春光院(春光禅院) 〔高台寺〕 (京都市東山区)
Shunko-in Temple
春光院 春光院
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茅葺の門







 高台寺境内の南西、ねねの道に面して塔頭・春光院(しゅんこういん、春光禅院)がある。
 臨済宗建仁寺派。  
◆歴史年表 江戸時代、1627年、武将・木下勝俊が亡き娘・春光院万花紹三(しゅんこういん ばんかじょうさん)を弔うために創建したという。
 1855年、僧・月照は大徳寺小倉庵より春光院に移る。勤王の西郷隆盛、村岡局(津崎矩子)、武士・有村俊斎(海江田信義)らと密議を重ねた。
 1856年、春光院の改築に伴い、月照は長楽寺に移る。
◆木下勝俊 安土桃山時代-江戸時代初期の武将、大名・木下勝俊(1569-1649)。長嘯子(ちょうしょうし)。足守藩2代藩主、歌人。父は木下家定、母は杉原家次の娘とも。叔母(父の妹)に北政所。豊臣秀吉に仕え、播磨国龍野城を与えられる。1590年、小田原征伐、1592年、文禄の役に参陣。のち若狭国後瀬山城を得る。1590年代初め頃より、和歌に目覚める。1600年、関ヶ原の戦いで、東軍に属し鳥居元忠と共に伏見城の守備をする。西軍攻撃の直前に城を退去する。妻のうめ(宝泉院)はそのことにより離縁した。戦後、責を問われて除封。1608年、父没後、叔母・北政所らの働きにより所領安堵、ただ、弟を差し置き独占した形になり幕府の命に反したとして所領を失う。
 高台寺の南隣りに結んだ「挙白堂」に隠棲、長嘯子と号し、1640年頃まで和歌を詠む。晩年は大原野の勝持寺畔に移り、死去。墓は高台にある。
◆春光院万花紹三 江戸時代の女性・春光院万花紹三(しゅんこういん ばんかじょうさん、?-1627)。詳細不明。父は木下勝俊。母は勝俊の後妻とも。
 1627年17歳の娘を失った父・木下勝俊は次の歌を残している。「むらさきも朱(あけ)もみどりも春の色はあるにもあらぬ山桜かな」「夕顔のさける軒ばの下涼み男はててれ女(め)はふたのもの」「すべてただこれ皆秋のすることぞ月も夕べも虫も憂からず」「黒髪もながかれとのみ掻き撫でしなど玉の緒のみじかかりけん」。
◆月照 江戸時代末期の僧・月照(げっしょう、1813-1858)。大坂の町医師・玉井 宗江の子。1827年清水寺成就院の叔父・蔵海に学ぶ。中将房忍凱と称した。1835年、15歳で第24世住持となる。清水寺に真言密教子島流を 再興した。寺の改革、復興のための資金回収が成功せず、北越へ出奔、1854年、境外隠居の処分の身となる。清水寺が近衛家の祈願寺であり、近衛家と島津家とが姻戚関係にあったことから、薩摩、さらに尊攘派の朝彦親王(法名・尊融法親王)との関係が深まった。また、1854年、和歌で師事した左大臣・近衛忠煕の影響により攘夷に近づく。1858年、薩摩藩の政治家・軍人の西郷隆盛、薩摩藩士で政治家の海江田信義らの倒幕の挙兵に加わる。だが、幕府の捕史の手が伸び、京都から逃れ鹿児島へ向った。薩摩藩は、幕府の責任追及を回避するため、二人を東目(日向)へ追放する。後ろ盾だった斉彬も失い、前途を悲観した西郷と月照は入水し、月照のみが死亡した。
◆花暦 庭に杜若が植えられている。


*非公開
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都府の歴史散歩 中』


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春光院 〒605-0825 京都市東山区下河原町531,八坂鳥居前下る  075-561-8424
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