名和長年討死の地・一条院跡 (京都市上京区)
The ruins of Ichijo-in(Palace)

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 糸屋町の名和児童公園内東に、「名和長年戦死の地(なわ ながとし せんしのち)」の顕彰碑(10m)が立つ。南北朝時代の武将・名和長年は、この地で足利尊氏に討たれたとされている。また、平安時代中期には、里内裏の一条院が置かれた。 
◆歴史年表 南北朝時代、1336年、天皇方と足利方の京都合戦により、武将・名和長年はこの地で足利尊氏と戦い討死したという。
 近代、明治期(1868-1912)初め、旧井戸より名和のものとされる鎧の一部が発見されたという。
 1886年、三条実美が碑を建立する。
 1939年、地域の「名和会」が宮、顕彰碑を建立した。
 現代、1945年以降、名和会は解散、宮は破却された。 
◆名和長年 鎌倉時代-南北朝時代初期の武将・名和長年(なわ ながとし、?-1336)。伯耆国名和の豪族(海運業者とも)・行高の子。1331年、第96代・後醍醐天皇は、元弘の乱の討幕計画により隠岐島に流罪となる。1333年、名和は島を脱した天皇を船上山(鳥取県東伯郡)に迎え、以後討幕に加わった。(船上山の戦い)。その戦功により天皇は伯耆守に任じた。天皇帰洛の護衛も務めた。1333年-1336年、天皇による建武の新政で近侍の武士となり、記録所、武者所、恩賞方、雑訴決断所などに就く。天皇より帆掛け船の家紋を与えられる。左京の市司・東市正に任じられた。1335年、西園寺公宗らの謀略では流刑地出雲国への途中に公宗を処刑した。1334年、讒訴にあった天皇皇子・護良親王を結城親光とともに捕縛。1335年足利尊氏の建武政権離脱後、尊氏は新政権に反旗を翻した。名和は宮方・楠木正成、新田義貞らとともに尊氏と戦う。名和は天皇を比叡山に囲う。1336年、湊川の戦い後、京都合戦で名和は尊氏に討たれた。場所は、現在地の大宮(『太平記』)、また三条猪熊(『梅松論』)ともいう。
 弓の名手だったという。天皇の建武の新政下で四寵臣「三木一草(さんぼくいっそう)」(ほかに楠木正成、結城親光、千種忠顕)の一人に数えられた。1883年贈従三位。
◆一条院 この地に平安時代中期、里内裏の一条院(平安京左京北辺二坊一町・四町跡)が置かれた。平安京北東に隣接していた。
 藤原師輔(908-960)の子・伊尹(924-972)の邸宅があり、異母弟・為光(942-992)に引き継がれた。後、佐伯公行が買得し東三条院(第64代・円融天皇の女御・藤原詮子、962-1001)に献上した。
 女院は子・一条天皇の御所として修造する。第66代・一条天皇(980-1011)の里内裏となる。内裏は東西2町あり、西側1町が御所として用いられた。東側に別納(べつのう)があり、財政、物資を調達を担当した。999年の内裏焼失後、一条天皇の仮皇居となる。その後、1011年まで第68代・後一条、第69代・後朱雀、第70代・後冷泉天皇の里内裏として使用された。1058年に焼失している。
 東の別納は藤原道長(966-1028)、その子・中宮彰子(一条天皇の皇后、988-1074)の直廬(じきろ)、宿泊所に使用された。彰子に仕えた紫式部は一条院にあり、日記中に内裏として描いている。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 説明判、『京都隠れた史跡100選』『京都大事典』


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井戸

名和家家紋の「帆掛け船」

「贈正三位名和君遺跡碑」

大日本国防婦人会奉納の手水盤

一条院跡の説明板、現在の公園は西端付近になると記されている。

出土した陶器、説明板より
平安京オーバレイマップ
名和長年討死の地・一条院跡 〒602-8237 京都市上京区梨木町189-6,大宮通中立売上る糸屋町(名和児童公園) 
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