八条院跡・八条第跡・八条院町 (京都市下京区)
The ruins of the residence of Hachijoin
八条院跡・八条第跡・八条院町 八条院跡・八条第跡・八条院町 
50音索引  Home 50音索引  Home
「京都駅 昔むかし 八条院および八条第跡」の説明板





八条口案内所
 京都駅八条口総合案内所内、西側の壁に「京都駅 昔むかし 八条院および八条第跡」(古代学協会・古代学研究所)の説明板が掲げられている。 
 八条院(はちじょういん)とは、平安時代の皇女・八条院暲子(しょうし)内親王の院号であり、その御所も意味した。八条第とは、御所の西に隣接していた権大納言・平頼盛の邸宅だった。
 御所の八条院は、鎌倉時代後期-室町時代に現在の京都駅東一帯(北は梅小路、南は八条大路、東は東洞院、西は烏丸小路、121m四方)にあった。付近は八条院町(八条女院町、院町)と呼ばれた。現在の下京区東塩小路町、東塩小路釜殿町、東塩小路高倉町になる。
◆歴史年表 平安時代後期、この地は、藤原顕季(ふじわら の あきすえ、1055-1123)、その子・長実(ながざね、1075-1133)に継がれる。
 長実の娘・鳥羽天皇中宮・美福門院得子(びふく もんいん とくし、1117-1160)は、御所(美福門院御所)を営む。御所は八条通の烏丸-室町間(現在の東塩小路釜殿町、京都駅構内)にあった。 
 1137年、暲子内親王は美福門院御所に生まれる。
 1140年、暲子は、父・鳥羽天皇より所領を譲られる。東は高倉東、西は堀川東、北は八条坊門、南は八条南の範囲(現在の京都駅構内)であり、八条院町と呼ばれた。暲子は、女院御所に暮らした。女院庁、女院御倉などが建てられていた。(「八条女院院町在所安注文」)
 1160年、得子が亡くなり、暲子は得子の遺領である八条院を加える。遺領は230か所以上となる。八条院の西隣には、左大臣・藤原良輔(1185-1218)の室町第(西は室町小路)、西に隣接し権大納言・平頼盛(1131-1186)の八条第(西は町尻小路、現在の新町通)があった。
 第78代・二条天皇(在位1158-1165)の時、美福門院御所は里内裏になる。八条院と呼ばれていた。(「百錬抄」)
 1181年、白河法皇(第72代)が鳥羽殿での幽閉を解かれ、美福門院御所に移る。北面の武士が御所を警護した。(「平家物語」)
 鎌倉時代、1194年、美福門院御所は炎上した。すぐに再建される。(「玉葉」)。御所跡のその後については不明。 
 鎌倉時代、八条殿には後白河天皇第3皇女・式子内親王(1149-1201)が暮らした。公家・歌人・藤原定家(1162-1241)、その姉になる女房・歌人・健御前(けんごぜん、建春門院中納言、1157-?)も訪れた。後鳥羽上皇(第82代、1180-1239)が行幸している。
 1211年、暲子が没し、八条院領は皇族御領として継がれた。御所、周辺も荒廃する。東洞院大路に面した築垣は撤去され、民家、畑も広がった。
 1313年、後宇多法皇(第91代)は、八条院領の八条院御所跡中心、院町13か所を東寺に寄進した。以後、東寺領八条院町になる。以来、公家久我(こが)家領などによる領地の相論が続いた。八条院町では、学衆(がくしゅ)が管轄し、年貢徴収の実務は、所務(しょむ)、給主(きゅうしゅ)、さらに末端の散所(さんじょ)が担った。 
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により、焼失し、田畑になる。
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、葛野郡東塩小路村になり、畑地が広がる。
 近代、1876年、大宮通仮停車場(現在の京都貨物駅付近)-向日町駅間の官設鉄道が仮開業した。
 現代、1994年、京都駅ビル改築時の発掘調査により、鎌倉時代の刀装具鋳型、室町時代の鋳造関係遺構が発見された。
◆美福門院 平安時代の第74代・鳥羽天皇の皇后・美福門院(びふく もんいん、1117-1160)。得子(とくし)。父は藤原長実(ながざね)、母は源俊房(としふさ)の娘・方子。鳥羽天皇は皇后・待賢門院(たいけんもんいん)と不和で、高陽(かや)院を皇后とした。美貌の得子も寵愛し入内させる。1139年、女御となり、皇子・体仁(なりひと)親王(第76代・近衛天皇)が生まれた。得子は、生後3カ月の親王を第75代・崇徳天皇の皇太子とし、鳥羽法皇を説き崇徳天皇退位を強いた。1141年、3歳で近衛天皇は即位する。准三宮宣下、皇后として権勢も高まる。1149年、美福門院の院号宣下。1155年、近衛天皇没後、崇徳上皇の皇子・重仁親王を退け、第77代・後白河天皇を擁立し、1156年、保元の乱の要因になる。同年、鳥羽法皇の没後、落飾し真性定と称した。白河の金剛勝院(押小路殿)に住した。墓は高野山陵(和歌山県伊都郡)。 
 美福門院御所は、八条通の烏丸-室町間(現在の東塩小路釜殿町、京都駅構内)にあった。 
◆八条院 平安時代-鎌倉時代の女院・八条院(はちじょういん、1137‐1211)。暲子(しょうし)内親王。第74代・鳥羽天皇の第3皇女。母は藤原長実の娘・美福門院得子(びふくもんいん とくし)。美福門院御所に生まれた。山荘、常盤殿を営む。1138年、内親王、1146年、准三宮。1155年、中継ぎの同母弟の第76代・近衛天皇の死後、鳥羽天皇は暲子を女帝に立てようとしたが実現しなかった。1157年、出家し法名は金剛観と称した。1161年、第78代・二条天皇の准母として院号宣下、八条院と称した。后位を経ずに院号を得た初例になる。八条東洞院を居所とし、両親の遺領の院領(200数十か所以上)を譲られた。後に大覚寺統の財源になった。政治に影響力をもち、九条良輔、平頼盛ら近臣が集住した。1180年、以仁王が宇治で戦死し、子らを引き取り養育した。後白河天皇皇女・式子内親王も猶子として八条院御所で生活した。第82代・後鳥羽天皇皇女・昇子(しょうし)を猶子とし、所領は同天皇に伝えられた。晩年は両親の菩提を弔う。墓は京都市鳴滝中道町にある。
 御所の八条院は、鎌倉時代後期-室町時代に現在の京都駅東一帯(北は梅小路、南は八条大路、東は東洞院、西は烏丸小路、121m四方)にあった。
◆平頼盛 平安時代-鎌倉時代の武将・平頼盛(たいらのよりもり、1186-1132)。六波羅屋形の池殿に因み池大納言と呼ばれた。平忠盛の5男。母は藤原宗兼の娘・宗子(池禅尼、いけのぜんに)。清盛の異母弟。1156年、常陸守の時、保元の乱では、清盛と共に、後白河天皇方についた。安芸守、三河守に補される。1159年、平治の乱に参戦する。後白河法皇、八条院らとも親しく、八条院の乳母の娘・宰相局(僧・俊寛の姉妹)を妻とした。右馬頭、内蔵頭、大宰大弐、1166年、従三位、正二位権大納言に上る。清盛と対立し、1179年、政変で、権中納言・右衛門督の地位を解官された。1180年、官職に還任する。1183年、平家都落ちに従わず、後白河法皇の庇護を求め、八条院に身を寄せた。1184年、解官され、鎌倉に下向。平治の乱で、母・池禅尼が頼朝の助命をしたため、頼朝は頼盛を厚遇し、1185年、所領返還、還任された。帰京し、辞して出家、重蓮と号した。
 八条院の西に隣接して八条第があり、頼盛の邸宅だった。
◆式子内親王
 鎌倉時代の皇女・式子内親王(しょくし/しきし ないしんのう、1151?-1201)。第77代・後白河天皇の第3皇女。母は藤原季成の娘成子(高倉三位)。同母の兄に守覚法親王、以仁王、姉に殷富門院。1159年、賀茂斎院の卜定を受け11年間仕えた。1169年、病気を理由に退下、三条高倉殿に移る。藤原定家が何度か訪れたという。定家との恋も囁かれた。1185年、准三宮宣下を受ける。1192年、法皇没後、戒師・法然により出家した。藤原俊成に和歌を学び、俊成の『古来風体抄』(1197)は内親王の求めに応じて執筆された。家集に『式子内親王集』。『千載和歌集』に入首。
 八条院に暮らした。
◆八条院三位局 鎌倉時代初期の女官・八条院三位局(はちじょういん さんみのつほね、?-1218)。高階盛章の娘。八条院に女房筆頭として仕え「無双の寵臣」と称された。八条院の猶子・以仁王との間に王子道性、三条姫宮などをもうけた。九条兼実との間に良輔をもうける。
◆健御前 平安時代-鎌倉時代の女官・健御前(けんごぜん、1157-?)。建春門院中納言、八条院中納言、健寿御前(けんじゅごぜん)。父は藤原俊成、母は藤原親忠の娘。定家の同腹姉。1168年、12歳で法住寺殿の建春門院に出仕、1176年、女院死去まで仕えた。前斎宮亮子の御所に出仕し、以仁王の姫宮を養育した。1180年、以仁王の挙兵により生家に戻される。1183年、美福門院、八条院に出仕、1195年、八条院の猶子で後鳥羽天皇皇女・昇子(春華門院)の養育係になる。1206年、出家。晩年に『たまきはる』(『建春門院中納言日記』)を著し、建春門院、八条院、春華門院の3女性を描く。小督とも親交を結んだ。
 八条院には、定家も、健御前も訪れていた。 
◆邸宅の八条院 邸宅の八条院は、鎌倉時代後期-室町時代に現在の京都駅東一帯にあった。左京八条三坊十三町であり、北は梅小路、南は八条大路、東は東洞院、西は烏丸小路の121m四方の敷地になる。
 かつて八条院は、藤原顕季が洛中の数か所に所有した邸宅の一つだった。白河法皇(第72代)も本邸を御所にする。八条院は八条女院(暲子内親王)に継がれた。後白河法皇(第77代)も妹・女院の邸宅・八条院をしばしば訪れた。藤原定家は女院の家令であり、八条院を訪れていた。
 女院は、斎院を退いた姪・式子内親王を八条院に迎える。女院には女房として八条院三位局、健御前、六条(源師仲の娘)らが仕えた。
◆八条第・西八条弟 三位局の邸宅は八条大路の北、烏丸小路の西、室町小路の東にあった。平頼盛の邸宅だった八条第は、八条院の西にあり、八条院にも勤仕していた。
 なお、現在の京都駅北側には、平安時代中期、商工業地の七条町(七条大路、町尻小路の交差点付近)が形成された。鎌倉時代、金融の土倉、貸上(かしあげ)が中心になり大いに栄えた。南北朝時代に衰退し、葬地になる。室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)後に洛外になった。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 説明板、『京都市の地名』、サイト「都市史11八条院町 京都市」『平安京散策』『平安の都』『意外と知らない京都』『京都大事典』『京都事典』


  関連・周辺西八条第跡・梅小路公園・梅小路蒸気機関車館      周辺七条仏所跡      周辺JR京都駅0番のりば・御土居遺構     周辺      関連         
平安京オーバレイマップ
map 八条口総合案内所 〒 京都市下京区東塩小路町,烏丸通塩小路下る  075-691-1000  10:00-16:00
50音索引 Home top 50音索引 Home top
   © 2006- Kyotofukoh,京都風光