塚本社跡 (京都市東山区)
ruins of Tukamoto-sha shrine
塚本社跡 塚本社跡 
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塚本社跡





 法性寺の南、伏見街道(本町通)東側に「塚本社跡」と呼ばれる空き地がある。かつて付近は、伏見街道十六町と呼ばれた。
 塚本社の社名は淡路廃帝と呼ばれた第47代・淳仁天皇の陵前、塚の本に建てられていたことに由来するという。塚本社は「廃帝の御陵」と呼ばれ、現在は、陵墓参考地とされている。
 塚本社跡の敷地の北東隅に円丘のようなものが残され、2本の樹木が植えられている。かつてここに御霊社として塚本社(塚本の宮)があり、小祠2宇が南面して建てられていたという。1つは、淳仁天皇、舎人親王、早良親王を祀り、もう一つは、神功皇后、井上皇后、他戸親王を祀ったという。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 平安時代、この地は、第50代・桓武天皇の同母弟・早良親王(750-785)の旧宅跡とされ、御霊社として塚本社が祀られていたという。
 800年、桓武天皇は早良親王に祟道天皇と追号している。親王は、塚本の地(塚本社、塚本の宮)に祀られたともいう。
 826年、第53代・淳和天皇の詔勅により、伊予親王、井上内親王は、塚本の宮に合祀される。
 1055年、法性寺の類焼により焼失した。
 1077年、第72代・白河天皇の勅により再建された。
 1192年、第82代・後鳥羽天皇による奉幣の儀が執り行われている。
 鎌倉時代、1239年、九条道家による 東福寺建立に伴い、深草・極楽寺の南、深草古天王(小天皇塚、聖母小学校北向)へ遷された。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477) により焼失した。
 1470年、親王が藤森社を崇敬したとして藤森社西殿に合祀されたという。
 近代、1877年、宮内省により当地の円丘上にあった塚本社より、仲恭天皇の神霊が若宮八幡宮に遷されたという。神功皇后は廃社となった。
◆淳仁天皇 奈良時代の第47代・淳仁天皇(じゅんにん てんのう、733-765)。第40代・天武天皇の孫、舎人親王と当麻山背の子。757年、道祖王に代わり、公卿・藤原仲麻呂の推挙により皇太子となる。758年、第46代・孝謙天皇の譲位を受けて即位した。第45代・ 聖武天皇皇后・光明皇太后没後、道鏡の処遇をめぐり淳仁・仲麻呂と孝謙上皇とが対立、764年、仲麻呂は乱を起こして敗死、淳仁天皇も廃帝になり淡路に流され幽閉された。765年、逃走が失敗し捕らえられ亡くなった。
 近代、1870年、淳仁の諡号が贈られる。
◆早良親王 奈良時代-平安時代の皇族・早良親王(さわら しんのう、750-785)。第49代・光仁天皇(白壁王)の第2皇子。母は高野新笠。第50代・桓武天皇の弟。768年、出家し東大寺に住した。770年、父の即位により親王となる。781年、桓武天皇の即位に伴い皇太弟となる。785年、造長岡宮使長官・藤原種継暗殺事件に連座し、その首謀者、また天皇擁立計画があったとされる。皇太子を廃され、乙訓寺に幽閉された。淡路に流される途中、無実を訴え、河内国高瀬橋付近で絶食死したという。遺骸は淡路島に運ばれた。
 事件は桓武天皇側の謀略とみられている。陰陽師は、桓武天皇の第1皇子・安殿親王の病弱の原因は、早良親王の怨霊によるとした。800年、桓武天皇は、早良親王に崇道天皇の号を追贈する。墓も改葬させ、淡路に寺を建立し、さらに大和の八嶋陵に改葬した。806年、桓武天皇が亡くなったその日、事件に関係したすべての人の罪が解かれた。 


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『新版 京・伏見 歴史の旅』『京都の埋蔵文化財調査情報 239号』


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map 塚本社跡 〒605-0981 京都市東山区本町16丁目305-1 
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