伏見港 (京都市伏見区) 
Fushimi-ko Port

50音索引  Home 50音索引  Home

伏見港公園


濠川(ごうかわ、ほりかわ宇治川派流)、伏見城の濠と運河の役割を担った。


十石舟


角倉了以翁水利記功碑、出合橋付近


船宿寺田屋、安土・桃山時代、1597年創業という。
 宿の前にはかつて船着場があり、船宿も10数軒並んでいた。浜からは、三十石船が伏見大坂間を行き来した。この浜から出る船には8人の船頭が乗り込み、船脚がほかの船より速いことで知られていた。
 江戸時代末期には薩摩藩内の対立により起きた寺田屋騒動(1862)、坂本龍馬遭遇事件(1866)などの舞台となった。1866年1月23日、午前3時頃、龍馬が宿泊した際に、幕史による襲撃を受けた。その時、風呂に入っていたおりょうが異変を察知し、裸のまま階段を駆け上がり龍馬に知らせたという。龍馬は前年に高杉晋作より贈られた護身用の短銃5発で応戦した。龍馬は手の指を深く負傷ったものの、裏手から宿を脱出して難を逃れることができた。おりょうとはその後、結婚している。
 建物は、1868年の鳥羽伏見の戦いで焼失し、近代以後、建てかえられている。宿には、龍馬の護身用の短銃、宿の女将のお登勢が描かせたという龍馬の肖像掛軸がある。この絵をもとに円山公園の銅像が制作されている。




出合橋、濠川と派流の分岐点、一帯の川岸には散策道が付けられている。十石舟は月桂冠大蔵記念館裏-伏見港公園間を往復している。


濠川の終点にある伏見港公園閘門で仕切られた部分内を「閘室」と呼ぶ。ここに、運航している十石舟の船着場がある。右の建物は三栖閘門資料館(旧・三栖閘門操作室)。遠景は伏見の市街地。


伏見港公園にある三栖閘門、国登録文化財
1929年竣工。宇治川との舟運連絡を図るために設けられた。宇治川と濠川の水位を調整し、船の航行を可能にする。閘門上は展望台にもなっていて、宇治川、向島などが見渡せる。



宇治川派流には三栖洗堰もあり、宇治川に合流している
 伏見は、京都、大坂、奈良、大津へ向かう交通の要衝地として発展してきた。 
◆歴史年表 
安土・桃山時代、1591年、「普請太閤」といわれた豊臣秀吉の伏見城築城に伴って、以後、伏見は城下町として栄えた。これらの大規模な工事には、諸大名下のべ25万人が動員された。
 1594年頃、洪水対策と交通路の整備のために、大掛かりな河川流路の改修工事が行なわれている。 この時、伏見城下町には堀が張られ、宇治川は大幅に付け替えられた。宇治川と巨大な巨椋池(おぐらいけ)とは分離され、宇治川は伏見まで延ばされた。さらに三栖から淀川へとつなぎ、伏見と大坂間が水運で結ばれた。
 1596年、巨椋池に築造された秀吉の城を水害から守るために、槙島に堤が築かれた。三栖から淀には「太閤堤」が築かれた。太閤堤は、秀吉が前田利家らに造らせた槙島堤、小倉堤など12km堤防の総称になる。 宇治川には豊後橋(観月橋)が架かり、巨椋池を南北に貫く新大和街道が通じた。ほかにも伏見、竹田、大坂、大津、宇治、鳥羽街道が新設・整備された。城下町西には外堀、七瀬川も改修されて総外濠となった。
 1598年、伏見京橋・大坂淀屋橋(天満八軒家)間に、乗客船・三十石船が往復した。
 近代、1873年-1874年、三十石船も廃船となった。
 1871年、大坂・伏見間には、一時期、川蒸気船が運航した。
 1917年、大洪水により淀川堤防が決壊する。
 
1929年、三栖閘門が完成した。宇治川との舟運連絡を図るために設けられた。宇治川と濠川の水位を調整し、船の航行を可能にした。
 1941年、旧内務省による伏見港の大改修計画が行われた。
 現代、1947年、伏見港の船溜まりが整備される。
 1962年、三栖閘門が役割を終えた。
 1976年、京都府立伏見港公園が整備された。 
 2007年、宇治市莵道(とどう)で発見された大規模な石積み護岸「宇治川護岸遺跡」は、太閤堤の遺構と見られている。傾斜30度の法面を持ち、宇治川の急流を押し返して緩和させる石垣積みの「石出(いしだし)」などの治水技術が用いられ、表面には化粧用の割石が張り付けられていた。
◆伏見港 伏見港も生まれている。それまでの淀や鳥羽に代わり、伏見港が水運の要衝地になり、過書船(三十石船)、淀船(二十石船)、伏見船、高瀬舟などが往来し、物流の中継地となった。
 港の中心地は現在の京橋付近だった。伏見浜(宇治川派流の両岸)は荷揚げ場となり、材木を荷揚げした場所は、本材木町という町名としていまも残されている。現在の月桂冠旧本店付近の浜は、「弁天浜」といわれ、伏見伝馬所が開かれた。この「馬借前」は、旅人の乗降、物資の積み替え地として利用された。今も残る寺田屋前にも船着場があり、幕末には「早舟三十石船」が出航していた。
 江戸時代末には、伏見の人口は4万人を越え、内陸地としては国内最大の港湾都市を形成していた。
◆三十石船 1598年からは、伏見京橋・大坂淀屋橋(天満八軒家)間(44.8km)に、乗客船・三十石船(17m×2.5m、定員28-30人、船頭4-6人)が一日ニ往復した。三十石船の三十石は、米が三十石積めることから名づけられている。また、過書船ともいわれたのは、関所を通過するための免状が下りた船に由来する。過書座は京都に置かれ、過書奉行が任命され、木村家、角倉家両家が司っていた。当時の客船は870隻、そのうち三十石船は177隻あった。
 三十石船は、伏見に向かう上りは一日、大坂に向かう下りは半日かかった。船は大坂を早朝に出港し、伏見には夕方に着いた。さらに、夜に伏見を出た船は、早朝に大坂に着いた。伏見に向かう際には、淀川を遡るため、9箇所ほどに設けられた場所で綱で船を引いた。船賃は享保の頃で上り172文、下り72文と上りは下りの二倍以上かかった。大坂の船着き場は八軒家、淀屋橋、東横堀、道頓堀。伏見は平戸橋、蓬莱橋、京橋、阿波橋。
 徳川期、参勤交代の諸国大名一行、朝鮮通信使、琉球慶賀使らも三十石船を利用している。
 淀川を運行した船は、享保年間(1700年頃)には、過書船742隻、淀船507隻、伏見船200隻、高瀬船128隻となっている。
◆高瀬川 伏見城の廃城にともない城下は急速に衰えたが、幕府の直轄地となり、また伏見・二条間の高瀬川の開削(1614)によって、京都、大坂の水運の中継地点として、伏見は再び重要な役割を担う。
 かつての高瀬川は、現在の鴨川合流点の十条淘化橋の上流で鴨川を一度横断し、濠川(ほりかわ、旧伏見城の外堀と疏水間)と合流して南下し、伏見港を経て宇治川に合流していた。濠川には毛利橋、阿波橋が架かり、橋間は浜地となっており、西岸には舟運業者の町があった。
 現在の高瀬川は、淀川水系で総延長 9.7km。二条大橋の南で、鴨川西岸を流れる「みそそぎ川」から取水され、鴨川の西、木屋町沿いを南下し、十条淘化橋の上流で鴨川に合流している。伏見区では、鴨川の東を流れる東高瀬川(新高瀬川)と名称が変わる。ただ、これらとは今は合流していない。現在、高瀬川は、出合橋付近で濠川に合流している。
◆参勤交代 江戸時代、幕府は伝馬所を伏見に設けた。伝馬所は、公事方の書類を運ぶための馬の乗り継ぎ場のことで、伏見伝馬所は、常時伝馬100頭、人足100人を抱える宿駅となった。
 参勤交代(1635-)の際には、諸国大名は必ず伏見に立ち寄ることが定められた。これは、京都の通過が禁じられたことによる。大坂からは三十石船が利用され、伏見が休憩地となった。伏見には、四つの本陣、脇本陣、大名屋敷もいつくか置かれていた。
 また、運送、旅宿、問屋、船大工などさまざまな同業者集団「仲間」が生まれた。特に「伏見三仲間」として、材木問屋、樵木問屋、米問屋がある。さらに、公用の書類、金銀、小荷物を運ぶ継飛脚、牛馬による輸送を行なう伏見車方なども整備された。
◆近代以降 鳥羽・伏見の戦い(1868)の戦禍により、伏見の街の大半が焼失した。また、伏見は幕府直轄地としての地位を失った。
 近代以降、神戸と京都間に鉄道(1877)が開通すると、水運の重要性は一気に減少する。明治以降(1873、1874)、三十石船も廃船となった。大坂・伏見間には、一時期、川蒸気船(1871-)が運航していたこともあった。
 琵琶湖疏水・鴨川運河(1894)が開削されると、途中8か所に閘門が設けられ、翌年には伏見インクライン(傾斜鉄道)が完成した。日本海から琵琶湖を経て、琵琶湖疏水、鴨東運河、鴨川運河、淀川がつながり、再び、伏見港の役割が増した。特に、近代産業の要であった石炭の水運による輸送は、大坂・京都間で大きな役割を担った。
 1917年、一帯で大洪水があり、大きな被害が出た。そのため周辺の木津川、宇治川、桂川の三川改修工事(1922-1930)が行なわれている。この時、宇治川と切り離された宇治川派流が生まれた。また、現在の平戸桶門、三栖閘門(みすこうもん)、新高瀬川開削、疏水放水路なども設けられた。三栖閘門(1929)建設は、濠川と宇治川の水位差を調整し、船の運航を支障なく行うための重要な施設だった。
 第二次世界大戦中の1941年、旧内務省による伏見港の大改修計画が行われた。これは、物資の陸路集中を分散させるための戦略的な意図があった。だが、計画は縮小され、戦後(1947)に伏見港の船溜まりが整備されるにとどまった。
 戦後、物流は陸路全盛となり、伏見港の役割は急速に失われる。1963年、泊り地は埋め立てられ、伏見港開港400年記念として、現在の京都府立伏見港公園(1976)が整備された。
 現在、濠川沿いは遊歩道が整備され、シダレヤナギの木が植えられ、水辺の景観を楽しみながら散策ができる。
 濠川には、往時を偲ぶ観光船の十石船が運航している。また、同じく観光用の淀川三十石船(1991-)も航行している。


  伏見・月桂冠大倉記念館    御香宮    高瀬川・高瀬舟    琵琶湖疏水       

濠川の西を流れている新高瀬川(東高瀬川の下流域)、宇治川に合流している。
 伏見港公園 京都市伏見区葭島金井戸町  075-611-7081
50音索引  Home   50音索引  Home  

  © 2006- Kyotofukoh,京都風光 http://www.kyotofukoh.jp