碊観音寺 (京都市左京区八瀬)
Kakeno-kannon-ji Temple

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「真言宗泉涌寺派 真山 碊観音寺 源義朝公源家再興ノ発願所」の石標


 八瀬の旧敦賀街道に面した断崖上に、碊観音寺(かけの かんのんじ/かけ かんのんじ)がある。眼下には八瀬川(高野川)が流れている。山号は真山という。平安時代の武士・源義朝ゆかりの寺とされる。 
 真言宗泉湧寺派、本尊は観世音菩薩。 
 いぼ、痔疾平癒祈願の信仰がある。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 平安時代、1159年、伝承によれば、平治の乱に敗れた源義朝らが東国に落ち延びる途中、この地、千束ヶ崖で叡山宗徒と戦い、馬ともども崖より転落し、怪我もなく生還した。義朝は観音のお慈悲として、崖に矢じりで観音菩薩像を描いたという。以後、碊観音と呼ばれたという。
 近代、昭和期(1926-1989)初め、観世音菩薩を本尊として創建された。
◆源義朝 平安時代後期の武士・源義朝(みなもと の よしとも、1160-1123)。源為義の長男。母は藤原忠清の娘。「上総曹司」と称された。鎌倉を本拠とし、坂東武士の統合をはかる。1144年、相模国大庭御厨押領事件、1143年-1145年、下総国相馬御厨の支配を巡る争いに介入した。鳥羽上皇(第74代)の抜擢により、1153年、従五位下下野守に叙任、1154年、家督を継ぎ源氏棟梁となる。右馬助を兼ねた。1156年、院宣により上洛、保元の乱で平清盛と組み、一族で一人、第77代・後白河天皇方として東国の家人を率いる。内裏高松殿に待機、白河北殿を攻撃した。乱後、恩賞として左馬頭に任じ、昇殿を許される。信西(藤原通憲)の命で、崇徳上皇(第75代)方に付いた父・弟ら一族を処刑した。信西と組んだ清盛に圧されたため、藤原信頼に接近した。1159年、平治の乱で義朝は清盛と対立、院御所三条烏丸殿を焼討し、後白河院を内裏一本御所に幽閉した。義朝は播磨守、嫡子・頼朝は右兵衛権佐に任じた。後、清盛は上皇・天皇を迎え入れ、義朝は戦に敗れる。東国へ脱する途中、1160年、家人・長田忠致により尾張で誅殺された。首級は平安京左獄に晒された。
◆観世音菩薩 伝承がある。
 平安時代、1159年、平治の乱に敗れた源義朝は、初陣の嫡男・頼朝、従者の鎌田正清、平賀義宣、渋谷金王丸、鷲津源光、陸奥義隆らとともに東国に落ち延びようとした。その際に義朝は、千束ヶ谷崖の峠で、叡山宗徒と戦い、また、戦の疲労により、馬ともども数10尺の断崖を真っ逆さまに転落した。だが、怪我一つ負わず、再び崖をよじ登り生還した。
 義朝は日頃より念じる観音のお慈悲と歓喜し、峠の大岩に鏃(やじり)の先で観音菩薩を線刻した。義朝らは、観音菩薩に源氏再興を祈願した。
 また、義朝は比叡山の僧徒に襲われた。山間の石に鏃で、一心に観音菩薩を刻むと、その霊験により危機より逃れたともいう。
 以後、碊観音と呼ばれ、観音に祈願すると何事も成就する、霊験あらたかとされ信仰を集めた。
 現在、観世音菩薩は、本堂の扉奥に安置されている。右よりの岩間に、右肩、右下半身が隠される形で、定印を結び蓮華座に坐する線刻が残る。
◆駒飛石 境内の南、八瀬川の対岸に巨岩(珪質頁岩)があった。「駒飛石(こまとびいし)」と呼ばれた。大岩は、平治の乱に敗れた源義朝が東国に落ち延びる際に、騎乗して飛び越えた岩という。現在、岩そのものに橋が架けられており、実際に見ることはできない。
 駒飛石の上流は「甲ヶ淵(かぶとがふち)」と呼ばれた。義朝の下臣・斉藤実盛(1111-1183)はここで甲を脱いだ。群がる比叡山の僧徒に対し、甲を投げつけ、その間に主従32騎が駆け抜けて難を逃れたという。
 

*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都大事典』『史跡探訪 京の七口』『京都の自然ふしぎ見聞録』

  
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八瀬川

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八瀬川、対岸の石碑?
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