福寿院 〔妙心寺〕 (京都市右京区)
Fukuju-in Temple
福寿院 福寿院
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 妙心寺境内中央付近に塔頭・福寿院(ふくじゅいん)はある。 
 臨済宗妙心寺派。
◆歴史年表 江戸時代、1619年、松本城主・水野忠清の室・福寿院殿が龍天宗登(ろんてん そうとう、竜天宗登)を開祖に請じて創建した。当初は養賢院(ようけんいん)と称した。福寿院殿の寿塔ともいう。以後、水野家の菩提所になる。水野氏より龍興和尚、拙山座元らの僧が出て塔頭を守護した。
 1653年、水野忠職(みずの ただもと)が再建する。性宣院(しょうせんいん)と改称する。母・福寿院殿の寿塔ともいう。
 1718年、水野忠茂の外護により台嶽(だいがく)和尚が中興し、院号を福寿院に改めた。以後も水野氏が当院を外護した。忠成(1763-1834)の時に現在の方丈が建立されている。 忠茂によるともいう。
◆龍天宗登 江戸時代の臨済宗の僧・龍天宗登(ろんてん そうとう、生没年不詳)。詳細不明。1619年、妙心寺・福寿院開山。1651年、信濃・開眼寺の開山。
◆福寿院殿 江戸時代の女性・福寿院殿(?-1670)。詳細不明。前田利家の娘という。前田家養女として大名・水野忠明の夫人になるという。1619年、福寿院開基。法名「福寿院殿性宣妙演大姉」。95歳。
◆水野忠清 江戸時代の大名・水野忠清(1582-1647)。三河刈谷に生まれる。水野宗家6代・水野忠重の四男。正室は前田利家の娘。1600年、父が殺され、家督は兄・勝成が継ぎ、忠清は徳川秀忠の家臣として仕えた。1602年、上野小幡に所領を得て、従五位下に任官し隼人正を名乗る。1605年、書院番頭、奏者番を兼務。1614年-1615年、大坂の陣で戦功を挙げる。先陣を競い一時閉門を命じられた。三河刈谷移封、1632年、三河吉田、1642年、信濃松本に加増移封。江戸で死去。法号「真珠院郭誉全忠」。墓は江戸・伝通院。
◆台嶽 江戸時代の臨済宗の僧・台嶽(だいがく、生没年不詳)。詳細不明。1718年、福寿院を中興した。
◆水野忠職 江戸時代の大名・水野忠職(みずの ただもと、1613-1668)。初代藩主水野忠清の次男。1634年、従五位下出羽守となる。1647年、家督を継いで松本藩主。1649年、領内の総検地(慶安検地)を実施し、混乱が続いた。領内法度の制定などを行う。江戸城の石垣普請、1652年-1667年、3期に渡って大坂城代を務めた。江戸で死去。信濃国松本藩第2代藩主。沼津藩水野家2代。
◆水野忠成 江戸時代の大名・水野忠成(みずの ただあきら、1763-1834)。出羽守。旗本岡野知暁の次男。1778年、旗本・水野忠隣の末期養子、忠隣の養女を娶り家督を相続する。10代将軍・徳川家治に仕え、小納戸役・小姓を歴任、1785年、従五位下大和守に任じられる。1786年、沼津藩主水野忠友の養子、その娘・八重と再婚する。1802年、忠友没後、沼津藩主を継ぎ、奏者番に任命された。1803年、寺社奉行を兼務。以後、若年寄、側用人を歴任、11代将軍・徳川家斉の側近。1817年-1834年、老中首座に就任する。在任中、賄賂政治横行した。駿河国沼津藩第2代藩主。沼津藩水野家9代。
◆荊林廸粋 江戸時代の臨済宗の僧・荊林廸粋(けいりん てきすい、?-1843)。天香窟。豊後の人。1819年、妙心寺に出世し紫衣を賜わる。3度妙心寺住持に就く。74歳。
◆文化財 江戸時代、1670年頃の荊林廸粋賛「福寿院殿像」。「水野忠成像」。


*非公開
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『妙心寺』『妙心寺 六百五十年の歩み』



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福寿院 〒616-8035 京都市右京区花園妙心寺町58  
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