光源院 〔相国寺〕 (京都市上京区)
Kogen-in Temple
光源院 光源院 
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 相国寺境内の南東に塔頭・光源院(こうげんいん)がある。  
 臨済宗相国寺派。本尊は釈迦如来。
◆歴史年表 室町時代、1421年、相国寺28世・元容周頒の塔所として創建された。当初は広徳軒(こうとくけん)と称した。
 1565年、室町幕府13代将軍・足利義輝が死去し、その菩提寺となる。義輝の院号「光源院融山道圓」に因み光源院と改称した。この時、現在地の東にあった。
 江戸時代、1885年、光源院の建物を毀す。
 1896年、善應院と合併し、善應院を廃し光源院と改めた。
 現代、1988年、本堂、庫裡を改修している。
◆元容周頒 室町時代の臨済宗の僧・元容周頒(?-1425)。詳細不明。春屋妙葩(しゅんおく みょうは)の法嗣。1421年相国寺入寺、相国寺28世。相国寺・広徳軒(後の光源院)を創建する。
◆足利義輝 室町幕府13代将軍・足利義輝(あしかが  よしてる、1536-1565)。南禅寺で生まれる。父は義晴、母は近衛尚通の娘。1546年、父が三好長慶に追われ近江坂本に滞在中に同地で元服、11歳で将軍に就く。細川晴元の家臣・三好長慶は晴元を裏切り、1549年、江口の戦いで晴元を破る。義晴・義輝父子は近江坂本へ退避、1550年、義輝は長慶との中尾城の戦いに敗れ朽木へ移る。1552年、長慶と和睦し京都に戻る。1553年、晴元と協力したが長慶に敗れ、再び近江朽木へ逃れる。1558年、長慶との北白川の戦いにも敗北。1562年、政所執事・伊勢貞孝が長慶と反目、義輝は長慶を支持し、貞孝の反乱は長慶により鎮圧される。1564年、宿敵の長慶が病死する。だが、松永久秀と三好三人衆は足利義稙の養子・義維(義輝の叔父)と組み、義維の嫡男・義栄(義輝の従兄弟)を新将軍に擁立した。1565年、久秀と三好三人衆は主君・三好義継(長慶の養嗣子)とともに義栄を奉じ謀叛を起こす。二条御所を襲撃したこの永禄の変により、義輝は敵陣に包囲され自刃した。
◆善應院 善應院は、江戸時代、1604年、備前の池田輝政(1565-1613)が亡き母・善應院殿(荒尾善次の娘))の香火所として創建した。
◆障壁画 1988年、本堂の仏間12面に、日本画家・水田慶泉(1914-1997)が半年がかりで襖絵を完成させた。禅宗寺院には珍しい干支を描いている。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都の禅寺散歩』当院サイト


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光源院 〒602-0898 京都市上京区相国寺門前町701,今出川通烏丸東入上る  075-231-7849 
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