御土居の袖 (京都市中京区)
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御土居の袖 御土居の袖
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北野中学校付近、「御土居の袖」の北西端、校内には御土居遺構がある。


左端(西)の中央付近、突起部分が「御土居の袖」になる。


威徳水跡、「御土居の袖」内の北辺になる。現在は湧水していない。
 円町付近には、豊臣秀吉が築造した御土居が、西側に凸状に張り出している部分がある。「御土居の袖(そで)」といわれている。
◆歴史年表 安土・桃山時代、1592年、豊臣秀吉は、京都の町を取り囲む土塁「御土居(おどい)」を、わすが数カ月の短期間で築造した。総延長は22.5kmになる。 
御土居の袖 御土居の西側、中央付近、現在の丸太通を挟む南北の土塁の一部は、西側に張り出す形になっていた。この部分は、聚楽第の西に位置しており、「御土居の袖(そで)」といわれた。
 紙屋川の西に沿い、南下してきた御土居は、やがて川より離れる。現在の北野中学校の北側の延長線上より西進し、西に大きく張り出していた。南北の佐井通(春日通)に当り、通りに沿う形で再び南下し、丸太町通を越えた。さらに南の眞徳寺を経て、朱八会館付近より向きを変え東進した。西大路通を越え、西土居通に戻り南下していた。
 袖の張り出した理由について有力説はない。①虎口(こぐち、城郭などの最も要所にある出入り口)として、敵の侵入に対し、鉄砲、槍での防御を可能にするため設けられた。②名水「威徳水(いとくすい)」などの、良質で豊富な地下水脈を御土居内に取り込むために行われた。③紙屋川の治水、開発に伴うもの。④付近の街道筋の町並を取り込むため。⑤西大路通の東にある西之京の弘誓寺(ぐぜいじ)を御土居内に取り込むために設けられたなどともいう。ただ、弘誓寺の創建は江戸時代になる。⑥袖の南半分、円町付近(左京一条二坊十四町、西ノ京北円町付近)にかつて西獄(右獄)があり、その敷地を回避したためともいう。

 
*参考文献 『豊臣秀吉と京都 聚楽第・御土居と伏見城』『御土居堀ものがたり』『京都まちかど遺産めぐり』『京都の地名検証 3』


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円町児童公園、段差が残り、この部分が「御土居の袖」の土塁遺構とみられている。

佐井通(春日通)沿い、道路面より一定の高さで嵩高くなっており土塁遺構とみられる。

眞徳寺、土台の石垣部分が土塁遺構とみられている。

眞徳寺の南北方向の石垣、この付近より南下してきた御土居は東進し始める。
平安京オーバレイマップ
御土居の袖 京都市中京区西ノ京付近
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