錦市場・錦小路 (京都市中京区)
Nishiki Market
錦市場・錦小路  錦市場・錦小路
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江戸時代、大火の後に幕府は道幅を拡張しようとした。だが、商売に支障が出るとして商人の反対があり、あえてこのままの道幅が残されることになった。












錦小路の一画にある青物問屋「枡源」跡。
 錦市場(にしき いちば)は、「京の台所」と呼ばれている。西の寺町通より東の高倉通まであり、長さ390m、幅3.2m、一部幅5mの通りの両側には、最も多い鮮魚のほか、海産物、食肉、野菜、漬物、ゆばなどの加工品、日用雑貨品など、140軒ほどの独立小売商の店舗が建ち並んでいる。 
 なお、錦小路(錦小路通)は、東の新京極通より西の壬生坊城町までの1.9kmになる。
◆歴史年表 奈良・平安時代、延暦年間(728-806)、平安京の「錦小路(四条条間南小路)」が開通したという。現在の錦小路にほぼ該当し、通りは幅12m程だった。
 1054年、第70代・後冷泉天皇の宣旨により、「具足小路(屎小路)」より「錦小路」に改名されたという。(『掌中歴』)
 平安時代末期以降、錦小路の通り名が定着した。
 鎌倉時代1311年、備後国より年貢10貫文を、錦小路で替銭するようにと淀魚市の商人に依頼した。(厳島神社反古裏紙背文書の「淀魚市次郎兵衛尉宛為替状」)
 室町時代中期、東洞院錦小路に魚市ができたという。
 文明年間(1469-1487)以来、荒廃した。(『坊目誌』)
 安土・桃山時代、 天正年間(1573-1592)、市場が再開された。(『坊目誌』)。この地は人口密集地であり、消費地の御所に近かった。豊富な地下水は、魚鳥の貯蔵にも便利だったことによる。
 安土・桃山時代-江戸時代、慶長・元和年間(1596-1624)、鮮魚専門の特権的市場「三店魚問屋(さんだな うおどんや)」が成立した。上の店(椹木町通西洞院以西、小川の東)、錦の店(錦小路富小路の西、高倉の東)、六条の店(魚棚通室町の西、新町の東)から成った。
 江戸時代、寺町通より千本通間を「錦小路」と称した。
 1615年、幕府より独占的な魚問屋の称号を許される。
 元和年間(1615-1624)、市場は丹波篠山・木村六右衛門の創業ともされる。
 1637年、東魚屋町、西魚屋町、中ノ魚屋町などの地名があった。(『洛中絵図』)
 享保年間(1716-1736)、錦市場は、鮮魚専門の特権的市場「三店魚問屋」の一つとして公認された。錦の店には11軒あった。
 1716年、伊藤若冲が、錦小路の青物問屋「枡源(ますげん)」に生まれる。
 1762年、錦小路は寺町通より千本通までの東西の通りを呼んだ。(『京町鑑』)
 1770年、町奉行所により、隣接した錦高倉に青物立売市場も公認され開かれる。
 1771年、錦高倉の青物立売市場が取消される。
 1775年、市場は再開された。この間、町年寄の伊藤若冲らが再開に向けて奔走した。
 1779年、年35枚の冥加銀により、高倉立売市場(野菜市場)が再開される。
 近代、明治維新後、三店魚問屋の特権は廃止される。錦小路の同業者間の競争が激化し、明治期(1868-1912)には7店しか残らなかった。その後、同業組合などが設けられた。
 1927年、京都市中央卸売市場開場以来、業者の多くが移転した。その後、再興がはかられ現在の景観になる。
 現代、1960年、阪急電車の河原町延伸工事により、地下水脈が断たれそうになる。各所に井戸が新たに掘られ、京都錦市場商店街振興組合が井水事業を行う。
 2015年-2025年、イートインスペース「京町家 錦上ル プロジェクト」(中京区麩屋町通錦小路上ル梅屋町480)が行われる。
◆錦市場 錦市場の名称について、10世紀半の『宇治拾遺物語』「清徳聖奇徳の事」に、清徳という聖僧の逸話がある。母没後、その成仏を祈り、遺骸を愛宕山に運び、山に籠り絶食した。3年を経て、夢中に母が現れる。成仏したというので火葬し、山を下りた。西の京より、四条の北に来た。
 清徳聖は空腹のあまり、植えられた作物を食べたという。右大臣・藤原師輔(908-960)は米10石を施行する。聖の尻には、山で憑いた餓鬼、畜生、獣などが数万も続いて歩いている。だが、師輔のほかの者には、これらの姿は見えなかった。米で御飯を炊くと、聖は食べず、これらの者がすべてを食い尽くした。だが、周囲には聖一人が平らげたと見えた。聖が四条の北の小路(現在の錦小路付近)に出かける度に、聖が「ゑど(糞)」をした。また、聖の尻に付いた鳥獣らが、小路に糞を垂れ散らした。皆がこれを汚がり、小路は「糞の小路」と呼ばれた。第62代・村上天皇がこのことを聞くに及び、「あまりに汚なき名なり」として、四条の南を「綾の小路」と呼んだことから「錦の小路」と呼称したという。
 平安時代末の学者・三善為康(みよし ためやす、1049-1139)の『掌中歴』「条路」には、1054年に、第70代・後冷泉天皇が、宣旨により「具足(ぐそく)小路」より、「錦小路」に改めたと記されている。ただ、当時より異名として「屎小路」とも呼ばれていたらしい。具足とは武士が身に付ける甲冑であり、これらを売る店が付近にあったことによる。この「具足」がやがて「屎(糞)」に転訛し、「屎(糞)小路」と呼ばれる。後に「錦小路」に改められたともいう。平安時代末期以降は、錦小路の通り名が定着している。
 また、往古には、付近に大和錦を織る職人が多く住んでおり、錦小路と呼ばれたともいう。近世に入り、魚商いが増えたことから、異名として「魚棚」とも呼ばれたという。(「京町鑑」)
◆伊藤若冲 江戸時代の画家・伊藤若冲(いとう じゃくちゅう、1716-1800)。京都・錦小路の青物問屋「桝屋(ますや)」に生まれた。1738年、父没後、4代当主・桝屋(伊藤)源左衛門を襲名した。1751年頃、宝蔵寺に父母の墓をたてる。1752年頃、相国寺の僧・大典顕常より、若冲の居士号を与えられる。大典は若冲を支援した。萬福寺の中国僧・伯珣照浩とも交流した。1755年、40歳で家督を弟・宗巌に譲り、隠居し作画に入る。1758年頃、「動植綵絵」連作着手。1759年、鹿苑寺大書院障壁画を制作する。1764年、金比羅宮奥書院上段の間に描く。1765年、「動植綵絵」「釈迦三尊像」を相国寺に寄進(1770年完了)。宝蔵寺に亡弟の墓を立てた。1773年、萬福寺で道号「革叟」を授かる。1766年、相国寺に寿蔵を建てた。1767年、拓版画「乗輿舟」制作。1768年、『平安人物誌』に3番目に名が載る。1774年、若冲らが奔走し、錦市場の再開が許される。1776年頃、石峰寺五百羅漢の石像を制作を開始する。1788年、天明の大火で家を焼かれた。1790年、大坂・西福寺に襖絵「群鶏図」を描く。1791年(1790年とも)頃より、石峰寺の門前に草庵「斗米(とべい/とまい)庵」を結び、深窓真寂禅尼(心寂、末弟・宗寂の妻)と住んだ。斗米翁とも号した。名の由来は、米一斗(14kg)の謝礼で、墨画を描いたためという。一時、相国寺・林光院に住した黄檗宗・売茶翁(月海元昭)が、茶を売り一日の糧を得ていた逸話に倣ったものという。1798年、石峰寺の観音堂に天井画「花卉図」を遺す。1800年、石峰寺に土葬され、相国寺で法要が行われた。
 商いに興味を抱かず、妻帯肉食を拒み、狩野派、中国宋元画、清国・南蘋派に学ぶ。障壁画、画巻、水墨画、木版、拓版画に及び、花鳥、特に鷄の写生に専念する。その画風により「奇想の画家」といわれた。石峰寺境内に墓がある。相国寺には生前墓の寿蔵がある。
◆若冲と錦市場 伊藤若冲と錦市場の関わりは深い。江戸時代、1716年、若冲は錦小路の青物問屋「桝屋(ますや)」に生まれた。1738年、父没後、4代当主・桝屋(伊藤)源左衛門を襲名している。
 1771年、錦小路市場は東町奉行所により、市場店先での百姓の営業が許可を得ていないとして営業停止にされた。1772年、正式に営業停止になる。町年寄の一人だった若冲らは、市場再開に奮闘する。願書を取り、奉行所と交渉した結果、銀35枚の冥加金を納めたため、1774年に市場は再開された。
◆映画 時代劇映画「古都」(監督・中村登、1963年、松竹大船)の撮影が錦小路で行われた。佐田千恵子(岩下志麻)は、新町錦下ル辺で祇園祭の放下鉾を見る。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都市の地名』『京都大事典』『若冲の花』『京都の地名検証』


   伊藤若冲の生家跡      錦天満宮      石峰寺       
map 錦市場 京都市中京区錦小路通
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