本能寺 (京都市中京区) 
Honnou-ji Temple
本能寺 本能寺 
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総門













本能寺の「能」の字は、旁が「ヒ」ではなく「去」となる異体字「「䏻(能)」」が使われている。


本堂




日蓮(1222-1282)は、鎌倉時代の僧。法華経の題目を重んじる諸宗派の宗祖。









信長公廟
織田信長の三男、信孝が本能寺の変から1カ月後の7月3日に建立したという。信長所持の太刀が納められているという。
織田信孝(1558-1583)は、安土・桃山時代の武将・大名。神戸城(三重県鈴鹿市)城主・神戸具盛の養子となる。伊勢長島一向一揆、越前一向一揆平定、四国征伐などに参戦、弔い合戦の山崎の戦い(1582)では、名目ながら総大将として明智光秀を撃破した。その後の処遇に対して秀吉と対立、二度挙兵する。だが、秀吉に降伏し、尾張国知多郡野間(愛知県美浜町)の大御堂寺に送られ、そこで自害した。


宗祖日蓮大菩薩御廟


宗祖日蓮大菩薩御廟、歴代諸聖人御廟、開祖・開山日隆大聖人の御廟



大住院日甫上人墓
本能寺の塔頭、高俊院第4世の住職。池坊専光と並び称された江戸期華道の権威。1696年没。92歳。



後伏見天皇7世皇孫、日承王墓

日承上人(伏見宮第5代・邦高親王の子)は、幼少で入寺し、1543年、第8世貫主となる。焼失した本能寺を四条西洞院に再興した。数学の研鑚に努め、多くの書物も残した。
 寺町通に面し、本能寺(ほんのうじ)がある。山号は卯木山という。
 法華宗本間流大本山。本尊は十界大曼荼羅。
 日蓮宗京都16本山の一つ。
 塔頭・龍雲院(りょううんいん)で拝観時限定の御朱印が授けられる。
◆歴史年表 室町時代、1415年、宗祖・日隆(にちりゅう)により建立された。当初は、油小路高辻と五条坊門の間付近にあり、本応寺(ほんのうじ)と号した。日隆は、妙本寺(妙顕寺)の月明と袂を分かつ。妙本寺宗徒により寺はすぐに破却された。
 1429年、日隆は、豪商・小袖屋宗句の帰依により、内野の町端(上京区)に本応寺を再建する。(『両山歴譜』)
 1423年、1433年、1434年とも、日隆は、信者・如意王丸の発願により、六角大宮(中京区、六角通以南、四条坊門以北、櫛笥以東、大宮通以西)に移転し、本能寺と改称する。
 1536年、二十一本山を焼き討ちした「天文法華の乱」で、本能寺は2万の兵で四条口を守る。だが、伽藍焼失した。(『西山歴譜』)。その後、堺・顕本寺に逃れる。
 1542年、第105代・後奈良天皇の綸旨により堺よりの帰洛を許される。
 1545年、8世伏見宮・日承により、四条西洞院に移転再興される。壮大な堂宇を誇る。寺には堀と土塁が築かれ、内部に七堂伽藍、厩屋、数多くの子院が建ち並び、防御機能を持つ城郭構造を有していた。
 1547年、1548年とも、延暦寺との和議が成立し、第8世・日承により、四条坊門西洞院に再興された。広大な寺域を占め、織田信長の仮宿所になる。
 安土・桃山時代、1581年、本堂改築により、堀、土居、石垣、厩が新設になり、城塞として修築される。
 1581年、イエズス会のヴァリニアーノは、オルガンチーノ、フロイスとともに本能寺の信長を訪ねた。
 1582年、明智光秀による本能寺の変で、自刃した織田信長とともに寺は焼失する。織田信長三男・信孝は、本能寺を信長の墓所とする書状を送り、廟所を造る。(『信長公記』『日本史』)
 1587年、同地に再建されるが、上棟式の当日、豊臣秀吉の都市計画により現在地(寺町御池)への移転を命じられる。秀吉は鴨川の西岸に寺院を集めて寺町を形成させ、日蓮宗、法華宗などの寺院は寺の内に集めた。寺領40石を与えられる。本能寺のかつての境内は、現在の御池通と京都市役所(下本能寺前町)を含む広大なものだった。
 1588年、本能寺は、洛中法華宗の寺の中で最も栄えたという。本圀寺、本法寺が続いた。
 1589年、秀吉の転地命令により現在地に移ったともいう。
 1592年、本堂、大書院、客殿、祖師堂、開山堂、塔頭などの再建が行われた。
 江戸時代中期、学問所「隆閑寺学室」(伏見大亀谷)を開設する。
 1719年、朝鮮通信使が定宿する。
 1788年、天明の大火により焼失した。
 1864年、元治の大火(禁門の変、蛤御門の変)により堂宇を失う。
 近代、上知により境内の大半(下本能寺前町付近)を失う。
 1928年、現在の本堂が再建された。
 現代、2007年、旧本能寺跡の発掘調査により、焼けた軒丸瓦が大量に発掘された。寺の堀には、堅固な石垣が積まれていたことが判明した。
◆日隆 南北朝時代-室町時代の日蓮宗の僧・日隆(にちりゅう、1385-1464)。越中国に生まれた。越中国・遠成寺、1402年、京都・妙本寺(妙顕寺)の日霽(にっせい)に師事、当初は慶林房(桂林坊)日立と称した。伯父・日存、日道に学ぶ。1405年、師没後、後継の月明と対立し独立した。五条坊門西洞院・日像堂に拠り、本応寺を二度建立し、月明に破却されたという。1415年、越中・元成寺、1420年、尼崎・本興寺、1421年越前・本勝寺を建立、1429年、京都内野に本応寺を建立、1423年(1433年、1434年とも)六角大宮に移し本能寺と改めた。1454年本興寺に勧学院を開く。八品派(法華宗本門流・本門法華宗)の祖。本興寺に墓がある。
 日隆は本勝迹劣の義を説き、本門法華宗を興した。本能寺、本興寺両山一寺の体制を築く。学僧であり『法華天台両宗勝劣抄』など著述が多い。弟子の日典、日良は、種子島・屋久島・永良部島に末寺を建立した。種子島で、伝来していた鉄砲を本土へ持ち込むことに本能寺の関与があったという。
◆織田信長 室町時代-安土・桃山時代の武将・織田信長(おだ のぶなが、1534-1582)。尾張に生まれた。父は守護代家老・織田信秀、母は土田御前。幼い頃は「大うつけ」といわれた。1551年、父没後、家督を継ぐ。1559年、尾張国を統一、京都の室町通上京裏辻(裏築地町付近)で足利義輝に謁見した。1560年、桶狭間の戦で今川を討つ。1567年、美濃国平定、1568年、足利義昭を岐阜に迎え入れ、軍4-6万人で上洛した。義昭の将軍職就任を助け、二条御所の造営を行う。1569年、三好三人衆の反乱を鎮圧する。イエズス会・フロイスの京都往還を許す。軍資金提供を要求し拒否した自治都市・堺を攻める。一町切りの連座制を強いた。1570年、姉川の戦で浅井・朝倉を破る。1571年、浅井らに与した延暦寺を焼き討ちした。1573年、将軍義昭を追放し室町幕府を滅ぼす。信長に抗したため示威により上京を焼いた。1575年、長篠の戦で徳川家康と連合し武田を破る。1576年、拠点になる安土城を築く。1580年、石山本願寺(大坂本願寺)と和睦、中国の毛利氏攻略に動く。1582年、家臣・明智光秀に討たれ本能寺で自害した。(本能寺の変)
 戦で鉄砲を初めて実戦使用した。検地、関所廃止、楽市・楽座の制を整える。キリスト教を保護した。墓は本能寺に「惣見院殿贈大相国一品泰巌尊儀」としてある。阿弥陀寺にもあり、建勲神社には信長を祀る。
◆日甫 江戸時代前期の日蓮宗の僧・日甫(にちほ/につぼ、1607-1698)。本能寺塔頭高俊院第4世院主。華道の2世・池坊専好に師事、華道本能寺未生流を興す。1648年-1653年、江戸・紀州徳川家などの大名屋敷で活躍した。その後、京の宮中、公卿の間で活躍した。号は大住院以信。本能寺境内に顕彰碑が立つ。
◆浦上玉堂 江戸時代の文人画家・浦上玉堂(うらかみ ぎょくどう、1745-1820)。岡山に生まれる。藩士でありながら、学問、詩文、七絃琴などに親しむ。50歳で脱藩し、2人の子・春琴と秋琴とともに諸国行脚、晩年は京都で文人画家となる。代表作「凍雲篩雪(とううんしせつ)図」。墓は本能寺に「峯山玉堂居士墓」としてある。
◆浦上春琴 江戸時代の文人画家・浦上春琴(うらがみ しゅんきん、1779-1846)。浦上玉堂の長子。岡山藩主の招きを断る。書道、詩文、平曲、七絃琴、器物、書画鑑定にも秀でた。京都では、頼山陽、田能村竹田、岡田米山人、半江、篠崎小竹、貫名海屋、柏木如亭らの文人との交わりを深めた。墓は本能寺にある。
◆天文法華の乱 鎌倉時代末、日像(にちぞう)によってもたらされた法華宗(日蓮宗)は、洛中に本能寺を初め、本山だけで21か寺を数え、京都は「題目の巷」といわれるまでになった。だが、室町時代後期、比叡山延暦寺と対立し、次第に武装化する。
 1536年、山門・南近江の守護六角氏らによる21本山を焼き討ちした「天文法華の乱」も起きた。六角定頼以下近江の軍勢は、三条口・四条口を攻撃し洛中に乱入した。法華寺院と町衆が集住する下京は焼かれ、本能寺も焼失する。その後一時、堺の顕本寺に逃れた。
◆本能寺の変 織田信長は、入洛に際して本能寺(油小路蛸薬師付近)を宿所にしていた。寺は、城塞の構えであり、四方には堀、土居も築かれていた。
 1582年5月29日、信長は、備中高松城を包囲していた秀吉の援護のために、本能寺に入る。6月2日、黎明の頃、明智光秀の軍勢1万3000が寺を包囲した。信長に中国出陣を命じられた明智軍は、丹波亀山城を発ち、老ノ坂で京洛に向きを変えて一気に攻め込んだ。
 光秀に裏切られた信長は、防戦に終始し、最期は殿舎に火を放ち自害した。信長の長男・信秀は二条御所で明智軍に包囲され、最期は自害している。この時、本能寺は焼失した。光秀は近畿平定の間もなく、急遽、中国より引き返した秀吉との山崎の合戦で敗走中に土民により討たれた。
 光秀が本能寺の変を起こした原因については諸説ある。
 1582年、5月、光秀は安土城で徳川家康の饗応役を降ろされた。光秀は信長に急遽、中国出陣の羽柴秀吉軍の援軍を命じられる。このことが、光秀謀反の遠因の一つになったともいう。
 また、2014年に発見された「石谷(いしがい)家文書」から、光秀と懇意で信長と敵対していた四国の戦国大名・長宗我部元親の窮地を救うためだったともいう。光秀はかつて長宗我部に仕えた。長宗我部との交渉をしていた光秀が面目を失い、反旗を翻したとする。(「四国説」)。
 また、2014年に光秀の密書原本が見つかった。変直後の12日に、光秀が、紀伊雑賀衆で反信長派土豪・土橋重治に宛てた直筆書状だった。光秀は、信長に追放された15代将軍・足利義昭と通じ、室町幕府の再興を目指したという。変後、光秀は、頼みとした細川藤孝(幽斎)、筒井順慶らの協力を得られずに孤立する。長宗我部、毛利らの反信長勢力に奉じられた義昭により幕府再興を目指したともいう。(「義昭黒幕説」)。
◆仏像・位牌 本堂内陣に日蓮、日朗、日隆、左に織田信長尊碑、家臣陣歿之諸霊位牌が祀られている。
◆建築 「本堂」は1928年に再建された。室町時代の建物を再現し、建築史家・天沼俊一(1876-1947)の設計による。桁行7間、梁行4間、一重、入母屋造、本瓦葺、総ヒノキ造り。正面に3間の向拝。
 「総門」は、1880年に恭明院の門を移築した。
◆寺名 本能寺は、度重なる大火に罹災している。7回再建され、4度寺地を移転したといわれる。このため、本能寺の「能」の字は、旁が「ヒ」ではなく「去」となる異体字が使われている。「『ヒ』(火)を『去』る」の意味という。ただ、当時の一般的な表記だったという説もある。
◆文化財 平安時代(11世紀)の彩箋墨書「伝 藤原行成筆書巻」(国宝)は、「本能寺切れ」と呼ばれる。鳳凰文の雲母摺のある4枚の唐紙に行成は小野篁、菅原道真、紀長谷雄(きのはせお)3人の文を綴った。楷書、行書、草書で書かれている。29.4×188.2cm。京都国立博物館保管。
 京都の法華宗寺院について記した「本能寺文書」、南北朝時代の紙本墨書「花園天皇宸翰 御賀札」(国宝)、「五彩龍鳳卉文大瓶」、鎌倉時代作の「古銅鏡」(重文)は京都国立博物館保管、「日蓮聖人消息」、織田信長所蔵品など。
 香炉「三足の蛙」には、伝承がある。本能寺の変の前夜、蛙が突然に鳴き、信長に異変を伝えたという。
◆子院 子院は8つある。1918年-1928年に再建された。恵昇院、蓮承院、定性院、高俊院、本行院、源妙院、1864年の禁門の変でも焼けなかった唯一の龍雲院(りょううんいん)がある。いずれも正面4間半、側面6間。
 龍雲院は、江戸時代、1614年に日政が開山した。柏原晋平筆の障壁画「龍雲図」「川蝉図」がある。拝観時限定の御朱印が授与される。
◆火伏せのイチョウ 安土・桃山時代、1582年の本能寺の変後、この地に移植されたと伝えられるイチョウの大木「火伏せのイチョウ」がある。
 江戸時代、1788年、天明の大火の際には、木の下に避難した寺町三条界隈の人々を、木から噴出した水によって救う。以来、「火伏せのイチョウ」と呼ばれるようになったという。1864年、元治の大火でも同様に水を噴き、近くにあった塔頭・龍雲院は類焼を免れたという。
 古木のイチョウには保水力が備わり、異常高温時には樹木より水蒸気が噴出するという。幹周り5m、高さ30m。
◆墓 安土・桃山時代、1582年、織田信長の三男・信孝(1558-1583)が建立した信長公廟には、信長の太刀が納められている。そのほか側近の供養塔がある。
 江戸時代後期の南画家・浦上玉堂(1745-1820)と春琴(1779-1846)父子の墓。9代将軍・徳川家重夫人供養塔(正室・増子女王、伏見宮邦永親王4女、1711- 1733)、江戸時代前期の女官・菅中納言局庸子石塔(五条庸子、1660-1683)、島津義久夫人石塔(継室、種子島時尭の娘、円信院、?-1573)、江戸時代の華道家・日甫上人顕彰碑(1607-1698)など。
◆発掘調査 2007年の旧本能寺跡(西洞院六角下ル西側)の発掘調査により、寺の堀には、堅固な石垣が積まれていたことが判明した。織田信長が定宿としていた寺は、旧来指摘されていた無防備の状態だったのではなく、ある程度の防御機能も備えていた可能性も出てきた。また、初めて本能寺の変の際に焼けた瓦とみられるものも見つかった。異字体の「「䏻(能)」と刻まれた軒瓦も発見された。焼失が多かったことから、二つ重なる「ヒ(火)」を「去」るの意味になる。
◆方丈会 放生会(本堂での供養法要の後、生き物に感謝し、三条大橋の鴨川に魚を放流する方丈会が行われている)(9月15日)。
◆映画 現代劇映画「西陣心中」(監督・高橋陽一、1977年、ATG)の撮影が行われた。


*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『朝鮮通信使と京都』『京都古社寺辞典』『事典 日本の名僧』『京都府の歴史散歩 上』『京都大事典』『あなたの知らない京都府の歴史』『京都で日本美術をみる』『京都の寺社505を歩く 上』『京都の近代化遺産』『京都 歴史案内』『京のキリシタン史跡を巡る 風は都から』『京の寺 不思議見聞録』『京都時代MAP 安土桃山編』『京都・観光文化 時代MAP』『京都シネマップ 映画ロマン紀行』『京都の自然ふしぎ見聞録』『京都 神社と寺院の森』『京都の隠れた御朱印ブック』


  御池大橋       本能寺跡・本能寺の変      阿弥陀寺       建勲神社       涌泉寺       谷性寺       春長寺     善長寺      関連見性寺              

本能寺の変戦没者合祀墓、115人の名がある。

徳川家重夫人供養塔(一番下)、菅中納言局庸子の石塔(真中)、島津義久夫人石塔
 9代将軍・徳川家重(1712-1761)夫人は、江戸時代、伏見宮邦永親王(1676-1726)の姫宮で、1731年、17歳で家重に嫁いだ。江戸城西の丸に住んだことから「西の丸御簾中(ごれんちゅう)」と呼ばれた。1733年、早産のあと、急逝し、寛永寺に葬られる。信仰した当寺にも遺髪、爪が送られ、石段下に納められているという。
 菅中納言局庸子(かんちゅうなごん の つぼね ようこ)は、江戸時代、五条中納言為庸の娘で、第112代・霊元天皇(1654-1732)に女官として仕えた。本姓に因み「菅中納言局」と呼ばれた。天皇の寵愛を受け、妙法院門跡堯親王、大覚寺門跡性感法親王を産んだ。
 島津義久(1533-1611)は戦国時代-安土・桃山時代にかけての武将で、島津家当主、薩摩、大隈、日向などを領した。夫人は、継室であり、種子島時尭の娘の円信院殿。

浦上玉堂、春琴廟


左から塔頭・龍雲院、源妙院、本行院、高俊院、定性院、蓮承院、恵昇院。

火伏せのイチョウ


加藤清正寄進という「臥牛石」、緑泥片岩
加藤清正(1562-1611)は、安土・桃山時代-江戸時代初期にかけての武将・大名、肥後熊本藩初代藩主。主君秀吉の没後も、豊臣家に忠義を尽くした。

「方丈会」、読経の後、ウナギ、フナ、コイなどの魚が鴨川に放流されている。


【参照】旧本能寺跡(京都市中京区)、「本能寺の変」が起きたのはこの地。近年の発掘調査により、大量の焼け瓦、堀、堅固な石垣積みなども出土している。


参考資料 『京都・観光文化 時代MAP』
 本能寺 〒604-8091 京都市中京区下本能寺前町522   075-231-5335
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