扇塚・新善光寺跡 (京都市下京区)
Ogizuka(The fanmound),The ruins of Shinzenko-ji Temple
扇塚・新善光寺跡 扇塚・新善光寺跡 
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扇塚


五条大橋

御影堂町の地名が残る。
 五条大橋の西詰南の御影堂町(みえいどうちょう)に、かつて新善光寺(しんぜんこうじ)といわれる寺院があった。御影堂(みえどう)、五条御影堂とも呼ばれた。後に、現在の長浜市に移転した。 
 現在は、橋の西詰北に「扇塚」だけが立つ。旧地の周辺には御影堂町、御影堂前町(みかげどうまえちょう)の地名が残されている。
 時宗別格本寺、本尊は阿弥陀如来立像。
◆歴史年表 平安時代、824年、天長年間(824-834)とも、第52代・嵯峨天皇皇后・橘嘉智子(檀林皇后)が、空海を開山として創建したという。当初は真言宗であり高野山に属した。(『山城名勝志』)。長野・善光寺の本尊を模した像を安置した。当初は嵯峨、また東洞院三本木(「山城名勝志」)、また、現在の御影堂町付近(『坊目誌』)にあったともいう。嵯峨天皇の御影を安置したため、一般には御影堂と呼ばれた。
 鎌倉時代、1284年、第88代・後嵯峨天皇の皇子・王阿上人が再興し、時宗に改めたという。一遍に請じ中興開山とし、以来、念仏道場になる。時宗十二派の中の御影堂派の本山になる。
 室町時代、1421年、六条左女牛に移るともいう。(『山城名勝志』)
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、境内に坊舎多く、扇子の製作を行っていたという。(『京羽二重』)
 安土・桃山時代、1528年、新町通五条の北に移ったともいう。(「山城名勝志」)
 1587年、豊臣秀吉の都市改造に伴い、五条大橋の袂、現在地の御影堂町(下京区五条通寺町西入ル)に移る。(「山城名勝志」)
 江戸時代、1705年、「洛中洛外絵図」中に境内が描かれている。
 近代以降、時宗別格本寺になる。
 1869年、境内の上知により、現在の御影堂町(下京区五条通寺町西入ル)が生まれる。(『坊目誌』)。境内には名物の扇屋があったという。(『京雀跡追』)
 1894年、扇を折って業とする家が数軒あり、名物であると記されている。(『新撰京都名所図会』)
 1945年、太平洋戦争(1941-1945)中、五条通拡張の建物疎開に伴い、御影堂町より現在の滋賀県長浜市西上坂799番地に移転した。
 現代、1960年、扇業者により五条大橋西詰北に現在の扇塚を建立した。
◆橘嘉智子 平安時代の女性・橘嘉智子(たちばな の かちこ、786-850)。檀林皇后。父は橘清友、母は贈正一位田氏。美貌の人だったという。809年、入内。815年、第52代・嵯峨天皇皇后。第54代・仁明天皇(正良親王)、正子内親王(第53代・淳和天皇皇后)などを産む。橘氏としては最初で最後の皇后になり、嵯峨上皇没後も皇太后、太皇太后として勢威をふるう。836年頃、仏教を信仰し、禅院檀林寺を創建し、檀林皇后とも呼ばれた。842年、仁明天皇の皇太子・恒貞親王が廃された政変の承和の変にも関わったという。844-847年頃、兄・橘氏公とともに、橘氏の教育のために学館院を設立した。梅宮大社は井手より遷し橘家の氏神として祀ったという。嵯峨院で亡くなり、深谷山陵(嵯峨陵)に葬られた。
◆王阿 鎌倉時代の時宗の僧・王阿(生没年不詳)。詳細不明。第88代・後嵯峨天皇の皇子。一遍の弟子。1284年新善光寺を中興した。
◆仏像
 木造「地蔵菩薩半跏像」は、鎌倉時代の安阿弥快慶(生没年不詳)作という。現在は、京都国立博物館寄託。
 脇檀には一遍自作という一遍立像、王阿上人立像を安置していた。
◆文化財 当寺はかつて、六条道場歓喜光寺に隣接しており、『一遍聖絵』を借り受け複写したという。『一遍聖絵 御影堂本』とされ、近代に流出した。その後、変遷があり、尊経閣文庫(東京)にも移された。
◆扇塚・新善光寺 橋の西詰北にある「扇塚」は、京都扇子団扇商工協同組合により、1960年に立てられた。扇は日本で発明され、この地は扇発祥の地とされる。五条界隈には多くの扇職人が住んだという。いくつかの逸話がある。  
 平安時代、平敦盛(1169-1184)の室は、夫没後にその菩提を弔うために出家し、蓮華院尼と称した。五条西詰にあった「平時宗御影堂」に入り、寺の僧と共に扇子を作った。扇は「阿古女扇(あこめ おうぎ)」と呼ばれ、女性が正装の際に手に持つものだったという。
 平安時代、第52代・嵯峨天皇(786-842)が病の際に、寺の住職・祐寛阿闍梨(ゆうかく あじゃり)は、呪文を封納した扇を献上した。天皇の病が平癒したことから、扇は世に知られたという。
 南北朝時代、鷹司通(下長者町通)の駒井氏は「城殿扇(きどの おうぎ)」を製作し、名が知られた。その近くに、真言宗の新善光寺御影堂(春日東洞院)があったという。寺では、駒井氏に扇の技術を学び、寺の僧尼が扇を製造していたという。(「雍州府志」)
 中世(鎌倉時代-室町時代)以来、寺の僧は「御影堂扇(みえどうおうぎ、阿波祈り)」を折った。室町時代、都の名物になる。鎌倉時代、寺の周辺に塔頭が多数存在し、副業として「御影堂扇」を作り販売していたという。
 安土・桃山時代、寺門前の町人も扇を製造したため、製造差止が命じられたという。江戸時代の「京町鑑」に、御影堂前町に扇を売る商人があり、「御影堂扇」と呼ばれたと記している。
 明治期(1868-1912)まで、新善光寺の僧が扇を製作していたという。1894年、五条通寺町西に扇を折り業とする家が数軒あり、名物になっていたと記されている。(「新撰京都名所図会」)


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都市の地名』『京都・山城寺院神社大事典』『京都大事典』『京都はじまり物語』『京都 歴史案内』


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 扇塚 〒 京都市下京区下材木町
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