しんぎ)は小笠原流礼法と関わる。建仁寺・禅居庵で没した。『大鑑清規』を著した。
◆大友貞宗 鎌倉時代末期の武将・大友貞宗(おおとも さだむね、1311-1333)。大友氏の第6代当主。父は第4代当主・大友親時。1311年、兄・貞親の死去に伴い後を継いで当主になる。鎌倉幕府が派遣していた鎮西探題・北条英時に仕える。1333年、後醍醐天皇の密命により攻めた菊池武時を英時、少弐貞経らと共に破る。九州の討幕軍追討、足利尊氏らによる六波羅探題攻略後、英時から離れ貞経や島津氏らと英時を滅ぼした。その功績により豊後国の守護職を与えられたが、上洛後、病のため聴松院で没した。
◆細川満元 室町時代の守護大名・細川満元(ほそかわ みつもと、1378-1426)。細川頼元の長男。1397年、父の死去により家督を継ぎ、摂津・土佐・讃岐・丹波守護。1412年、管領職に就く。4代将軍・足利義持を補佐し、守護連合制度の確立に努めた。1421年、管領を辞任。官位は右馬頭、右京大夫。
◆希世霊彦 室町時代の僧・希世霊彦(きせい れいげん、1403-1488/1489)。諡号は慧鑑明照禅師。京都に生まれた。幼くして南禅寺善住庵の臨済宗大鑑派・斯文正宣に師事、細川満元の養子になる。8歳で足利義持に従い北朝第6代・後小松天皇に拝謁、詩文を披露する。17歳で出家、江西竜派・惟肖得巌に学び、五山の漢詩文を究めた。聴松院を開創した。著書に『村庵藁』など。五山文学僧。
◆玄圃霊三
 室町時代-江戸時代の臨済宗の僧・玄圃霊三(げんぽ れいさん、1535-1608)。1578年、喜山宗雲寺(久美浜町)の中興開山になる。1586年-1593年、南禅寺第266世。1592年、豊臣秀吉の朝鮮出兵に際し、外交僧として従軍した。東福寺・惟杏永哲、相国寺・西笑承見らとともに秀吉参謀役として朝鮮との交渉にあたる。1597年、聴松庵に退隠、その後も宗雲寺住持を兼ねた。1602年、荒廃していた南禅寺・天授庵再興のため、弟子・雲岳霊圭を天授庵主とした。金地院崇伝は玄圃に師事し出家した。墓は宗雲寺にあり、聴松院にも分骨されている。
◆建築 書院は武将・藤堂高虎(1556-1630)の建立という。
◆庭園 この地は、鎌倉時代の第90代・亀山天皇(1249-1305)の離宮跡という。
 現在の、池泉回遊式庭園は室町時代後期の相阿弥(生没年不詳)の作庭ともいわれる。
 江戸時代、1799年の『都林泉名勝図会』にも記されている。「庭に碼碯の水鉢あり又菅神夢想の名松あり老木の大樹にてありしが近年衰枯して朽ちたり…」など記されている。
 今もアカマツが植えられている。紅葉で知られている。
◆摩利支尊天 摩利支尊天は鎮守社になる。開祖・大鑑禅師(清拙正澄)が中国・元から将来したものという。
 秘仏の摩利支尊天の図像は、顔は天童女で三面六臂、正面の顔は三眼で右面を猪面、頭上に宝塔を載き、手に宝剣、無憂樹、弓矢、針と糸を執る。輪宝をあしらう火焔光背を背に負い、甲冑を着け正面一頭、左右に3頭の猪上の台座に坐る。
 建仁寺塔頭の禅居庵に祀られている摩利支尊天前立本尊とほぼ同じ姿をしており、関連も指摘されている。
◆狛猪 本堂両脇に阿吽一対の狛猪がある。「明治二十五年(1892年)」の銘が入る。体毛を表す細かいノミ跡がある。
◆文化財 安土・桃山時代、1587年の絹本著色「細川蓮丸像」1幅(重文)がある。「天正十五年(1587年)梅谷元保」の賛がある。細川幽斎の5男の蓮丸(?-1587)は、1587年7月8日に12歳で病死したとみられている。絵は死後間もなく描かれた坐像であり、写実的な数少ない武家の少年像とされている。小袖に美しい辻ヶ花染とみられる模様が描かれていることでも知られている。
 南北朝時代の絹本著色「天境霊致像」(重文)。
 清拙正澄の所用という「九条袈裟」がある。
◆湯豆腐 江戸時代、元禄時代(1688‐1704)より、名物の湯豆腐を寺で供したという。2007年、湯豆腐の料理店は廃業になる。
 現在の無鄰菴の地にはかつて、豆腐茶屋「丹後屋」の南禅寺参道に屋号「口丹」が営業していた。ほかに「中丹」「奥丹」があった。現在も営業を続けている南禅寺境内の「奥丹」は、近代になり再興されたものという。
 なお、「奥丹」では、江戸時代、1635年に創業、当初の屋号は「奥の丹後屋」としている。 
◆花暦 庭園に楓がある。
 本堂前に、白梅の古木があり、早咲きで知られている。
◆文学 作家・谷崎潤一郎(1886-1965)は、南禅寺に近い下河原町(「前の潺湲亭」)に一時住んだ。飼い犬の「熊」が当院に迷い込んで以来、寺とは懇意になった。谷崎は庭も気に入ったらしく、散歩の途中に立ち寄っていたという。
◆墓 玄圃霊三が分骨されている。


*摩利支天堂のみを公開
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『旧版 古寺巡礼京都 12 南禅寺』『南禅寺史 上』『京都・美のこころ』『岡崎・南禅寺界隈の庭の調査』『文学散歩 作家が歩いた京の道』


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聴松院 〒606-8435 京都市左京区南禅寺福地町  075-761-2186
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