安楽寺 (京都市北区大森)
Anraku-ji Temple
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「文徳天皇第一皇子 惟喬親王遺跡」の石標


「忘れては夢かとそ思ふ思ひきや雪ふみわけて君を見むとは」の石標、在原業平、「古今集」巻18、雑歌下・970。『伊勢物語」第83段「小野の雪」


境内よりの遠景
 北区大森は小野郷と呼ばれている。安楽寺(あんらくじ)は、現在、柴地に覆屋のみが建つ。平安時代の惟喬親王の創建によるとの伝承がある。山号院号は金輪山小野院と号する。
 現在は無住であり、地域により管理されている。
 真言宗東寺派。本尊は薬師如来坐像。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 平安時代、惟喬親王(844-897)の創建によるという。この地に、長く住したとの伝承が残る。
 暦応年間(1338-1342)、大森東町北東の山中より現在地に堂が移されたという。
 南北朝時代、1341年、安楽寺に宝篋印塔が立てられたという。
 江戸時代、1695年、本堂内に本尊、向かって右に惟喬親王の神輿、左に親王位牌が安置されていたと記されている。(3村38人の京都町奉行代官・小堀三郎宛「安楽寺五座下書」、今北平治文書)
 1754年、当寺の記述があり、本尊安置の厨子内に2仏、本堂前に2銘を持つ鐘楼があったという。現在はいずれも失われている。(『山城名跡巡行志』) 
◆惟喬親王 平安時代の皇族・惟喬親王(これたか しんのう、844-897)。第55代・文徳天皇の第1皇子、母は紀名虎の娘・静子。850年、右大臣・藤原良房の娘・明子との間に第4皇子惟仁親王が生まれ、惟仁親王(第56代・清和天皇)が皇太子となった。先例のない皇位継承は、文徳天皇の良房への気兼ねと、惟喬親王の母が藤原一門ではなく紀氏の出自だったためともいう。皇位を失った惟喬親王は、858年、大宰師、弾正尹、常陸太守、872年、上野太守などの役職を歴任した。872年、病となり出家、素覚と号し洛北小野に隠棲した。惟仁親王立太子の際に出家したともいう。岩屋山金峯寺に宮を建て住んだともいう。耕雲入道と名乗り、宮を耕雲寺(高雲禅寺)としたともいう。在原業平、紀有常らも親王の元を訪れたという。その後、病に倒れる。死期迫り、御所の川上の地を避け、さらに北にある小野・大森の地へ移り亡くなったという。
 懇意にしていた在原業平が小野の宮を訪ねた。親王は「夢かとも なにか思はむ うき世をば そむかぐりけん ほぞくやしき」の返歌をした。
 親王は、各地で木地師の祖との伝承が残っている。
◆仏像 中央壇上厨子内に本尊のほぼ半丈六の「薬師如来坐像」(114.7㎝)を安置する。平安時代初期作とみられる。円仁(794-864)作ともいう。江戸時代、1685年、京仏師・井上七兵衛が修理を施している。ただ、後補は少ない。量感、存在感があり、上体は後ろに反る。頭部は大きく表され、螺髪はない。肉髻珠、白毫は失われている。眼は異様に見開き、耳は幅広で大きい。体部、足膝部は小ぶりで頭部との均衡を破る。左手は肘を曲げ、胸前高く掲げ薬壺を載せる。右手は膝上に載せ掌を開く。大衣は、陰刻線により全体として硬い。頭頂より腹部にかけて耳前で前後に剝ぎ、別材を充てる。背面体部に浅い内刳り。ヒノキの巨材、両手首先、背面材を除いて一木造。
 向かって右に「僧形坐像」、左に古様の「破損仏像(如来形立像)」、「天部形立像」とされ四天王の一体を安置する。
 「僧形坐像」(59.3㎝)は、老僧像であり異形の相貌を見せ結跏趺坐している。顔は四角く大きく、表情は厳しい。眉も目も太く、口はへの字に結び、額、目尻、口元にも陰刻で深い皺が刻まれている。僧衣は両肩を被い、左肩に袈裟、胸元はあばらが見えている。衣文は簡潔、等間隔に表されている。主部は縦木一材に、足膝の前面に横木を寄せている。内刳りはない。別材の頭頂部、両手首先は失われている。足膝部に頭体部との接着のために設けた丸ほぞの木口2つがそのまま見えている。ヒノキ材。
 「破損仏像(如来形立像)」(161.2㎝)は、両手首を欠き、足元も傷み自立できない。頭部は小ぶりで螺髪は見られない。7等身の体形で肩はやや広く、腹部、大腿部がほかに比べて異様に長い。大衣は左肩に懸かり右肩は偏衫、裳を着ける。両腕から腹部にかけて衣文が垂れる。偏衫(へんざん)の衣文は肩から流れ、垂れ右腕に懸かる。肘より下の衣端部の左右に、旋転形(螺旋、渦)状が見られる。右に5個、左に10個左側面に1個ある。頭頂より蓮肉までは一材、後頭部、体部背面を矧木を使った。
 「天部形立像」(102.2㎝)は、持国天、増長天のいずれかとみられている。兜を被り、革鎧を着けた短躯の肥満形になる。右肩先、左手首先、左方兜の縁、両石先などが欠落している。左手は下げ、左足は踏み出している。表情は厳しく、眼をむき、口はへの字に曲げる。眉、ほうれい線の皺が、顔中央でXの形に深く刻まれている。破損仏像(如来形立像)の仏師作風に近い。右肩、両手首で矧ぎ、右足後ろに一材を補う。ヒノキ材。一木造。
 本尊脇壇向かって左に神輿形の神殿(神祠)があり、「御霊神社」と呼ばれている。神璽(しんじ、天子の印、御璽)、祭神の「惟喬親王像」を安置している。神殿は、親王の遺骸を担いだともいう。
 江戸時代、本尊厨子内に阿弥陀如来、不動明王の木像が安置されていたとの記述がある。現在は失われている。(「山城名跡巡行志」、1754年)
 江戸時代、本堂内中央に本尊、向かって右に惟喬親王の神輿、左に親王の位牌が安置されていたと記されている。(「安楽寺縁起由来記」、今北平治文書、1832年)
◆建築 現在は覆屋、五間四間の単層入母屋造が建つ。内に、脇壇向かって左に神輿形の神殿がある。
 江戸時代、本堂前に鐘楼が建ち、南北朝時代、1341年、室町時代、1496年の銘があったという。
◆文化財 「金輪山安楽寺薬師如来縁起」1巻は、江戸時代、1734年に清和密院(せいわみついん)・権僧正亮海(ごんのそうじょう りょうかい)が住僧・光宥(こうゆう)の求めにより記したという。その後、失われたともいう。
 書写「安楽寺絵図」、いずれも東河内村所蔵。
◆祭礼・座 江戸時代、惟喬親王を祀る御霊神社の祭礼(9月16日)に、寺では法会が行われていた。親王に従ったという周辺の5座(東河内村、西河内村、中村、伊賀土村、井倉村)により神事が執り行われた。正陣の神事を担った2座(東河内村<色種座>、伊賀土村<流鏑馬座>)は、かつて親王の葬列に際し輿舁(こしかき)を担っていたとの伝承に因む。この2座は精進潔斎し、そのほかは魚類により勤めたとある。(3村38人の京都町奉行代官・小堀三郎宛「安楽寺五座下書」、今北平治文書、1695年)
 その後、正陣の神事は東河内(左座)、西河内(右座)、中村(右座)の3座のみにより奉仕された。(「安楽寺縁起由来記」、今北平治文書、1832年)
◆祭礼 祭礼(10月14日)。


*普段は非公開。 
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都市の地名』『京都大辞典』『古佛』『京都発見三 洛北の夢』


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安楽寺 〒601-0145 京都市北区大森東町109大堂ノ本(おおどうのもと)  
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