西方寺 (京都市北区)
Saiho-ji Temple
西方寺  西方寺
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本堂


本堂


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 西方寺(さいほうじ)は、五山送り火の一つ「船形」の点される西賀茂・舟山(ふなやま、船山、妙見山)の南東にある。東には比叡山、南東には大文字山(如意ヶ岳)を見晴らすことができる。山号は来迎山(らいごうざん)という。 
 浄土宗鎮西派、本尊は阿弥陀如来。
◆歴史年表 平安時代、承和年間(834-848)、847年とも、第3代天台座主・慈覚大師円仁(794 -864)により建立されたという。当初は天台宗山門派に属していた。
 鎌倉時代、正和年間(1312-1316)、六斎念仏の道空(-1315)が中興し、その際に浄土宗に改められた。干菜寺の末寺となる。以後、六斎念仏弘通の寺となる。
 江戸時代、1755年、「西加茂西方寺講中」と記されている。(『六歳支配村方控牒』)。
◆円仁 平安時代前期の天台僧・円仁(えんにん、794-864)。慈覚大師。下野国に生まれた。9歳で大慈寺・広智に師事、808年、15歳で唐より帰国した比叡山の最澄に師事、最期まで14年間仕えた。815年、東大寺で具足戒を受ける。比叡山で12年の籠山行に入る。だが、5年後、法隆寺、四天王寺での夏安吾(げあんご、修行僧の集団生活による一定期間の修行)講師、東北への教化を行う。一時心身衰え、829年、横川に隠棲した。常坐三昧、法華経書写などの苦修練行を続け、夢中に霊薬を得て心身回復し、法華経書写を始め、小塔(如法堂)を建て写経を納めたという。首楞厳院(しゅりょうごんいん)を建立した。836年、837年、渡唐に失敗、838年、最後の遣唐使として渡る。その後、遣唐使一行から離れ、840年、五台山・大花厳寺を巡礼し国清寺で学ぼうとしたが許可が下りなかった。長安・大興善寺で金剛界の灌頂を受け、青竜寺で胎蔵界灌頂、蘇悉地大法を授かる。また、悉曇(梵語)、止観(禅)も学んだ。山東半島、赤山新羅坊の新羅寺・赤山法華院で新羅仏教を学ぶ。現地では仏教弾圧(会昌の破仏)があり、日本と新羅はこの間に国交断絶していた。847年、帰国、仏典、金剛界曼荼羅など多数を持ち帰る。848年、比叡山に戻り、円珍に密教を教えた。横川中堂(根本観音堂)を建立する。854年、第3世・天台座主に就く。862年、東塔に天台密教の根本道場・総持院を建立した。『顕揚大戒論』、9年6カ月の唐滞在記である『入唐求法巡礼行記』(全4巻)を著す。東京・瀧泉寺、山形・立石寺、松島・瑞巌寺など多くの寺を開いた。没後、日本初の大師号(慈覚大師)を贈られた。入唐八家(最澄・空海など)の一人。
◆道空 鎌倉時代の浄土宗の僧・道空(-1315)。干菜寺の中興開山。西方寺を中興したともいう。
◆大田垣蓮月尼 江戸時代から近代の尼僧・歌人・陶芸家・大田垣蓮月尼 (1791-1875)。京都の遊郭三本木に生まれ名を誠という。父は伊賀国上野の城代家老藤堂良聖。生後すぐに知恩院門跡に勤仕の大田垣光古の養女とな る。1798年頃より、丹波亀山城で御殿奉公を勤めた。1807年頃、望古と結婚。夫子らを相次いで亡くし、1819年、古肥と再婚する。1823年、夫と死 別後、養父・光古と共に剃髪し、蓮月と号した。知恩院内の真葛庵に移るが、子、養父を亡くし岡崎村に移った。その後も住居を転々とし、「屋越し蓮月」と呼 ばれた。一説には勤皇の志士との交流があり、幕吏の目をそらすためだったともいう。「烈女」といわれたが、歌人、陶芸家として知られ、和歌を釘彫りした 「蓮月焼」を生む。書、絵画も嗜んだ。富岡鉄斎を侍童とした。飢饉に寄付し、鴨川に丸太町橋も寄進した。
 神光院の茶所(茶室 蓮月庵)には、1866年の76歳から、1875年に85歳で亡くなるまで10年間を隠棲した。
◆リチャード・ポンソンビー・フェーン 近代の神道研究者・リチャード・ポンソンビー・フェーン(1878-1937)。イギリス、ロンドンのイースト・テラスの家で生まれた。父は貴族のジョン・ヘンリー・ポンソンビー・フェーン、母はフローレンス。正式名は、リチャード・アーサー・ブラバゾン・ポンソンビー・フェーン。1916年、父親の死に伴い家督を相続した。香港総督官の秘書官を経て、1919年、来日し、成蹊学園で教鞭をとる。1925年上賀茂に移った。日本を愛し、皇室、神道史の研究者として知られた。
◆北大路魯山人 近現代の文人・北大路魯山人(きたおおじ ろざんじん、1883-1959)。上賀茂神社の社家に生まれた。本名は房次郎という。父は自死し、6歳で木版師の養子となる。尋常小学校卒業後、10歳で薬屋の丁稚奉公に出る。1903年、上京し、翌年の日本美術展覧会で書が一等賞となる。以後、書と篆刻(てんこく)で身を立て、古美術、絵、陶芸、漆芸、料理などの幅広い作家活動と研究を続けた。食と食器に拘り、自ら厨房に立ち、器を創作した会員制食堂「美食倶楽部」(1921)、「星ヶ岡茶寮」(1956)を開いている。1954年、欧米各地で展覧会と講演会が開催されている。1955年、重要無形文化財保持者(人間国宝)を辞退した。
 墓は西方寺(西賀茂)にある。
◆賀茂季鷹 江戸時代の歌人で国学者・賀茂季鷹(1754-1841)。京都に生まれた。別名は山本右膳、また賀茂寅之助とも名乗った。号は生山、雲錦。叔父・季栄(すえひさ)の養子となる。12歳で皇族・有栖川宮職仁(ありすがわのみや よりひと、1713-1769)親王に学んだ。親王は、有栖川 流書道を創始した。和歌にも造詣が深く、桃園院、後桜町院の歌道師範だった。季鷹はこの時、江戸時代全盛期の「堂上歌学」を身につけている。1773年頃、19歳で江戸に行き、古学を学ぶ。江戸では、加藤千蔭、村田春海ら歌人・文人と交わった。1791年か1793年に帰京、上賀茂神社の祠官として、正四位下安房守となる。
 和歌、狂歌を得意とし、書にも秀でた。広く文人墨客と交遊した。1801年、上賀茂に吉野の桜と龍田の紅葉を植栽し、「雲錦亭」と名づけて住む。1811年柿本人麻呂、山部赤人の像を祀る「歌仙堂」を建てた。国学の研究を重ね、数千巻の和漢書を文庫に蔵した。
 没後、当初、墓は上賀茂中河原墓地に葬られた。大正末年に西方寺の小谷墓地に改葬された。
◆多梅雄 多梅雄(おおの うめお)。詳細不明。「鉄道唱歌」作曲者。
◆五山送り火 毎年8月16日8時15分、船形万燈籠(京都市登録無形民俗文化財)が点火される。
 船形の舳先は、西方浄土を表す精霊船で、弘誓(ぐせい)の船、菩薩が衆生を済度し、涅槃の彼岸に人を乗せて渡すことを意味している。 
 寺の開祖・慈覚大師円仁は、二度の遣唐使派遣に失敗した後、三度目の唐留学(838)の途上、船で嵐に遭い、「南無阿弥陀仏」を唱えたところ船は全壊したものの無事渡航し、還ることを果たした。そのことにより、送り火は船形に象られたという伝承がある。
 少なくとも江戸時代初期には、現在のような形での送り火が行われていた。それ以前については不明。
 現在の西賀茂舟山(妙見山、315m)の船形万燈籠は、火床79。左船体93m、右船体93m、帆113m、船の深さ40m。西方寺と船形万灯籠保存会により維持されている。
◆六斎念仏 送り火(8月16日)の終了した午後9時頃より、境内で六斎念仏が行われている。
 六斎念仏は、鉦や太鼓にあわせ念仏を唱える。京都の六斎念仏の起源は、平安時代、空也上人が始めたとされる「踊躍念仏」とされている。人々に仏教を広めるために、「六斎日」 (毎月8日、14日、15日、23日、29日、30日)の六日、市中各所で、鉦や太鼓を打ち念仏を唱え踊ったことに由来するという。
 当寺の六斎念仏は、道空上人が広めたといわれる干菜寺(ほしなでら)六斎念仏(念仏六斎)の流れを汲む。抑制された動きで、鉦や太鼓にあわせ念仏を唱える形には、古い様式が残されているという。
◆墓地 境内には、幕末の歌人・太田垣蓮月尼(おおたがき れんげつに、1791-1875)の碑、皇室制度や神道史の研究家イギリス人リチャード・ポンソンビー・フェーン()の「本尊美君碑」碑がある。
 また、寺の西にある小谷墓地には、蓮月、上賀茂神社の祠官・賀茂季鷹(かもの すえたか、1752-1842)、また「賀茂県主」累代、「鉄道唱歌」作曲者・多梅雄(おおの うめお)、料理人・陶芸家の北大路魯山人(きたおおじ ろざんじん、1883- 1959)などの墓もある。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『昭和京都名所図会 3 洛北』『京都大事典』『京都の寺社505を歩く 下』『日本の名僧』


   神光院      正伝寺      干菜寺(光福寺)         

「故蓮月尼紀念碑」

リチャード・ポンソンビーの「本尊美君碑」

西賀茂舟山(妙見山)

五山送り火の「船形」

寺の東に見える比叡山

六斎念仏(8月16日)

【参照】小谷墓地、境内の西隣にある。賀茂縣主の墓、複数存在する。

【参照】小谷墓地、大田垣蓮月墓、小谷墓地に入ったすぐの左手の石段を登った所。石標の案内が出ている。

【参照】小谷墓地、北大路家代々之霊墓。戒名は「妙法祥院高徳魯山居士」、*累代の墓であり、所在案内は差し控えます。

【参照】小谷墓地、北大路家代々之霊墓、「春来草自生」(春来たりなば草自ら生ず)
 西方寺 〒603-8846 京都市北区西賀茂鎮守菴町50   075-492-5889 
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