林光院 〔相国寺〕 (京都市上京区)
Rinko-in Temple
林光院 林光院
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 相国寺境内に塔頭・林光院(りんこういん)がある。足利義嗣の菩提所になる。 
 臨済宗相国寺派。本尊は地蔵菩薩。
◆歴史年表 室町時代、1418年、応永年間(1394-1427)とも、3代将軍・足利義満は、4代将軍・足利義持の弟・義嗣の菩提を弔うために、夢窓国師を勧請開山として創建した。当初は、二条西の京、紀貫之の屋敷旧地にあったという。寺号は戒名より林光院とした。
 応仁・文明の乱(1467-1477)で、等持寺の近くに移る。
 その後も、数度移転する。輪番住職が住した。
 元亀年間(1570-1573)、雲叔周悦が輪番住職の時、豊臣秀吉の命により雲叔に明・韓通行使の功があった。
 安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)、秀吉は雲叔に林光院を独住地とし与え、相国寺山内に移させた。雲叔は中興の祖とされる。
 江戸時代、塔頭・慈雲院の大典(1719‐1801)が住持を兼務する。黄檗宗の僧・売茶翁(ばいさおう/まいさおう、1675-1763)が一時寄寓する。
 近代、1874年、荒廃し廃寺になる。
 1919年、相国寺派管長・橋本独山により再興され現在地に移転した。
◆夢窓疎石 鎌倉時代-南北朝時代の臨済宗僧・夢窓疎石(むそう そせき、1275-1351)。伊勢国に生まれた。父は佐々木朝綱、母は平政村(北条政村?)の娘。1283年、市川・天台宗の平塩山寺・空阿大徳に師事、後に剃髪。1292年、奈良・東大寺の慈観につき受戒。平塩山寺・明真没後、建仁寺・無隠円範に禅宗を学ぶ。1295年、鎌倉に下向、東勝寺・無及徳栓、建長寺・韋航道然、1296年、円覚寺・桃渓徳悟、建長寺・痴鈍空性に参じた。1297年、建仁寺・無隠円範、1299年、建長寺・一山一寧のもとで首座、1303年、鎌倉・万寿寺の高峰顕日に禅を学び、1305年、浄智寺で印可を受ける。浄居寺開山。1311年、甲斐国牧丘の龍山庵、浄居寺に一時隠棲する。美濃国・虎渓山永保寺(古谿庵)を開き、北山、土佐、鎌倉、三浦、上総と移り、1325年、第96代・南朝初代・後醍醐天皇の請により上洛、南禅寺住持。1326年、北条高時に鎌倉・寿福寺の請を避け伊勢国・善応寺を開く。鎌倉・南芳庵に居し、1327年、瑞泉寺を開く。1329年、円覚寺に入り高時、北条貞顕の信を得る。1330年、甲斐・恵林寺を開き、1331年、瑞泉寺、1332年、恵林寺に移り、播磨・瑞光寺を開く。1333年、鎌倉幕府が滅亡、建武の新政を開始した後醍醐天皇に招かれ、1334年、南禅寺に再住、1336年、臨川寺・西芳寺開山に迎えられた。足利家の内紛の観応の擾乱で調停し、北朝方の公家や武士が帰依する。尊氏は後醍醐天皇らの菩提を弔うため、疎石の勧めで全国に安国寺を建立、利生塔を設置した。1339年、天龍寺開山。1342年、建設資金調達のため天龍寺船の派遣を献策した。1346年、雲居庵に退隠。1351年、天龍寺再住。最晩年は臨川寺・三会院(さんねいん)に移り亡くなった。
 夢窓国師・正覚国師など、歴代天皇より7度国師号を賜与され七朝帝師と称された。北条高時、後醍醐天皇、足利尊氏らの帰依を受け外護を得た。夢窓派としては、無極志玄、春屋妙葩など門下は13000人にのぼる。多くの作庭も行う。能書家としても知られた。
◆足利義嗣 室町時代の武将・足利義嗣(あしかが よしつぐ、1394-1418)。3代将軍・義満の次男、母は春日局。4 代将軍・義持の異母弟。義満により幼少で梶井門跡に入室する。1408年、義満は家の定めを破り義嗣を還俗させた。北朝最後の第6代・歴代第100代・後小松天皇の北山第行幸は、義嗣を次期天皇として披露するものだったが、父・義満が急死し頓挫した。義持により、義嗣と母・春日局は北山第から追放される。1415年、北畠満雅の乱、1416年、上杉禅秀の乱が起こる。義嗣は高尾・神護寺に出奔、幕府は乱への関与を疑い義嗣を捕らえた。仁和寺、相国寺・林光院に幽閉された。1418年、寺に火を放ち脱出しようとして、義持の密命により義嗣は富樫満成により殺害された。戒名は「林光院殿亜相考山大居士」。容姿端麗、笙に秀でたという。
◆雲叔周悦 安土・桃山時代?の臨済宗の僧・雲叔周悦(生没年不詳)。詳細不明。元亀年間(1570-1573)、相国寺・林光院の輪番住職。豊臣秀吉の命により明・韓通行使の功あり、林光院を独住地とし与えられ、相国寺山内に移させる。林光院の中興の祖とされた。
◆藤原惺窩 室町時代-江戸時代の儒学者・藤原惺窩(ふじわら せいか、1561-1619)。号は多く惺斎、北肉山人(きたししさんじん)、柴立子(さいりつし)など。播磨の生まれ。細川荘(三木市細川町)の荘園を領した冷泉為純(れいぜい ためずみ)の3男。藤原定家の子孫。神童と呼ばれ、1567年、7歳で播州竜野・景雲寺の東明昊に師事、剃髪し宗舜と称した。1578年、三木城主・別所長治に家は滅ぼされ、父、兄、家領も失う。姫路の書写山に陣を敷いた羽柴秀吉に、仇討と家名再興を願い出て諭される。京都の叔父・寿泉を頼り相国寺・南豊軒で禅学、漢学、儒学を学ぶ。一時、吉田兼見の弟子になる。首座(しゅそ)に上る。1590年、秀吉の命により、朝鮮国使・黄允吉ら3人と、大徳寺で筆話を行う。1591年、秀次の召により相国寺で五山僧徒と詩を闘わす。1593年、秀俊に従い、肥前・名護屋で明国信徒に会う。江戸で家康、家臣に『貞観政要』を講じた。1596年、儒学を学ぶため、薩摩から明へ渡航した。悪天候のために喜界島に漂着した。1597年、帰洛。1598年、文禄・慶長の役の捕虜で、朝鮮の朱子学者・姜沆(きょう こう)に伏見の大名・赤松広通邸で会い朱子学を学ぶ。1599年、広通、姜沆の協力により、初めて宋儒の説に従う四書五経に訓点を施した『四書五経倭訓』を著す。1600年、広通の尽力により姜沆などが帰国した。支援した広通は自決し還俗する。1604年、林羅山が入門する。1605年、家康が二条城に惺窩を招く。仕官の意志はなく、羅山を代行させた。1606年、紀州・浅野幸長の招により和歌山に赴く。1607年、堀杏庵らが入門した。
 五山僧の教養だった儒学を解放し体系化、「京学派」として定立した。神儒一致、朱子学を基調とし、仏教、陽明学も受け容れた。後に近世儒学の祖とされた。門人に「惺門四天王」の林羅山、那波活所(なば かっしょ)、松永尺五(せきご)、堀杏庵(きょうあん)、ほかに、菅得庵(かん とくあん)、林東舟、三宅奇斎らがいる。紀州城主・浅野幸長、角倉了意などと親交があった。和歌、古典にも通じた。主著に『寸鉄録』など。当初は時雨亭の傍らに葬られる。その後、相国寺・林光院に葬られた。
◆橋本独山 近代の臨済宗の僧・橋本独山(はしもと どくさん、1869-1938)。越後の生まれ。天龍寺僧堂・橋本峨山(がざん)の法嗣。師没後、鹿王院を継ぐ。1911年、相国寺128世、相国寺派管長(特住3世)。鳥取県三朝・南苑寺を開山。富岡鉄斎に絵を学び、書画に秀でた。相国寺・林光寺の再中興の祖。
◆売茶翁 江戸時代の黄檗宗の僧・売茶翁(ばいさおう/まいさおう、1675-1763)。肥前生まれ。11歳で出家、肥前・龍津寺の化霖道竜に師事。13歳で師とともに宇治・黄檗山萬福寺の独湛性瑩(しようけい)に師事。諸国歴遊後、陸奥仙台・万寿寺で月耕道稔に参じる。肥前の師のもとに戻り14年間仕えた。師没後、上洛、61歳で東山に煎茶の通仙亭を開く。70歳で帰郷、還俗後は高遊外(こうゆうがい)と自称した。「売茶翁」とも呼ばれた。1755年、売茶業を廃業し、揮毫を行う。蓮華王院の南、幻々庵で亡くなる。煎茶の中興の祖、本朝煎茶の茶神とも呼ばれる。伊藤若冲、池大雅、与謝蕪村らと親交ある。宇治・萬福寺には木彫の座像がある。相国寺の大典顯常と知遇であり、大典はその伝記『売茶翁伝』を記した。
 一時、相国寺・林光院に寄寓した。鶯宿梅の実を梅干にして雅客文人に贈ったとの逸話が残る。
◆建築 現在の建物は、1912年に、近江国蒲生郡仁正寺(滋賀県蒲生郡日野町)に存在した藩仁正寺藩(にしょうじはん、西大路藩)の市橋家藩邸の建物の大半を移築した。江戸時代、安政年間(1854-1860)建立による。
◆薩摩藩 薩摩藩と当院の深い関係がある。
 安土・桃山時代、1600年関ヶ原の戦いで、17代当主・島津義弘(1535-1619)は前衛の福島正則隊を突破する。だが、徳川家康の本陣に迫ったところで敗走に転じた。追撃をかわした義弘らは、伊賀に潜伏し、摂津住吉に逃れていた妻を救出後、立花宗茂(1567-1643)らと合流した。大坂の豪商・田辺屋の今井道与(?-1619)は、一行を堺港より海路で薩摩に無事に帰国させた。
 この功により、今井は薩摩藩秘伝の調薬方の伝授を許され、現在の田辺製薬の前身になったという。道与の晩年、義弘は自らの僧形像を造り道与に与えた。道与は住吉神社内に松齢院を建てこの像を祀る。義弘没後、その位牌も安置された。
 後に、道与の嫡孫・乾崖梵竺が林光院5世となる。乾崖により、当時、衰微していた松齢院より義弘の像と位牌も林光院に遷された。島津家により遷座供養が修行され、以降、薩摩藩との関係が生まれる。現在、林光院の境外墓地には薩摩藩士の墓がある。
◆鶯宿梅 庭園に鶯宿梅(おうしゅくばい)と呼ばれる梅の木がある。花には36枚の花弁があり、蕾は真紅で、開花と共に淡紅に変わり、最後は純白に変わるという。彼岸の頃に咲く。
 平安時代、天暦年間(947-956)、第62代・村上天皇の頃、御所、清涼殿前の梅の木が枯死し、代わる木を求められた。西の京、紀貫之娘の屋敷に梅の木があり選ばれた。勅命により御所に梅の木が移植される。だが、別れを惜しんだ娘は「勅なればいともかしこし鶯の宿はととはばいかがこたえん」との歌を書いた短冊を枝に掛けたという。心打たれた村上天皇は、詫びを入れ梅を元に戻したという。以来、梅は「鶯宿梅」「軒の紅梅」と称されたという。(「大鏡」「拾遺和歌集」)
 林光院は当初、紀貫之屋敷跡に創建されたといわれ、鶯宿梅はその後も引き継がれた。後に、寺が移転を繰り返した際にも梅の木は移され、代変わりしていまも引き継がれている。
 林光院の外護者・島津家久(1547-1587)は、参勤交代の途中に寺に立ち寄り、「うぐいすの春待ち宿の梅がえをおくるこころは花にぞ有る哉」と詠んだ。
 「わが宿にうえんも梅のみにあわぬ名高き花の根さしおもえば」(長淵籐五郎)も残る。
◆文化財 1868年、画家・富岡鉄斎(1837- 1924)は扇面に「鶯宿梅」を描いた。本物の鶯宿梅の花弁を摘み、これを糸で縫ったという軸物が寺に伝えられている。
◆墓 朱子学者・藤原惺窩の墓がある。
 東門の東にある境外墓地には薩藩戦死者墓がある。1864年の蛤御門の変(禁門の変)、1868年の鳥羽・伏見の戦いで戦死した72人の薩摩藩士が合葬されている。


*非公開
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都の禅寺散歩』『事典 日本の名僧』『京都歴史案内』『京都隠れた史跡100選』『人物叢書 藤原惺窩』『足利義満と京都』 、当寺サイト

  
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林光院 〒602-0898 京都市上京区相国寺門前町701,今出川通烏丸東入上る  075-231-3931 
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