知恩院 (京都市東山区) 
Chion-in Temple
知恩院 知恩院
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三門付近(下の段)

三門(国宝)


三門







三門、三門とは三解脱門の空、無相、無願を表す。




三門、江戸時代、第112代・霊元天皇(1654-1732)筆の「華頂山」の扁額




三門




三門



三門、南北の山廊端まで入れると54mの長さがあり、日本最大という。


三門、山廊


三門、軒丸瓦






三門













男坂


女坂


小鍛冶井、三門近く


大燈籠、三門近



南門


黒門


黒門






黒門坂




黒門からの石垣部分










北門








四脚門

御影堂付近(中の段)






御影堂(国宝)(本堂、大殿<だいでん>)


御影堂瓦葺の模型


御影堂


御影堂、葵御紋


御影堂、北側


御影堂


御影堂


回廊、御影堂と阿弥陀堂を結ぶ部分。


回廊


集會堂の回廊である歩廊(ほろう)


歩廊


集會堂


集會堂仏間、須弥壇に阿弥陀三尊像


集會堂、この奥(北)に別棟の大庫裏(雪香殿)、小庫裏(月光殿)がある。


集會堂


七百五十万霊塔


七百五十万霊塔


七百五十万霊塔


七百五十万霊塔


七百五十万霊塔




七百五十万霊塔






阿弥陀堂


阿弥陀堂、扁額「大谷寺」は、第105代・後奈良天皇の宸筆。


阿弥陀堂


阿弥陀堂、本尊の阿弥陀如来坐像。


宝佛殿
  東山三十六峰の一つ華頂山(かちょうざん)の麓にある知恩院(ちおんいん)は、法然が住み、念仏をひろめた「吉水の御房」の地になる。かつて徳川家の菩提寺だった。正式には、華頂山大谷寺(おおたにじ)知恩教院という。 
 浄土宗7000か寺の総本山、念仏宣布の根本道場になる。本尊は本堂に法然上人像を安置する。
 法然上人(圓光大師)二十五霊場第25番。
 本山、勢至堂で御朱印(3種類)が授けられる。
◆歴史年表 平安時代末期、1175年、法然(1133-1212)は、天台宗の比叡山西塔黒谷の住坊を下り、西山、広谷(後の粟生光明寺)の念仏の聖・遊蓮房円照に寄る。(『法然上人絵伝』)。法然は吉水の草庵に移り、専修念仏の道場になる。境内には、中ノ房(大殿付近)、東ノ房(鐘楼堂付近、小方丈の地とも)、西ノ旧房(三門西南付近)があり、法然はおもに中ノ房に住した。浄土宗が開宗される。(『法然上人絵伝』)
 鎌倉時代、1204年、法然は、門弟190余人の署名とともに「七箇条制誡」をしたため、比叡山衆徒の浄土宗への批判をかわす。
 1205年、興福寺の貞慶らは「興福寺奏状」を朝廷に提出し、後鳥羽院(第82代)に念仏停止を求める。
 1207年、法然は「承元の法難」により、四国・土佐国へ流罪になる。
 1211年、法然はようやく帰京を赦される。だが、草庵は荒れ果て、青蓮院の慈円僧正により大谷の禅房(勢至堂付近)に移る。
 1212年、法然が亡くなり、門弟・勢観房源智は、法然の遺骸を禅房(現在の勢至堂付近)の東に廟堂(現在の御廟付近)を建て葬る。以後、廟堂は高弟・信空(1146-1228)により管理される。命日には知恩講(追善法会)を催す。廟堂は多くの参詣者を集め、貴賤を問わず念仏者の聖地になる。
 1227年、「嘉禄の法難」では、比叡山の僧徒が専修念仏の停止を訴え、廟堂の破壊が行われる。法然の遺骸を掘り起こし、鴨川に流そうとした。住房なども破壊された。京都守護・北条時氏、内藤西仏らが暴挙を制した。弟子・宇都宮蓮生、千葉法阿らは再来襲をおそれ、秘かに遺骸を粟生(あおう)の地(光明寺)に遷し、荼毘に付されたともいう。(『法然上人絵伝』『百錬(練)抄』)。
 1234年、法然の弟子・源智は廟堂を修理し、仏殿、御影堂、総門を建立した。知恩院大谷寺と名付け法然を開山1世とした。法然の遺骨の一部が移安される。この時、第87代・四条天皇により、総門に「華頂山」、御影堂に「知恩教院」、仏殿に「大谷寺」の勅額を贈られる。以後、勅願所になる。
 1315年、法然像の版画が知恩院に置かれる。
 室町時代、1431年、焼失した。(『師郷記』)
 1432年、空禅は人別一文あて48万人の勧進を始めた。(「知恩院文書」)。後に将軍・足利義教も勧進に尽力する。
 1460年、青蓮院は知恩院敷地山林所領を安堵する。
 1468年、1467年とも、応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失している。(『碧山日録』『後法興院記』)。22世・周誉珠琳は影像を一時、近江伊香立の新知恩院に避難させる。
 1482年、旧地に仏殿、影堂が再興された。新知恩院より什宝が移される。
 1488年、青蓮院の尊応は知恩院敷地山林所領、法楽寺無量寿院惣別寮敷地を安堵する。
 1491年、管領・細川政元は寺領を安堵する。
 1517年、焼失した。影像、勅伝は焼失を免れる。(『宣胤卿記』『後法成寺尚通公記』)。梵鐘が再鋳された。東福寺の萬寿寺より伽藍を移して阿弥陀堂とする。
 1523年、百万遍知恩寺25世・伝誉慶秀らによる別院の動き(本家争い)が起きる。青蓮院の尊鎮法親王は知恩院に一宗本寺の地位を与えた。
 1524年、御忌大会(大永の御忌鳳詔)が始まる。詔勅により、浄土宗総本山になる。
 1530年、27世・徳誉光然の時、大谷禅房の旧地に御影堂(現在の勢至堂)が建立された。第105代・後奈良天皇は、「知恩院教院」「大谷寺」の勅額を贈る。
 1553年、称念は毎月一夜の不断念仏を始めた。
 1560年、足利義輝は一宗本寺の座次公帖を下す。
 安土・桃山時代、1573年、15代将軍・足利義昭が織田信長により追放された際に、義昭の二条城に対して信長は、知恩院に陣をしく。信長は恩謝として白銀、米、寺領を寄せる。第104代・後柏原天皇により、浄土宗本寺と認められる。
 1575年、第106代・正親町天皇より、門侶の香衣着用執奏権の綸旨(毀破綸旨)を得る。他山よりの香衣着用は認められなくなり、本寺の地位が確立した。(「知恩院文書」)。信長は本陣をしくともいう。
 1579年、信長は貞安の請により寺領100石を加増する。
 1582年、上洛した織田信長は本陣をしく。(『兼見卿記』)。信長は勝利したとして、寺領などを寄進した。(「知恩院文書」)
 1585年、豊臣秀吉は寺領190石を寄せた。
 1586年、秀吉は寺領200石を寄せる。
 1593年、秀吉は寺領246石を寄せる。
 1595年、明匠といわれた29世・満誉尊照が入る。
 1602年、徳川家康の母・於大の方(伝通院)が伏見城で亡くなる。葬儀が知恩院本堂で行われ、満誉尊照が導師になる。以後、家康により伽藍造営が行われる。
 江戸時代、1603年、家康により徳川家の「香華の寺」、また、母・於大の方(伝通院)の菩提として永代の菩提寺とする。家康は寺領703余石を寄進する。(知恩院文書)。以後、諸堂が整えられる。青蓮院境内一部は割譲、常在光院は相国寺に、親鸞の墓は延年寺山に移された。速成就院(白毫寺、太子堂)も塩竈町に移された。知恩院門跡が創立され、直輔親王(後の良純法親王)が知恩院宮門跡の初代になる。
 1604年、家康は青蓮院の地に寺地堂舎を建てる。速成就院は移される。
 1607年、家康は、良純親王(第107代・後陽成天皇皇子)を猶子(ゆうし、親子関係)とし、第29代住持尊照の後継者にした。以後、門跡寺院(門跡に治定)に列した。
 1608年、周辺の社寺が摂取され、寺域が拡大した。
 1611年、家康が詣でる。
 1615年、家康は浄土宗法度を制定し、知恩院などへの統制を強める。良正院殿が二条城で亡くなり、後に知恩院山上に葬られる。
 1617年、2代将軍・徳川秀忠は父・家康の遺命により三門、経蔵の造営を始めた。
 1621年頃、1619年とも、三門、経蔵が完成する。江戸時代の浄土宗四箇本山(ほかに金戒光明寺、百万遍知恩寺、清浄華院)のひとつになる。上の段(勢至堂)、中ノ段(御影堂付近)、下の段(三門付近)が整備され、下の段には20あまりの塔頭が建ち並ぶ。本堂西仏壇に神君様(家康)の寿像が「皇都平穏、西国鎮護」のためとして祀られた。経蔵に宋版一切経5600余巻が納められた。(『旧記採要録』『中井家記』)
 1623年、壇林、惣門中の掟を定める。(『筆蹟類聚』)
 1624年、宗把は塔頭・良正院を中興する。
 1633年、32世・持雄霊巌の時、勢至堂、三門、経蔵、阿弥陀堂を除いて伽藍焼失した。3代将軍・徳川家光による再建が始まる。営造奉行には片桐石見守貞昌、堀田兵部少輔、芦浦観音寺らが任じられた。(『華頂山由緒系図本記』『知恩院炎上次第書及炎焼覚書』)
 1639年、御影堂が再建されたという。(『華頂山由緒系図本記』)
 1641年頃までに、家光により現在の寺観に整備される。御影堂、大方丈、小方丈が再建される。狩野派により大方丈、小方丈の障壁画制作が行われた。(『旧記採要録』)
 1652年、二条城本丸御休息の間、御数奇屋、御座の間-多門の廊下が知恩院に寄進になる。
 1658年、幕府は寺田千石を寄進する。
 1666年、家康二女・督姫が亡くなり、37世・玄誉知鑑が導師を務めた。知恩院にも分骨される。勢至堂に祠堂銭が寄進され、尊牌が祀られた。墓地に宝塔が立てられる。
 1671年、堂宇の修復が行われた。
 1672年、堂宇修復が終わる。
 1678年-1679年、祇園社領に三門前新道を拓く。
 1698年-1672年、堂宇修復が行われる。
 1706年、大殿外陣に「大谷寺」の勅額が掲げられた。
 1710年、第122代・霊元上皇は「華頂山」の勅額を贈る。
 1715年、「華頂山」の勅額を三門に掲げた。
 1782年、祇園社領北林を火除地として永代借地にする。
 1784年、飢民一万人に救米施行する。
 1822年、安養寺領の一部を火除地として永代借地にする。
 1826年、ドイツ人医師・博物学者のシーボルトは、知恩院、祗園社、清水寺、大行寺、方広寺、三十三間堂などを訪れた。
 1835年、大方丈、黒門、集会堂、神殿などが修復される。
 1852年、泰平亭が建てられた。
 1864年、蛤御門の変のために、御影像を勢至堂に遷す。変戦没者のために施餓鬼を行う。
 1867年、1868年とも、7世・尊秀法親王(華頂宮博経親王)の復飾により、知恩院宮門跡が廃絶する。(「知恩院文書」)
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により荒廃する。寺領の返還が行われた。徳川幕府の外護を喪う。知恩院宮復飾し華頂宮と称した。第122代・明治天皇の東行に伴い5万両を上納する。
 1870年、源光院に仮勧学場が開かれた。
 1871年、江戸幕府の定めた三門跡制(宮門跡、摂家門跡、准門跡)は廃止になり、門跡の称号も廃された。療病院建設に伴い京都府に700両を献金する。
 1872年、京都博覧会(80日間)の会場の一つになり、第122代・明治天皇が行幸する。
 1875年、入信院に総本山勧学道場を開く。
 1878年、浄土宗大教院を華頂宮旧邸に移す。
 1879年、信源講が設立される。
 1886年、1885年とも、内務大臣により縁故による門跡称号を許された。
 1887年、門主が浄土宗管長になる制が定まる。入信院に尼衆学校が開かれた。
 1897年、安藤精軒は、山内の法徳院に慈善事業の施薬院病院を開設した。
 1903年、京都府・京都市・京都医会は合同で施薬院協会を設立し、山内の入信院での救治療養を行った。
 1910年、阿弥陀堂が再建になり、落成慶讃会が行われる。
 1911年、華頂女学院が創立された。
 1915年、大庫裏が修理され雪香殿になる。大殿に勅額「明照」を掲げた。
 1919年、納骨塔が完成する。
 1924年、専修道場、継志学寮が開かれる。
 1930年、納骨堂が完成した。
 1934年、室戸台風で堂宇に被害が出る。
 1937年、小庫裏が増築になる。
 現代、1947年、浄土宗から離脱し、本派浄土宗(後の浄土宗本派)を立てた。
 1958年、泰平亭を再建する。
 1959年、七百五十万霊塔が完成した。
 1961年、浄土宗と再合同する。宗学研究所が設立された。
 1968年、宝物館が完成する。友禅苑の茶室「華麓庵」が完成した。
 1970年、知恩院資料編纂所が開設になる。
 1974年、権現堂が完成した。
 1986年-1991年、三門の半解体修理が行われた。
 2002年、三門、御影堂が国宝指定になる。
 2004年、大方丈の屋根葺き替えが完成する。
 2011年、法然上人800年大遠忌が執り行われた。
◆法然 平安時代後期-鎌倉時代前期の僧・法然(ほうねん、1133-1212)。圓光大師。美作国に生まれた。1141年、父・漆間時国明石定明は夜襲により亡くなる。父の遺志により9歳で出家、1145年、13歳の時比叡山に上る。1147年、西塔北谷・持宝房源光に師事し、戒壇院で授戒し出家した。1150年、西塔黒谷・慈眼房叡空に師事し、法然房源空と改名した。出離の心を述べた法然に「年少であるのに出離の志をおこすとはまさに法然道理の聖である」と感服する。房号を法然房とし、最初の師・源光と自らの叡空から一字ずつ採り法名を源空とした。その後、法然は25年にわたり修行を重ねる。一切経(5048巻)を5遍通読したという。1175年、中国浄土教の善導(613-681)の『観無量寿 経疏』(『観経疏』)を見出し、比叡山を下りた。当初は西山広谷に移り、専修念仏を確立し、東山大谷で浄土宗を開く。中の坊(御影堂東)に住した。門弟の宿坊は、西の旧坊(三門西南)、東の新房(大鐘楼東北)にあった。口称念仏は庶民だけではなく、宮廷人にも広まる。1186年、南都北嶺の僧達と洛北大原勝林院で問答(大原談義)する。1204年、延暦寺衆徒による専修念仏停止を天台座主に要請した「元久の法難」が起きた。僧徒は停止を迫り蜂起、法然は「七箇条制誡」を定め、弟子190人の連署得て天台座主に提出する。だが、興福寺の奏状により念仏停止の断が下された。1206年、後鳥羽上皇(第82代)の寵愛した女官(鈴虫、松虫)らが出家した事件「承元(建永)の法難」により、専修念仏の停止になり、1207年、法然は四国・讃岐へ流罪となる。10カ月後に赦免されたが入洛は許されず、摂津・勝尾寺に住む。1211年、帰京した。吉水は荒廃していたため、天台座主・慈円により大谷禅堂(勢至堂)に住む。その翌年に大谷の禅堂で亡くなる。生前の法然は、精舎を建てることに反対していたという。遺骸は、禅房東の崖上(御廟)に葬られ、墓堂(現在の法然廟)が建てられた。遺言書『一枚起請文』(1212)。『選択本願念仏集』を著す。
 法然は、源信と善導の影響を受けている。あらゆる階層、性別に関係なく専修念仏行、口称名号の念仏により、極楽往生を願う者は救済されると説いた。旧来の自力による悟りの仏教から、阿弥陀仏の他力に預かる衆生救済の仏教への転換になった。末法の世において、浄土門により人々は救われるとした。浄土門では阿弥陀仏の本願力、他力により極楽浄土に至るとし、易行門であり、誰もが念仏を唱えることを説いた。
◆源智 鎌倉時代初期の浄土宗の僧・源智(げんち、1183-1239)。父は平家一門の武将・平師盛(1171? -1184)。紫野門徒の祖。妙法院法印とも称される。号は勢観房。1234年、知恩寺を再興した。法然最期の時まで長く師事する。臨終の際に法然は体を起こし筆を取り、遺訓『一枚起請文(一枚消息)』(1212)を記して源智に授けた。1234年、源智は法然の廟堂を建て、禅房跡には勢至堂を建てた。
◆忍性 鎌倉時代の僧・忍性(にんしょう、1217-1303)。大和国に生まれた。父は伴貞行、母は榎氏。文殊信仰のあった母没後、16歳で出家、額安寺、安倍文殊院、生駒山竹林寺などで修行をした。1239年、西大寺・叡尊の戒を受け弟子となる。「非人」を文殊菩薩の化身とし、西大寺流律宗にも影響を与える。ハンセン氏病罹患の「非人救済」に尽くす。1252年、関東常陸に移り、1262年、叡尊の鎌倉下向に際し北条氏の信頼を得る。多宝寺、1267年、極楽寺に住した。鎌倉でも「非人救済」に努める。東大寺大勧進、四天王寺別当、摂津多田院別当を歴任した。
 現在も知恩院境内に立つ五輪塔(忌明塔)が忍性の墓ともいう。
◆良純法親王 江戸時代前期の皇族・良純法親王(りょうじゅん ほっしんのう、1604-1669)。通称は八宮。第107代・後陽成天皇の第8皇子。母は典侍庭田具子(権大納言庭田重具の娘)。5歳で知恩院に入る。1603年、知恩院初代門跡となる。1614年、親王宣下を受け、1615年、徳川家康の猶子となる。直輔親王と名乗った。1619年、16歳で知恩院の満誉尊照により出家・得度し、良純法親王と称した。1643年、甲斐国天目山に配流される。1659年、帰京、泉涌寺に住し、北野で還俗し隠退した。
 泉涌寺に葬られ、専蓮社行誉心阿自在良尚大僧正の諡号が贈られた。1768年、名誉回復により改めて無礙光院宮良純大和尚の諡号が贈られた。
◆狩野尚信 江戸時代前期の画家・狩野尚信(かのう なおのぶ、1607-1650)。山城国に生まれる。名は主馬。狩野孝信の次男、探幽の弟。剃髪し自適斎と号した。1630年、江戸に召され幕府御用絵師木挽町狩野家の基礎を築く。1626年、兄・探幽らと二条城、1641年-1642年、内裏、1642年、聖衆来迎寺客殿などの障壁画を制作。最期は失踪したともいう。減筆法を特徴とした。代表作は「瀟湘八景図屏風」(東京国立博物館蔵)など。
 1641年、知恩院の大方丈、小方丈の障壁画制作を兄・探幽に代わり指導し作品を残す。
◆狩野信政 江戸時代前期の画家・狩野信政(かのう のぶまさ、1607-1658)。外記。狩野秀信の長男。狩野孝信の娘婿、後に探幽の娘婿。後水尾上皇・正室の東福門院の御用絵師。1642年、聖衆来迎寺客殿の障壁画を手掛け代表作になる。知恩院大方丈にも障壁画がある。
◆宮崎友禅斎 江戸時代前中期の染物絵師・宮崎友禅斎(みやざき ゆうぜんさい、生没年不詳)。詳細不明。京都生まれ。出家者という。貞享年間(1684-1688)、元禄年間(1688-1703)、知恩院門前に住み活躍した。尾形光琳の画風を学ぶ。扇面師として扇面に描いた絵が「友禅扇」と呼ばれた。花鳥風月など模様染めの着物(小袖)の雛形を描く。「友禅」と号し評判になる。友禅染の祖とされる。絵柄集に『余勢ひいながた』『友禅ひいながた』。
 知恩院境内に寓居跡、庭園「友禅苑」、銅像、「友禅斎 謝恩の碑」が立つ。
◆千姫 江戸時代初期の女性・千姫(せんひめ、1597-1666)。父は2代将軍・徳川秀忠、母は浅井長政の娘・江与の方(崇源院)。伏見城に生まれた。徳川、豊臣氏和親のため、1603年、7歳で豊臣秀頼の正室になる。1615年、大坂夏の陣で徳川勢の城攻めの際に篭城した。祖父・家康の命により助け出された。秀頼と側室の娘・奈阿姫(天秀尼、後の東慶寺住職)を助命嘆願し、その処刑から救う。だが、炎上落城により、秀頼と母・淀殿は自害した。側室との子・国松も殺害された。豊臣氏が滅び関東に帰り、1616年、本多忠政の長子・忠刻と再婚。 忠刻没後は落髪し、天樹院と称した。
 墓は知恩院にある。
◆吉子内親王 江戸時代の浄林院吉子内親王(よしこ ないしんのう、1714-1758)。幼名は八十宮(やその みや)。第112代・霊元天皇第13皇女、生母は右衛門佐局松室敦子。1714年、生後わずか1カ月で将軍・徳川家継(6歳)と婚約する。史上最年少の将軍への権威付けをするためにの降嫁だった。1716年、納采の儀を済ませる。2カ月後に家継が死去した。史上初の武家への皇女降嫁、関東下向には至らなかった。1732年、出家し、法号を浄琳院宮(じょうりんいんのみや)といった。
 墓は知恩院にある。
◆華頂宮博経親王 江戸時代-近代の皇族・華頂宮博経親王(かちょうのみや ひろつね しんのう、1851-1876)。隆宮。伏見宮邦家親王の第12王子、母は家女房堀内信子。1852年、出家し知恩院門跡7世となり尊秀と号した。1860年、第121代・孝明天皇猶子、親王宣下を受ける。落飾し知恩院門跡・法名尊秀入道親王と称した。1868年、勅命により復飾、最後の知恩院宮門跡となる。華頂宮家創設し、宮号を知恩院に因み華頂宮とした。1870年、アメリカ留学、1872年、病気帰国、1876年、海軍少将となる。
◆寺名 知恩院の寺名について詳細不明。もとは宇治平等院内青蓮院脇門跡の寺名ともいう。慈円によりその一部が吉水に移され、知恩房と呼ばれ、青蓮院の役房の一つになる。その後、隆寛の住房になったともいう。
門跡寺院 安土・桃山時代-江戸時代初期の第107代・後陽成天皇の第8皇子輔親王(良純親王、徳川家康の猶子)以後、近代まで宮門跡になった。宮門跡は7代続き、幕末の1867年、尊秀法親王の還俗まで続いた。
◆仏像・木像・肖像・位牌 御影堂の内陣右に安置の中尊「阿弥陀如来三尊像」(重文)(98.2㎝)は、鎌倉時代作になる。法然が亡くなる際に、傍らに置かれていたという。定朝様。木造、漆箔、粉溜。脇侍に「観音・勢至菩薩」。宮殿(厨子)内に、武蔵の桑原左衛門入道作ともいう「宗祖法然の木像」も安置されている。非公開。
 御影堂脇壇東壇の秘仏「善導大師立像」(96.1㎝)(重文)は、鎌倉時代(13世紀)作になる。公家・藤原国道が持仏堂に安置し、報恩寺を経て吉峯寺に遷された。その後、室町時代、1398年に当院に遷されたという。頭を上げ、合掌する。口を開き一心に念仏を唱えている。像内に五臓を納める。檜材、彩色、玉眼。非公開。
 御影堂西壇に、「徳川家康像」、その子「徳川秀忠像」、家康生母「傳通院殿坐像」が安置されている。
 勢至堂・本地堂須弥壇に、本尊の「勢至菩薩坐像」(56㎝)(重文)が安置されている。鎌倉時代作(13世紀前半)になる。慶派仏師作。単独で安置される。かつての本尊は法然の尊像御影だった。その後、御影堂に遷されたため、法然本地身の勢至菩薩像を安置した。このため、本地堂とも呼ばれた。檜材、割矧造、金泥塗彩色・切金、玉眼。
 大方丈の仏間の一文字仏壇に「阿弥陀如来像」(重文)を安置する。快慶作という。
 三門上層部内部、須弥檀中央に本尊「宝冠釈迦牟尼仏像」、左右に「須達(しゅだつ)長者」と「善財童子」、脇壇に「十六羅漢像」。須弥檀中央に現世の仏、本尊の「釈迦如来坐像」を安置する。
 阿弥陀堂の本尊「阿弥陀如来坐像」(270㎝)を安置する。仁門菩薩の造仏という。百済寺から遷されたという。火災により頭部のみが残され、その後、江戸時代、1760年に補修された。近代、1910年、金箔が施され、天蓋、瓔珞なども新調された。
 「押出鍍金三尊仏」2面(重文)は、奈良時代作、京都国立博物館寄託。
 集会堂の仏間の須弥壇に「阿弥陀三尊像」、脇壇に3代将軍「徳川家光画像」、4代将軍「徳川家綱画像」を貼る薄厨子が安置されている。
 
宝佛殿に、「阿弥陀如来立像」、「四天王像」を安置する。
 
権現堂に、初代・徳川家康・2代秀忠・3代・家光の位牌と肖像画を安置する。かつては、徳川家は浄土宗徒であり、知恩院25世超誉存牛(ちょうよぞんぎゅう)も松平氏第5代長親の弟だった。
◆建築 三門、黒門、本堂、阿弥陀堂、宝物収蔵庫、集会所、唐門、大方丈、小方丈、対面所、小庫裡、大庫裡、経蔵、納骨堂、宝物館、鎮守社、鐘楼、宝蔵、勢至堂、法然廟などが建つ。徳川家康は非常時に備え、知恩院を城構えの造りにしたという。
 ◈「三門」(国宝)は、江戸時代、1619年(1621年とも)に、2代将軍・徳川秀忠により建立された。三門(三解脱門、空門、無相門、無頼門)形式は、浄土宗ながら禅宗寺院(唐様)にみられる様式になる。禅以外の他宗では、知恩院と金戒光明寺以外にはないという。日本三大門のひとつ。門の上層内部は仏堂になっており、四周に廊縁付。各部材に彩画、彩色文様が施されている。天井に天人図、虹梁に雲龍図がある。その他、迦陵頻迦、楽器、金襴巻、波、麒麟に雲、菊華、牡丹、マカラ、波、繧繝彩色で条帯文、菱文様、蟇股文様、連続唐草文など。中二階に大工棟梁・五味金右衛門夫妻の木像を入れた棺がある。楼上には、第112代・霊元天皇筆の「華頂山」(2畳)の額が掲げられている屋根面積1630㎡、瓦総数は7万枚。左右に山廊(端54m、棟高24m)がある。桁行26.6m、梁行12.2m、五間三戸、二階二重門、入母屋造、本瓦葺。
 ◈「御影堂(みえいどう、本堂、大殿<だいでん>)」(国宝)は、江戸時代、1633年に焼失後、1639年に再建された。徳川3代将軍家光の寄進による。2011-2018年、修造が行われた。阿弥陀堂より大きく大規模な伽藍になる。この一帯にはかつて白毫寺があり、知恩院拡張にともない移転になった。円柱、三手先の組物、手狭は複雑で長く延び、牡丹、雲文など立体的な彫刻になる。内部は11間9間、手前に3間の外陣、内陣は5間5間。内内陣の宮殿型厨子内に宗祖法然の木像を安置する。3000人を収容できる。内陣正面に第123代・大正天皇宸筆「明照」を掲げる。11間9間。一重、入母屋造、本瓦葺、外縁付。向拝は正面5間、背面3間。
 御影堂の屋根の中央頂上に、完璧ではないことを示すために、あえて「葺き残しの瓦」が積まれている。鬼瓦は、国内最大級といわれており、9つの部分を組み合わせている。高さ2.27m、幅2.94m、奥行き0.39m、重量930㎏ある。
 ◈「唐門」(重文)は江戸時代前期、1641年に建立された。大方丈の玄関前になる。安土・桃山時代の様式が残っている。蟇股に鯉に乗る仙人の彫りものがある。四脚門、前後唐破風造、側面入母屋造、檜皮葺。
 ◈「大方丈」(重文)は、江戸時代、1641年に二条城の寛永行幸の際に、城内の殿舎を移した書院建築という。1652年に知恩院に移築されたともいう。異説もあり、知恩院の寛永の大火後、1641年に新築されたともいう。矩形平面、南側に西より梅の間(18畳)、松の間(27畳)、鶴の間(54畳)、下段の間(27畳)、北側西より柳の間(18畳)、鷺の間(27畳)、仏の間・内陣・奥に菊の間(10畳)・裏上段の間(8畳)・床・納戸、中段の間(9畳)・上段の間(18畳)・床がある。各室は広縁に接し外面舞良、内面襖仕立、仏の間前の広縁境に諸折両開桟唐戸、両脇に蔀戸。上段の間は将軍大成の間になっていた。正面左に棚、右に床、右脇に付書院、向いに帳台構、天井は二重折上小組格天井、棚、帳台構部材に一文字、六葉の金具を施す。鶴の間などに狩野派による金碧障襖絵が飾られている。広縁と落縁の間に柱を立てる。正面に軒唐破風。玄関、歩廊付、桁行9間(36m)、梁行6間(25m)、一重、入母屋造、檜皮葺。(非公開)。
 ◈「小方丈」(重文)は、江戸時代、1641年に建立された。二条城殿舎を移したとされる。異説もあり、知恩院の寛永の大火後に新築されたともいう。大方丈の東北にあり南面し、歩廊で大方丈に繋がる。将軍の宿泊に使われた。矩形平面に6室ある。南側西より蘭亭の間(14畳)、雪中山水の間(室中)、下段の間(21畳)、北側に西より花鳥の間(10畳)、羅漢の間・納戸、上段の間(床)(15畳)がある。上段の間の正面に床、東奥室に床、棚、付書院。将軍の宿泊に使われた。江戸時代初期の書院造の室内装飾では完成型という。狩野派による水墨山水画で飾られている。広縁、落縁、前後東に濡縁。上段の間の広縁の東と北に杉戸が立てられている。桁行7間(22.9m)、梁間7間(18.7m)、単層、入母屋造、桧皮葺。(非公開)。
 ◈「集会堂(しゅうえどう)」は、かつて衆會堂(しゅうえどう)と呼ばれていた。江戸時代、1633年に焼失し、1635年に再建された。「千畳敷」とも呼ばれる。南面し、北に仏間、東に2室あり、297畳の一室がある。四周に縁、各伽藍を廊下(回廊、歩廊)で繋ぐ。西に士式台を供えた玄関がある。須弥壇に阿弥陀三尊像、脇壇に3代将軍・徳川家光、4代将軍・徳川家綱の画像を貼る薄厨子が安置されている。桁行42.9m、梁間23.7m、入母屋造、本瓦葺。
 ◈「歩廊(ほろう)長廊下」は、回廊になる。桁行42.9m、梁間23.7m、入母屋造、本瓦葺。
  「鶯張り廊下」は、御影堂周縁、歩廊(回廊)の一部など全長550mにある。廊下の床板の下は、横木の「根太(ねだ)」で受けている。床板には下より、金属製の「目鎹(かすがい)」の先端が打ち込まれ、鎹と根太とは和釘2本で留められている。人が通ると、その重みで床板が押し下げられ、渡された鎹と木材の間で摩擦音が発生する。
 
◈「阿弥陀堂」は、かつて勢至堂前にあり、江戸時代、1710年に移築された。近代、1878年に解体、1910年に再建されている。本尊は阿弥陀如来坐像。扁額「大谷寺」は、室町時代の第105代・後奈良天皇(1497-1557)の宸筆による。5間4間、一重、裳階付仏堂、入母屋造、本瓦葺。
 ◈「経蔵」(重文)は、江戸時代前期、1621年頃、1619年とも、2代将軍・徳川秀忠により三門とともに建てられた。現代、1994年より6年の歳月をかけ修復された。八角輪蔵がある。狩野山楽・主馬らにより、天井画、壁画に菩薩、飛天、鳳凰、楽器などが極彩色で描かれている。鏡天井、床は瓦敷。下層の外側は柱を並べ吹き放しにしている。3間3間、一重、裳階付、宝形造、本瓦葺。
 経蔵内の「八角輪蔵」(高さ7.5m、幅・奥行4m、768種の朱塗りの木箱)は、八面体の書棚になっており、回転させることができる。腕木を押して回すと、一切経を読誦した功徳あるという。中央に秀忠寄進による宋版大蔵経一切経5900帖あまりが納められている。正面に考案した中国南北朝時代斉の傳大士(双林大士傳翕、497-569)と、2人の弟子像(普浄、普賢像)が安置されている。台座に金剛力士、帝釈天、増長天など彩色木像がある。桁内部、八角輪蔵に彩色。
 ◈「宝佛殿」は、近代、1992年に建立された。
 ◈「大鐘楼」(重文)は、江戸時代中期、1678年に建立された。この付近は、かつて安養寺寺領だったという。3間3間、一重、入母屋造、本瓦葺。
 「梵鐘」(重文)は日本有数の大鐘で、江戸時代、1636年に鋳造された。高さ3.3m、口径2.8m、重さ70t。
 ◈「宝佛殿」は、近代、1992年に建立された。阿弥陀如来立像、四天王像を安置する。
 
◈「鎮守八幡社(鎮守社)」(京都府指定文化財)は、江戸時代に創建された。女坂の途中にある。
 「山亭」は、江戸時代前期の第112代・霊元天皇第13皇女・浄林院宮吉子の御殿を、江戸時代、1759年に移築している。近代、明治期(1868-1912)に改修された。
 庭園は江戸時代末期の枯山水庭園の書院庭園であり、北西角に三尊石が据えられている。高台にあり、市街地の眺望がきく。借景として遠景を取り入れている。
 ◈「勢至堂(本地堂)」(重文)は、山内で最も古く、室町時代、1530年に建立された。この地には、法然が最期まで住した大谷禅房があり、知恩院発祥の地になる。建立当初は本堂(御影堂)だった。第112代・霊元天皇皇女・吉子内親王の寝殿を贈られたという。様式には、浄土宗特有の仏堂形式の祖型が見られる。内陣、外陣があり、外陣正面に第105代・後奈良天皇筆の扁額「知恩教院」が掲げられている。知恩院の寺号の由来になった。千姫の位牌も祀られている。擬宝珠勾欄を付した縁、舞良戸、腰高明障子を立てる。7間7間(21m四方)、一重、入母屋造、本瓦葺。
 ◈「御廟堂」は、周囲に唐門と玉垣が巡らされている。御廟は、江戸時代、1613年に改築された。常陸国土浦城主・松平伊豆守の寄進による。法然の遺骨を安置する。桃山様式の彫刻が施されている。松に鶴、雲に龍、桐に鳳凰、梅に鴬、雲に麒麟、桜に鳥、牡丹に鳳凰などがある。3間3間。宝形造、本瓦屋根。
 ◈御廟堂の「拝殿」(京都府指定文化財)は、江戸時代、1710年に建立された。毎月25日に別時念仏会が開かれている。檜皮葺。
◆庭園 ◈庭園は、2800㎡の広さがある。大方丈南より小方丈へ矩形に広がる。大小方丈前の回遊式庭園、方丈庭園は、江戸時代初期、妙蓮寺・玉渕坊、量阿弥の作庭によるという。小堀遠州の技法がみられ、京都市指定名勝になっている。かつて、この地に存在した常在光院の庭園遺構ともみられている。その名は『徒然草』(1331-1332年頃)にも登場する。滝があり、桜、楓で知られた。
 江戸時代、寛文年間(1661-1673)、将軍家御庭師・山本により、庭の大改修が行われた。方丈庭園は、1989年、現代の作庭家・中根金作により改修が行われた。2007年、中世の州浜跡とみられる石敷きが発掘され、常在光院の庭園遺構の可能性も出ている。
 「二十五菩薩の庭」といわれ、阿弥陀如来が西方極楽浄土から25菩薩を従え、来迎する様を石と植込みで表した。瓢箪形の池泉、石組、白砂、飛石、植栽による。南庭、東庭は、池によりつながれ、石橋が架けられている。
 方丈庭園の池畔には、「慈鎮坐禅石(和尚石、かしょうせき)」(重美)がある。天台座主・歌人の慈鎮(慈円)は、晩年に東山の吉水坊を住坊にした。その慈鎮が坐禅した石という。もとは三門前にあり、江戸時代、天和年間(1681-1684)に、京都所司代・稲葉丹後守により現在地に移された。1.3m、チャート。
 また、小方丈東南の池畔に、鎌倉時代、元亨元年(1331年)の銘がある石灯籠がある。六角型、1.8m、花崗岩製。
 ◈知恩院友禅苑は、江戸時代前期-中期の友禅染の祖、宮崎友禅斎誕生300年を記念して、1954年に改修された。池泉と枯山水式の庭がある。茶室「華麓庵」「白寿庵」がある。
◆文化財 鎌倉時代、1307年から10年の歳月をかけた紙本著色「法然上人絵伝(法然上人行状図絵、勅修御伝)」(48巻伝)(国宝)は、知恩院の名が現れる初例になる。全編137段は国内の絵巻史上最大のものという。後伏見上皇(第93代)の勅命により、比叡山功徳院・舜昌法印が編纂した。土佐吉光の絵画と伏見法皇(第92代)らの詞書で構成される。法然の生涯が綴られ、法話、教説が説かれている。幅32-33cm、全長は548mに及ぶ。京都国立博物館寄託。
 絹本著色「阿弥陀二十五菩薩来迎図(早来迎、はやらいごう)」掛幅装(国宝)(145.1×156.1㎝)は、鎌倉時代中期(13-14世紀)作になる。阿弥陀仏と観音菩薩、勢至菩薩ら25菩薩が、往生を願う僧の元へ急転直下で来迎する様が描かれている。左上より斜め下に幾筋もの白雲が下り、阿弥陀を中心にしてそれらに菩薩が乗る。聖衆の肉身著衣が金色に描かれている。往生者前の経巻は、平安時代後期の貴族社会での浄土宗信仰の痕跡とされている。右上隅に七宝宮殿、右下に山中の屋敷があり、端座合掌する功徳を積んだ僧の姿が見える。これらの環境描写は、鎌倉時代後半の影響という。死を迎えた僧は、坐して経巻を前に合掌する。飛ぶように来迎した阿弥陀らにより、「早来迎(はやらいごう」の別称がある。京都国立博物館寄託。
 平安時代後期-奈良時代の書写「菩薩処胎経(五帖)(国宝)、平安時代後期「上宮聖徳法王帝説」(国宝)は75世・養がい徹定の蒐集による。鎌倉時代の作という「阿弥陀浄土図」(重文)。鎌倉時代の「観経曼荼羅図(当麻曼荼羅)」(重文)は、当麻寺本を写し丁寧に描かれている。南宋「阿弥陀浄土図」(重文)、南宋時代の於子明筆「蓮華図」(重文)、明時代の仇英筆「桃李園金谷園図」(重文)、「宋版一切経」(重文)など多数ある。
 南宋、1183年作の絹本著色「阿弥陀浄土図」(150.5×92cm)は、阿弥陀如来、右に観音菩薩、左に勢至菩薩を配している。手前の蓮池に、極楽浄土に往生した衆生が生まれる様が描かれている。京都国立博物館寄託。
 奈良時代の書跡・典籍「海竜王経」、奈良-平安時代の「瑜伽師地論」、室町時代の「紺紙金字後奈良天皇宸翰阿弥陀経」三略(上中下)、鎌倉時代の絵画絹本著色「阿弥陀経曼荼羅図」、南宋の絹本著色「阿弥陀浄土図」、南北朝時代の紙本著色「法然聖人絵」、元代の絹本著色「牡丹図」、鎌倉時代の伝・源信筆絹本著色「観経曼荼羅図」、鎌倉時代の絹本著色「紅玻璃阿弥陀像」、鎌倉時代の絹本著色「地蔵菩薩像」、明代の絹本著色「桃李園金谷園図」、鎌倉時代の絹本著色「毘沙門天像」、絹本著色「蓮花図」。
 奈良時代の古文書、紙本墨書「天平年間写経生日記」、六朝の書跡・典籍「十地論歓喜地」(巻3)、鎌倉時代の「順次往生講式」、奈良時代の「大通方広経」(巻下)、奈良時代の「大唐三蔵玄弉法師表啓」、奈良時代の「中阿含経」(巻29)、奈良時代の「註楞伽経」(巻5)、奈良時代の「超日明三昧経」(巻上)、平安時代の「菩薩地持論」、奈良時代の「法華経玄賛」(巻3)、奈良時代の「法華経玄賛」(巻2、7、10 )。
 宋代の刺繍「須弥山日月図九条袈裟」〈屏風仕立〉。
 三門二階内部の天井の龍図、虹梁、板壁、頭貫などの彩画は、狩野探幽(守信)ら狩野派による。
◆障壁画 大方丈、小方丈に江戸時代初期、1641年に制作された狩野派の障壁画がある。作事奉行・小堀遠州の命により狩野尚信が、兄・探幽に代わり一門の指導をし、自らの作品も残している。尚信は、名古屋城上洛殿の障壁画を描いた兄・探幽の作品を手本にして、知恩院の襖絵を描いたという。尚信筆の「山水人物図」「黄初平図」「雪景図」などがその例とみられている。
 信政も複数の障壁画を描いた。鷺の間には「柳鷺図」を残す。金地に柳の大木の枝が張り、雪が枝に積もる。木の上部は省略した構図で、白鷺が羽を休める。かつて大方丈菊の間に、信政筆の万寿菊と雀の障壁画があったという。あまりに巧く描かれたため、雀は命を得て飛び去ったという伝承がある。その後、絵は失われたという。信政筆、大方丈廊下杉戸に描かれた親子の猫絵は、「三方正面真向の猫」といわれている。
 ◈上段の間に狩野尚信筆(1607-1650)の金地淡彩「山水人物(李白)」5面、床貼付絵に「高士観瀑図」、違棚下貼付絵「唐子遊戯図」、違棚上小襖に著色「梅に椿、芙蓉、蜀葵、菊に笹」4面、帳台構貼絵「高士囲碁図」、付書院障子腰貼絵に「猿曳図」2面。
 中段の間に尚信筆の金地淡彩「仙人(鉄拐、張果郎)」5面、下段の間に信政筆(1607-1658)の金地中彩「仙人(劉女西王母)」4面、仏の間に尚信筆の金地濃彩「蓮(蓮華図)」1面、鶴の間に尚信筆の金地濃彩「松の鶴(松鶴図)」16面、松の間に尚信筆の金地濃彩「松に鶴(松鶴図)」14面、裏上段の間に尚信筆の金地濃彩「梅に垣(梅垣図、梅竹図)」10面、菊の間に信政筆の金地濃彩「菊に垣(菊垣図)」10面、鷺の間に信政筆の金地濃彩「柳に鷺(柳鷺図)」12面、柳の間に定信筆(興以、1434? -1530?)の金地濃彩「柳に燕、梅に里叭叭鳥(柳鵲燕図)」14面、梅の間に定信筆の金地濃彩「梅に雉子(梅雉子図)」4面、杉戸絵に著色「竹に雀・蘇鉄図」、著色「朝顔・棕櫚図」など。
 小方丈上段の間に尚信筆の紙本水墨「山水」18面、下段の間に久隅守景筆(定信とも)の紙本水墨「山水」16面、室中(雪中山水の間)に定信筆(尚信とも)「雪中山水及び雪松」13面、蘭亭の間に信政筆(不明とも)「蘭亭曲水図」18面、花鳥の間に信政筆の紙本濃彩「花鳥」17面、羅漢の間に信政筆の紙本淡彩「羅漢(十六羅漢図)」9面、納戸に「蓮池」など。
◆法然の墓 鎌倉時代、1212年に法然は大谷の禅堂・禅房(大谷の禅房、現在の勢至堂)で亡くなる。遺骸は当初、禅房東の崖上(現在の御廟)に葬られ、墓堂(現在の法然廟)が建てられた。
 1227年6月の嘉禄の法難では、比叡山衆徒が法然の墓を破却し、遺骸を鴨川に流すと知った高弟の信空、覚阿弥陀仏らは、6月22日に遺骸を嵯峨・清凉寺に一度移した。さらに、28日、太秦・広隆寺の来迎房円空のもとへ移された。これらの動きに際して、帰依した関東御家人、宇都宮頼綱、千葉入道法阿らが、郎党と共に遺骸の警護に当たった。
 翌1228年1月25日、西山粟生(あお、現在の光明寺)の幸阿弥陀仏のもとへ移され、ここで荼毘に付されたという。遺骨は弟子たちがそれぞれ分かち持ったという。
 1234年、法然の弟子・源智は、現在地、大谷の地に知恩教院大谷寺を建立し、法然の遺骨を廟堂に安置した。
◆紫雲水 境内上の段に「紫雲水(しうんすい)」という岩間の湧水がある。勢至堂東南隅崖下にある小池をいう。古来より名水として知られた。
 法然が庵を建てる場所を探していた際に、中空に紫野雲が現れたという。この瑞雲の源を訪ねてこの場に行き着いたという。また、『山州名跡志』に「勢至堂東傍にあり、法然上人入滅の時、紫雲此水に移る」とある。法然が亡くなる際に、極楽からの聖衆の迎えにより、水に紫雲が現れ、薫香が漂ったという。
 チャートの岩盤から湧水はいまもある。5月-6月にモリアオガエルが産卵するという。
◆影向石 「影向石 (ようごうせき)」は、山内勢至堂東北隅の崖下ある。法然が亡くなる際に、賀茂大明神が影向(降臨)した石という。チャートの岩盤になる。
 また、韋提希婦人(いだいけふじん)が降臨したともいう。韋提希婦人とは、古代インド、釈迦存命中のマガダ国・頻婆娑羅(ビンビサーラ)王の妃をいう。
◆梵鐘 鐘楼に吊られている「梵鐘」(重文)は、「吉水の鐘」とも呼ばれる。日本有数の大鐘とされている。江戸時代、1636年に三条釜座の釜師により鋳造された。「日本三大梵鐘」(ほかに東大寺、方広寺)のひとつに数えられる。六字名号「南無阿弥陀仏」は、霊巖筆になる。
 かつて法然の御忌法要に撞かれていた。近現代、昭和期(1926-1989)になり、大晦日除夜の鐘として撞かれている。ほかに成人祝賀式(1月)、御忌大会(4月)でも撞かれている。3人の僧による念仏礼拝とともに、撞木につけられた親綱1本、子綱16本を、17人の僧が引いて撞く。高さ5.4m、口径2.8m/2.7m、厚さ29㎝、重さ70t/75t(1万8000貫/2万貫)。
 108回の鐘を撞くことについて一説では、人の煩悩の数とされる。「眼」、「耳」、「鼻」、「舌」、「身」、「意」の六根にそれぞれ「好」、「悪」、「平」の3つの区別がある。さらに「浄」、「染」の2つ、それが「前世」、「今世」、「来世」の3つに分けられる。このめため、6×3×2×3=108の計算式になるという。
◆七不思議 「知恩院不思議」といわれる伝承がある。
 ①「鶯張り廊下」(御影堂裏)は、堂、本堂、大方丈を結ぶ廊下にある。敵の侵入を知らせるために、床の上を歩くと軋む仕組みが施されている。寺院に用いられることは、当時としては珍しい例という。構造的には音が出るように設計されたものではないとの見方もある。公開。
 ②「忘れ傘」は、御影堂東南、庇の梁の間に見える。現在は、骨だけが残る。名工・左甚五郎が垂木の下に魔除けのために置いたとも、白狐の化身・濡髪童子が置いたともいわれる。傘が雨(水)に関わることから、火災除けの意味があるとされる。江戸時代、1639年、住持・霊巌が弥陀の六字を記して火災除けとしたともいう。公開。
 ③「三方正面真向(まむき)の猫」は、狩野信政筆の大方丈杉戸絵になる。白黒の子猫が描かれている。いずれの方向からも、猫が正面を睨んでいるように見える。
 ④「抜け雀」は、大方丈菊の間にある。狩野信政筆、大方丈菊の間の襖絵「菊籬図襖」であり、万寿菊の上に描かれた雀が、あまりにも上手く描かれたため、雀はついに命を受けて飛び去ったという。絵はその後、失われた。
 ⑤「白木の棺」は、三門楼上にある二棺の白木の棺をいう。三門造営の際に、予算超過したとして自刃した三門棟梁・五味金右衛門豊直夫婦の自作木像が納められている。五味は、三門造営奉行という。1619年に任じられ、1622年に丹波奉行、1647年に丹波・近江奉行を歴任したともいう。城郭としての知恩院築造の秘匿のために、自刃に追い込まれたとの風説もある。
 ⑥「大杓子」は、大方丈入口の廊下の梁に置かれている。長さ2.5m、重さ30kgの大杓子をいう。阿弥陀仏の大慈悲で、すべての人が救いとられる、一切衆生救済を意味するという。また、伝承として、真田幸村の関ヶ原の戦いの際に、三好清海入道は大杓子を片手に持ち、何千もの兵に飯を給仕したという。特別公開時のみ公開。
 ⑦「瓜生石」は、黒門登り口の路上にある。知恩院が建立される以前よりあったという。一夜で石から蔓が延び、瓜(胡瓜とも)が実ったという。また、祗園の牛頭天王が瓜生山に現われ、後に再び現れた地ともいう。実った胡瓜に「牛頭天王」の文字が浮かび上がり、粟田神社に奉納した。以来、粟田祭の鉾は瓜を象り、祭礼では神輿を石上に置いた。だが、騒動が起きて中止されたという。(『花洛名勝図会』)。岩は地軸より生えているともいう。粟田神社の粟田祭では瓜鉾が巡行する。石の下には二条城までの抜け道があるという。この地に、隕石が落ちたなどともいう。節分には、自分の年齢より一つ多い石を供えるという慣わしもあった。珪灰石。公開。
 ほかにもある。「棟の大瓦」は、御影堂大屋根に瓦が載る。まだ、建物が建設中であるとして、徳川氏に援助を継続させるために置いたという。大建築が完成すると不吉なことが起こるとして、あえて完成しないようにしているともいう。/「見え隠れの経蔵」は、経蔵が見えたり見えなかったりする。経蔵前に草履を脱ぎ、3度堂を廻ると草履が消えたという。狐火が見えたともいう。/「無名塔」は、御影堂より阿弥陀堂へ通じる廻廊途中にある。忌明塔、東岸居士、上東門院、忍性上人、自然居士、一心院住持の墓ともいう。/「笙の音がする扉」は、御影堂の法然像安置の厨子の扉をいう。開閉時に笙のような音がする。/「賀茂明神影向石」は、勢至堂東にある。法然の臨終に際し、下鴨明神(加茂大明神)が石上に顕れた霊石という。チャート。/「知恩院から二条城に通じる地下道」。知恩院は洛中を見下ろす山腹にあり、土塁、石垣は城郭の造りともされる。三門より洛中を見渡すことができる。知恩院方丈と二条城方丈の共通点も指摘されている。これらについて、知恩院が西方の二条城と共に御所の監視のため、また徳川幕府の要塞としての役割を担っていたとされ、2点を結ぶ地下道存在の伝承が生まれた。/「鉄盤石」は、三門下右手にあり、小鍛冶宗近が刀を打った際の石という。かつて霊雲院の竹林にあり、江戸時代、1684年に移したという。/「寺務所の神棚」は、本山寺務所に神棚がある。/「不断桜」は、御影堂の裏に四季咲の桜があった。/「五本松」は、三門東にあり、根元は1本、5岐に分かれていた。/「一葉の松」は、御影堂、阿弥陀堂の間にあった。
◆小鍛冶の井 三門前の傍(南側)に、平安時代の名刀工・三条小鍛冶宗近ゆかりとされる「小鍛冶の井(こかじのい)」がある。(『都名所図会』)。祇園祭長刀鉾の長刀を作るのに使ったという。「刃(やいば)の水」とも呼ばれた。
 佛光寺本廟(東山区)境内にも、宗近が刀を鋳る際に使ったという井水があったという。現在は、「三条小鍛冶宗近之古跡」の碑が立つ。(『拾遺都名所図会』)
◆ハリー・パークス 近代、1868年2月30日、イギリス公使・ハリー・パークス(Harry Smith Parkes、1828- 1885)一行は、知恩院に宿泊した。
 知恩院より出発し、第122代・明治天皇の謁見を受けるために御所に向かう。新橋通、縄手通にまたがった地点で、暴漢に襲われる。パークスに怪我はなかったが、犯人の朱雀操(林田衛太郎)は、その場で斬殺される。三枝蓊(さえぐさ しげる)は処刑される。(「パークス襲撃事件」)
 随行していた公使館書記のアーネスト・サトウ( Ernest Mason Satow、1843-1929)は、著した『一外交官の見た明治維新』のなかで、知恩院のことを記している。
◆千日回峯行 比叡山延暦寺の千日回峯行者は、京都大廻りの際に当院に拝する。 
◆五輪石塔 「五輪石塔(無銘塔)」は、阿弥陀堂の北にある。知恩院七不思議の一つともいう。鎌倉時代後期作ともいう。鎌倉・極楽寺の律宗の僧・忍性(にんしょう、1217-1303)の墓、第66代・一条天皇中宮上東門院(藤原彰子、988-1074)の供養塔ともいう。大谷で火葬にされている。鎌倉時代の遊芸僧・自然居士(生没年不詳)の墓ともいう。
 室町時代、忌開塔(いみあけのとう)と呼ばれた。両親を亡くした場合に、忌明けの50日目に詣った。
 下より基礎(地輪)、塔身(水輪)、笠石(火輪)、受花(風輪)、宝珠(空輪)、鎌倉時代後期作。高さ2.7m、花崗岩製。
◆仏足石 大方丈玄関前に仏足石が立つ。大理石製。
◆常在光院 常在光院は、現在の知恩院の大方丈付近にあり、方丈庭園は常在光院の庭園遺構ともいわれている。
 常在光院は、常在光寺とも呼ばれ、花頂山と号した。鎌倉時代、1319年以前に建立されたとみられ、鎌倉・東国を勢力圏とする北条氏の京都での拠点寺になる。1330年頃、幕府執権・金沢(北条)貞顕により再興された。南北朝時代、建武年間(1334-1354)、足利尊氏が無窓国師を開山として創建したともいう。尊氏の居館の最も好んだ一つになる。南北朝時代後半、南禅寺を退隠した僧が住持をしたという。室町時代には、尊氏、義満、義政らの庇護の下で栄えた。応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失する。江戸時代、1603年、知恩院拡張により鹿苑院に合併された。
 林泉の美しさで知られ、花見に五山の高僧が招かれ詩歌を愉しんだ。『徒然草』238段にも鐘銘について記された。
◆施薬院 近代、1897年、元福井藩の医者・安藤精軒(1835-1918)は、知恩院山内の法徳院に私立病院「施薬院病院」を開設した。慈善事業として診察を行う。その後、財政難により、1903年に京都府・京都市・京都医会は施薬院協会を設立し、山内の入信院に移し救治療養を行った。
 1915年、病院跡(中京区、現在の京都市生涯学習総合センター)に移転し、1925年に財団法人になる。聚楽病院、1941年に厚生病院と改名、1944年に戦時の医療施設の強制買い上げにより閉院した。その後、京都市立中央病院を経て、1981年に社会教育総合センター、後に京都市生涯学習総合センター(京都アスニー)になった。
◆墓 千姫墓碑(1597-1666)がある。千姫は豊臣秀頼・本多忠刻の正室、父は徳川秀忠。
 千姫墓碑の東隣に、第112代・霊元天皇第13皇女・浄林院吉子内親王(1714-1758)の墓がある。内親王は1714年、生後わずか1カ月で将軍・徳川家継(6歳)と婚約する。だが、家継の死去により、史上初の降嫁は実現しなかった。その後、出家し、法号を浄琳院宮と称した。
 久須見疎安(1636-1728)は江戸時代中期の茶人で、茶を宗旦、藤村庸軒に学び、宗旦四天王の一人。
 小説家・佐藤春夫夫妻(1892-1964)。小説家・武田泰淳(1912-1976)夫妻墓、日本人初のノーベル賞受賞者、物理学者・湯川秀樹(1907-1981)夫妻墓などがある。
◆蓮月 江戸時代-近代の歌人・太田垣蓮月(1791-1875)は、出家後、一時、知恩院内の真葛庵で暮らした。 
◆映画 時代劇映画「狸小路の花嫁」(監督・小石栄一、1956年、東映)、時代劇映画「家光と彦左と一心太助」(監督・沢島忠、1961年、東映)の撮影が行われた。
 アメリカ映画『ラストサムライ』(監督・エドワード・ズウィック、主演・トム・クルーズ、2003年)では、知恩院三門、男坂が登場する。4人の男の後姿が映し出される。
◆師弟愛の像 「師弟愛の像」が立つ。近代、1876年、室戸台風により倒壊した校舎の下で、児童を庇い亡くなった松浦先生と7人の児童の慰霊の像であり、1960年に建立された。
 吉井勇(1886-1960)の碑文「鳴呼、暴にして無情の室戸台風、/くずれ落ちる校舎の下に七人の教え子をかばいながら/荒れ狂う天空に必死の加護を祈る女教師の崇高な姿、/腕に胸に膝にすがって師の無限の愛情に恐怖をこらえる/幼い児童達の傷々しい姿/死線を越えた師弟純愛のこの群像は、見る人をして胸を打たれ、/聞く人をして襟を正さしめ、ひたすらに冥福を祈り、/合掌黙祷を禁じ得ないのであります。/かく大き愛のすがたをいまだ見ず/この群像に涙しながる」
◆樹木 方丈庭園、境内に楓がある。
 ムクロジ(京都市指定天然記念物)は、旧築地上にある。江戸時代初期の植栽とみられる。大枝が北側と、南側は斜上している。植生の北限に近いなかでは巨木になる。樹高20.0m、胸高幹周4.13m。
 イブキ、エノキ、ソテツ、三門近くにハナノキ、ムクノキなどがある。
◆宿坊・精進料理 宿坊の「和順(わじゅん)会館」には、宿泊できる。「花水庵(かすいあん)」で精進料理が頂ける。 075-533-6660
◆年間行事 修正会(1月1日)、成人祝賀式(1月中旬)、法然上人御祥当法要・聖に智別時会(1月25日)、追儺式(2月3日)、涅槃会(2月13日-15日)、春季彼岸会(春分の日を中日とした7日間)、京都東山花灯路(中-下旬)、花まつり(灌仏会)(4月8日)、御忌大会開白法要(4月18日)、献華式(4月18日)、御影堂吉水講詠唱奉納大会(4月20日-21日)、納経法要(4月22日)、音楽法要(4月23日)、楷定念仏奉納(4月24日)、御廟参拝(4月25日)、放生会(4月25日)、春季京都非公開文化財特別拝観(4月29日-5月8日)、善導忌(6月12日-13日)、盂蘭盆会・交通事故遭難者追悼法要(7月15日)、勢至堂墓地施餓鬼会(8月5日)、盆会(8月13日-15日)、秋季彼岸会(9月秋分の日を中日とした7日間)、吉水講詠唱奉納大会(10月4日-5日)、八幡社放生会(10月15日)、萬部会(10月23日-25日)、璽書(じしょ)道場(11月18日-25日)、佛名会(12月2日-4日)、伝宗伝戒道場(12月4日-25日)、御身拭式(12月25日)では、法然像を座主が拭い清める。除夜の鐘試し撞き(12月27日)、除夜の鐘(12月31日)。
 写経会(毎月13日、23日)。


*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*一部の建物は非公開、一部の建物内は撮影禁止。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『古寺巡礼 京都 16 知恩院』『旧版 古寺巡礼京都 19 知恩院』『拝観の手引』『京都古社寺辞典』『日本の仏教を築いた名僧たち』『日本の古寺大巡礼』『歴史のなかの宗教 日本の寺院』『京都・山城寺院神社大事典』『庭を読み解く』『仏像めぐりの旅 4 京都 洛中・東山』『障壁画全集 知恩院』『障壁画の見方』『京都・美のこころ』『京都美術の 新・古・今』『京都の寺社505を歩く 上』『寺社建築の鑑賞基礎知識』『大学的京都ガイド こだわりの歩き方』『新選組と幕末の京都』『日本の名僧』『知恩院の風光』『京都ぎらい』『シネマの京都をたどる』『京都シネマップ 映画ロマン紀行』『京都まちかど遺産めぐり』『京都はじまり物語』『京都で日本美術をみる』『京の寺 不思議見聞録』『京都の自然ふしぎ見聞録』『極楽の本』『京都 神社と寺院の森』『こころ美しく京のお寺で修行体験』『京都の隠れた御朱印ブック』『週刊 日本の美をめぐる 45 平等院と極楽往生』『週刊 古寺を巡る 16 知恩院』『週刊 仏教新発見 18 知恩院』『週刊 京都を歩く 23 知恩院周辺』


   関連・周辺
良正院〔知恩院〕       関連・周辺源光院〔知恩院〕       関連・周辺濡髪神社       関連・周辺安養寺      関連・周辺一心院     関連金戒光明寺      関連光明寺      関連法然院      関連延暦寺・東塔      関連延暦寺・西塔      関連延暦寺・黒谷青龍寺         関連白毫寺(太子堂白毫寺)       周辺青蓮院      周辺崇泰院〔知恩院〕      周辺円山公園         

宝佛殿

宝佛殿

宝佛殿、阿弥陀如来立像

宝佛殿、四天王像を安置


納骨堂

九重の塔

経蔵(重文)

経蔵、文殊菩薩像、極彩色の絵が描かれている。

経蔵

経蔵

経蔵

経蔵

経蔵

写経塔

圓光大師本廟路の巨大な石標

圓光大師(法然)上人像
御廟所付近(上の段)

勢至堂にいたる石段(智恵之道)は80段ある。

御廟

御廟

「圓光大師諸国二十五霊場」の碑

御廟

御廟

御廟

御廟所、勢至堂、本地堂(重文)

勢至堂・本地堂

鐘楼

紫雲水

紫雲水

「影向石 (ようごうせき)」、山内勢至堂東北隅の崖下ある。

蓮華堂

蓮華堂

蓮華堂

蓮華堂

蓮華堂

御廟(ごびょう)堂

御廟堂

御廟堂

御廟堂

御廟堂、拝殿、ここで礼讃念仏を唱える。


御廟堂拝殿、仏具装飾品の華鬘(けまん)

御廟堂、盛砂

御廟堂、盛砂、形状は変化している。

御廟堂(背後の建物)

御廟堂の唐門

御廟堂


御廟堂、法然の遺骨を納める。

御廟堂、露盤・宝珠

「左 知恩院宮御墓 左 知恩院寺中御墓 青蓮院宮御墓」の石標
その他

権現堂

権現堂の葵の紋の軒丸瓦。

大方丈(重文)、江戸時代、1641年、3代将軍・徳川家光の建立による。桁行34.5m、梁間25m、単層檜皮葺入母屋造、正面に軒唐破風。玄関、歩廊付、前面広縁、背面縁側、四面に落縁。8室(上段、中段、下段、仏間、鶴の間、松の間、菊の間、鷺の間、柳の間、梅の間)があり、仏間の一文字仏壇に快慶作という阿弥陀如来像(重文)を安置する。背面は裏上段に納戸となり、部屋の東に上中下段の間があり、上段には床、棚、付書院がある。将軍の公務に使用された。普段は非公開。

小方丈(重文)

方丈庭園

方丈庭園、「二十五菩薩の庭」

唐門

唐門

山亭

鎮守八幡社(鎮守社)



鎮守八幡社

大鐘楼と中の段の間の石段




大鐘楼(重文)

大鐘楼

友禅苑

友禅苑、白寿庵
七不思議


①「鶯張り廊下」。床板には下から金属製の目かすがいの先端が打ち込まれ、かすがいと根太とは和釘2本で留められている。

②「忘れ傘」(御影堂の南東庇の梁の間)

③「三方正面真向(まむき)の猫」

④「抜け雀」(大方丈菊の間)


⑤「白木の棺」(三門)。解説パネルより

⑥「大杓子」(大方丈入口の梁)

⑦瓜生石(黒門の西、路上中央)。珪灰石。

五輪塔、阿弥陀堂の北にあり、知恩院七不思議の一つともいう。
墓・碑

千姫の墓、安土桃山時代から江戸時代の千姫(1597-1666)は、豊臣秀頼・本多忠刻の正室。父は徳川秀忠、母は継室の江。号は天樹院。

歴代の墓

現代の作家・佐藤春夫(1892-1964)夫妻墓

現代の作家・武田泰淳(1912-1976)夫妻墓

理論物理学者・湯川秀樹(1907-1981)夫妻墓

「師弟愛の像」

友禅苑、江戸時代の宮崎友禅斎の像、友禅斎(1654?-1736?)は扇絵師、扇絵や小袖の雛形を描き、着物の友禅模様という名称のもとになる。
景観

東山の景観

山亭からの景観

御廟堂からの眺望
 知恩院  〒605-8686 京都市東山区林下町400  075-531-2111  9:00-16:00

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