源光院 〔知恩院〕 (京都市東山区) 
Genko-in
 Temple
源光院 源光院 
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 源光院(げんこういん)は知恩院の塔頭の一つになる。 
 浄土宗。本尊は阿弥陀如来。
◆歴史年表  創建、変遷の詳細は不明。
 近代、1868、知恩院山内、源光院に仏教の講究機関を設置した。佛教大学(北区)の前身となる
 1870年、源光院に仮勧学場を設置する。
 現代、1946年、磯田多佳女の一周忌に追善の演芸会が催された。
◆磯田多佳 近代の芸妓・磯田多佳(いそだ たか、1879-1945)。本名は「たか」。お茶屋「大友」(下京区祇園本吉町)に生まれた。父は舞鶴田辺藩・武士の喜間太、母・ともの二女、姉は祇園一力亭の女将・おさだ。6歳で井上八千代に入門、1885年、第十五区尋常小学校入学(現、弥栄中学校)、1889年、小学校を4年で卒業し「女紅場」に入学、10代で芸妓になる。1902年、落籍した中島が死去、「大友」で芸妓に戻る。家業を継ぐ。1903年、画家・浅井忠と中村楼で出会う。1907年、浅井の勧めにより陶器を扱う「九雲堂」(四条通)を開く。1908年、「中村楼」で上田敏と出会う。1909年、「九雲堂」を兄に任せ、「大友」に戻る。1912年、谷崎潤一郎が「大友」を訪ねる。1915年、夏目漱石が「大友」を訪ねた。1945年、3月、建物強制疎開により「大友」が破却される。5月、逝去した。
 舞、三味線、絵、歌、俳句などを嗜んだ。上田重子、三輪貞信に和歌、浅井忠に画を学び、夏目漱石、谷崎潤一郎、吉井勇などの文学者と交流し、「文学芸妓」と呼ばれた。
◆磯田又一郎
 近現代の日本画家・磯田又一郎(いそだ またいちろう、1907-1988)。京都生まれ。多佳女の嗣子。京美大卒。菊池契月、宇田荻邨に師事。日展、帝展、文展で受賞した。日展会友。関西美術展審査員。
 花鳥、人物画を描く。都をどりのポスターの原画も手掛けた。
◆上田敏 近代の文学者・翻訳家・上田敏(うえだ びん、1874-1916)。号は上田柳村。東京生まれ。旧幕臣・上田絅二の長男。静岡尋常中学、私立東京英語学校、第一高等学校で北村透谷、島崎藤村らの文学界同人となる。東京帝国大学英文科に入学、小泉八雲に学ぶ。1895年、第一期帝国文学の創刊に関わる。1897年、帝大卒後、東京高等師範学校教授、東大講師。1902年、主宰誌『芸苑』と廃刊した森鴎外の主宰誌『めざまし草』を合併し、『芸文』を創刊。1908年、欧州留学、帰国後、京都帝国大学教授。この頃、菊池寛が師事した。1910年、慶應義塾大学文学科顧問に就任。
 「山のあなたの空遠く 『幸』住むと人の言ふ」(カール・ブッセ「山のあなた」)などの訳詩で知られた。
◆源光院・多佳女 戦前の源光院は、一時、知恩院の塔頭ではあるものの、某氏が知恩院より借り受け、私邸として使われていたという。
 かつて、庫裡二階には文学者・上田敏が住んだ。多佳女の嗣子又一郎も10年ほど住み、後に南禅寺畔の家に移ったという。
 多佳女は寺の庭を愛し、しばしば訪れては、一人で三味線などを弾いていたという。(谷崎潤一郎『磯田多佳女のこと』 )


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都の明治文学』『磯田多佳女のこと』


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源光院 〒605-0062 京都市東山区林下町416  
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