野間玄琢廟所 (京都市北区)
NOMA Gentaku's Mausoleum
野間玄琢廟所 野間玄琢廟所 
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「野間玄琢廟所」の石碑



野間玄琢の墓「寿昌院野玉岑先生之墓」と刻まれている


曲直瀬東井玄朔の墓



一渓道三の墓
 洛北・玄琢(げんたく)は、江戸時代初期の医師・野間玄琢(のま げんたく)が居を構え、薬草園を開いたことが地名の由来になる。 
 住宅地の一角に野間玄琢廟所(のまげんたく びょうしょ)があり、顕彰碑が立てられている。かつてこの付近は野間家の領地であり邸宅があった。同じ敷地内に野間家の墓がある。
◆歴史年表 江戸時代、1615年、野間玄琢は現在の玄琢の地(愛宕郡大宮村東紫竹大門小字三築/三筑)に、33石1升5合の領地を拝領する。野間玄琢はこの地に居を移し薬草園(100m四方)を開いた。
 1645年、野間玄琢が亡くなり、この地に葬られた。
 1676年、玄琢の子・野間三竹が亡くなり、この地に葬られる。
 1858年、野間家より武内元寿に領地が売渡される。
 近代、1869年、野間一族は、東京遷都に伴い東京に移る。武内元寿は三筑村の18軒の農家に土地売渡する。
 現代、1957年、野間玄琢没後312年に際し、18軒の町民により玄琢廟所碑が立てられた。
◆野間玄琢 江戸時代前期の医師・野間玄琢(のま げんたく、1590-1645)。山城国生まれ。成岑。号は白雲老人。父は医師・宗印。幼くして東井の門に入り、2代・曲直瀬玄朔(まなせ げんさく)に学ぶ。1605年、16歳で助手となり弟子を教育した。1615年、現在の洛北・玄琢の地を拝領する。居を移し薬草園を開く。1623年、法印、寿昌院の号を得る。1626年、二条城で徳川秀忠に謁した。江戸に秀忠の侍医として赴く。家光の信頼を得る。1636年、第108代・後水尾天皇中宮・東福門院の診療のために帰洛、平癒したため、以後、禁裏付の医師となる。後宮に仕えた。領地が隣接していた本阿弥光悦と親交した。『群方類稿』を著す。墓は野間家墓地にある。
◆野間三竹 江戸時代前期の儒医・野間三竹(のま さんちく、1608-1676)。名は成大、号は柳谷など。野間玄琢の子。儒を松永尺五(昌三)に学ぶ。法橋に叙せられる。寿昌院の号を継ぐ。俳句をよくした。石川丈山、本阿弥光悦、吉田(角倉)素庵らと親交した。詩仙堂の丈山とは、互いに落ち葉を焼き煙で交信していたという。『北渓含毫』を著す。墓は野間家墓地にある。
◆玄琢 玄琢の地名について変遷がある。
 鷹峯の東、大宮南西付近を玄琢(げんたく)と呼ぶ。北東町、北町、南町などがある。かつては愛宕郡大宮村東紫竹大門小字三築(三筑)と呼ばれたという。この「三築」は、玄琢の子に「三筑」という人があり、野間家を継承するに当たり地名も一時期「小字 三筑」と称されたという。(野間玄琢廟所維持会の説明板)
 後、野間玄琢に因み「玄琢」と呼ばれた。「小字 玄沢(壇林)」とも書かれた。(「京都府愛宕郡志」)。野間家領地内には「白雲渓」という呼び名もあり、ここは邸宅になっていた。
 また、近代に入り、京都市に併合されるに至り現在の「玄琢」となったという。(野間玄琢廟所維持会の説明板)
◆石碑 1957年、野間玄琢没後312年に際し、石碑が立てられた。野間家の領地を譲り受けた玄琢18軒の農家の功を称える頌徳碑になる。台石は鞍馬石、碑石は紙屋川の自然石で、「野間玄琢 廟所」と刻まれている。
 この碑の奥が白雲渓と呼ばれ、かつて野間家の邸宅があった。なお、白雲渓は、京都市編入に際して、18軒の共有財産になった。
◆墓 石碑に隣接して野間家の墓地があり14人が葬られている。野間玄琢夫妻、玄琢の両親・宗印夫妻、玄琢の子・野間三竹夫妻、そのほかの一族とともに、医師・曲直瀬東井玄朔(2代道三、1549-1632/1631)、医師・一渓道三(曲直瀬道三、1507-1594)などになる。
◆年間行事 法要(8月17日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 野間玄琢廟所維持会の説明板、『増補版 京の医史跡探訪』『京都大事典』『京都隠れた史跡100選』『京都市の地名』『大日本人名辞書』

 
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野間玄琢廟所 〒603-8461 京都市北区大宮玄琢北東町7-18 
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