梅小路公園・西八条第跡 (京都市下京区) 
Umekouji Park・Roundhouse
梅小路公園・西八条第跡  梅小路公園・西八条第跡
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七条入口広場


いのちの森にある樹冠回廊、動植物を間近に観察できる


いのちの森内のビオトープの小川


河原遊び場


朱雀の庭




緑の館


二条駅駅舎
 都市公園の梅小路公園(11.6ha)は、平安遷都1200年記念事業として梅小路貨物ヤード跡地に開設された。西に隣接して梅小路蒸気機関車館がある。 
 施設は、現在も山陰本線、東海道本線などに隣接している。
◆歴史年表 平安時代末、平清盛の西八条第があった。
 鎌倉時代、1236年、「梅小路」の名が記されている。(「平氏女私領売券案」)
 江戸時代、梅小路村には、公家の園家、安倍晴明を祖とする土御門家など6家があった。
 近代、1876年、京都機関庫として仮開設する。
 1889年、一帯は、合併し、七条村大字梅小路になる。
 1897年、京都鉄道が二条機関庫を開設する。
 1914年、京都機関庫と二条機関庫が統合され、梅小路機関庫が発足した。
 1921年、馬場機関庫(大津市膳所駅)が廃止され、梅小路機関庫馬場分庫に改称する。
 1936年、梅小路機関区に改称される。
 現代、1972年、日本の鉄道100年記念として梅小路蒸気機関車館が開館した。
 1987年、梅小路運転区に改称する。国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道に継承された。
 1994年、平安建都1200年記念事業として、貨物ヤード跡地に梅小路公園が開園した。
 1997年、旧二条駅舎が移転され、蒸気機関車館が再館になる。
 2015年、京都鉄道博物館開館準備のために一時閉館になる。SL専用検修庫が新設になる。
 2016年、京都鉄道博物館が開館予定。 
◆いのちの森 いのちの森の面積は0.6haあり、京都では初めての「復元型ビオトープ」になる。
 復元計画には当初から、「京都ビオトープ研究会」(1993-)が関与し、かつての山城原野の原生林復元を目指し、落葉広葉樹林のニレ科樹種(ムクノキ、エノキ、ケヤキ)などを主とする河畔林、山麓のシイ林が設けられた。森は最終的には、下鴨神社(左京区)の糺の森を目標とし、今後、100年をかけて森が成熟していく過程が見守られる。
 森内には、湿地、扇状地の湧水湿地、氾濫原の低湿地などが造られ、大小6つの池が配置され、循環水と地下水が利用されている。池の底には滋賀県栗東の田圃の土が使われた。
 森は「樹冠回廊(歩行デッキ)」から間近に観察することができる。「朱雀の庭」は里山がイメージされている。
 現在、森の動植物のモニタリング(事後の自然観察・調査)が植物、菌類、野鳥、昆虫、光環境に分かれて、毎月第三土曜日に行なわれている。樹木の種類はエノキが最も多く、ムクノキ、アカメガシワなどが続き、約2000本ほどが確認されている。2006年度で確認された植物は80科340種、シダ類は9科26種、鳥類は21科32種、菌類は84種になる。
◆西八条第の遺構 近年、1992年、梅小路公園の工事の際に、平安時代末の武将・平清盛(1118-1181)邸「西八条第(にしはちじょうてい、西八条邸)」の一部遺構が発見された。発掘された柱跡、溝跡、土器、焦土などは、遺構保存のために、地下鉄東西線などの工事で出た土により盛土されている。
 平安時代、1166年、6町という広大な邸宅が造営され、清盛の本邸になる。中心地は八条坊門櫛笥亭(八条一坊十一町)付近にあり、2町に建物が建てられた。清盛の妻・時子(二位尼)の八条堂なども建っていた。1年後、清盛は摂津福原に居を移し、入洛の際には邸宅を利用していた。後には主に時子が住んだ。
 1179年、清盛の娘・建礼門院徳子が産んだ高倉天皇第一皇子・言仁(ときひと)親王(1178-1185、後の第81代・安徳天皇)は、西八条第に初の行啓をしている。1181年、清盛没後わずか2日後、都落ちした平家は、自ら手で屋敷に火を放ち全焼する。
 その後、再建され、1183年に再び焼失している。1185年、栄華を誇った平家は、壇ノ浦の戦いで滅亡した。
 西八条第は『平家物語』の舞台に設定された。仏御前は西八条第に清盛を訪ねる。祇王、祇女の白拍子姉妹は、この邸に養われていた。

◆梅小路機関車庫 梅小路蒸気機関車館は、1914年に蒸気機関車の駐留、整備のための施設として建てられた。前の転車台に集中する形の扇形車庫(重文)には、18両(20両を収容可能)の蒸気機関車が動態保存されている。建物は、直径200mの半円で、日本最古コンクリート製車庫とされる。
◆二条駅駅舎 梅小路蒸気機関車館の二条駅駅舎(京都市文化財)は、1904年に山陰線の二条駅駅舎として建てられた。建物は1996年に移築され、現在は博物館として利用されている。木造瓦葺、和風建築。  
◆原爆投下目標地 第二次世界大戦中の1944年より、アメリカは日本全国の都市に対して、極めて有効な空爆による焼夷弾攻撃を繰り返した。京都市はほかの都市に比較して、空襲被害が少なかった。それは、「温存」されていたことによる。
 1942年、アメリカはマンハッタン計画により、核爆弾開発に着手する。1945年5月、原爆投下の目標選定委員会が開かれ、投下第一候補に京都を挙げた。投下標的地は、梅小路機関車庫とされた。これは、上空から、半円形の扇形車庫が確認しやすいためだった。京都の次の候補地は、広島、横浜、小倉、新潟の順だった。その後、新潟は外される。
 6月、アメリカ軍は、投下候補地への空襲による攻撃禁止命令を出している。被害を最小にして、原爆投下による効果を確かめるための措置だった。7月、アメリカは、ニューメキシコ州アラモード砂漠で、史上初の核実験に成功した。
 京都が第一の投下目標地になったのは、当時の京都が人口100万人の工業都市だったこと。ほかの都市より軍需産業が移転しつつあった。かつて首都が置かれ、「投下後に市民が原爆投下の意義を認識する能力がある」と判断されたなどの理由がある。
 結果的に、京都市に原爆は投下さなかった。代わりに、長崎、広島に投下される。投下目標地の変更理由とは、原爆投下を推進してきたヘンリー・ステムソン陸軍相が反対し、トルーマン大統領が支持したことによる。対日強硬派の陸軍相は、投下後にソ連が日本へ進行することを警戒していた。投下後の戦後処理で、日米の和解交渉が長期化、困難化することを避けたといわれている。
 これらを回避可能な、次の候補地に原爆は投下された。候補地になっていなかった長崎が選ばれたのは、上空が曇ってた候補地の小倉の代わりに、晴れていた長崎が選ばれたといわれている。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都府の歴史散歩 上』『平安の都』『京都まちかど遺産めぐり』『京都大事典』『あなたの知らない京都府の歴史』『京都の地名検証 3』


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梅小路公園 〒600-8835 京都市下京区観喜寺町  075-352-2500 
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