宇治川太閤堤跡 (京都府宇治市)
The ruins of Ujigawa-taikotsutsumi
宇治川太閤堤跡  宇治川太閤堤跡 
50音索引    Home 50音索引    Home





石張りの遺構


宇治川


水色の彩色部分が巨椋池、上端に伏見城、左上の赤い太線は豊後橋(観月橋)、池中の青い実線が填島堤、左の赤い実線が小倉堤、右下角の赤い実線部は宇治川太閤堤。


赤い実線が太閤堤、宇治川の右岸、宇治橋の下流になる。


河段段丘、奥に石出し、説明板より



石積み護岸、奥に石出し、説明板より



杭止め護岸、奥右手に石出し、説明板より



石積み護岸の石張り、説明板より
 宇治川に架かる宇治橋の下流400mほど、東岸(右岸)に「宇治川太閤堤跡(うじがわ たいこうつつみ あと)」がある。菟道稚郎子(うじのわき いらつこ)宇治墓の南に隣接する。 
 安土・桃山時代、豊臣秀吉によって築造された堤跡であり、一帯は史跡名勝天然記念物に指定されている。太閤堤跡は、この宇治市莵道丸山のほかに、宇治乙方、槇島町大島などにも残されている。
 今後、宇治市により太閤堤跡に公園整備の計画がある。
◆歴史年表 安土・桃山時代、1592年、豊臣秀吉は、伏見指月に隠居所の普請を始める。
 1593年、秀吉は、伏見に移る。
 1594年、秀吉は、隠居所の拡張を行い、伏見城には「淀堤(薗場堤)」の一部が造成される。前田利家は「槇島堤」を築堤した。伏見・小倉間には、池中に渡された「小倉堤」を築堤する。(太閤堤の築堤、宇治川の流路付け替え)
 1596年、淀川に「新堤」を築造する。
 江戸時代、1863年、『宇治川両岸一覧』に「太閤堤」とあり、文献初出になる。
 近代、1910年、淀川改修工事で、巨椋池を淀川から切り離す工事が行われた。次第に池の水質悪化を招く。
 1934年、巨椋池の干拓工事が始まる。
 1941年、巨椋池の干拓工事が完了した。634haの農地が生まれた。
 現代、1979年、堤防工事の際に「槇島堤」の遺構が確認される。
 2007年、宇治川に下流400m地点で、宇治川太閤堤跡が発見された。
 2008年、宇治川太閤堤跡の発掘調査が始まる。石積み、杭止め護岸が発見された。
 2009年、宇治川太閤堤跡に庭園遺構が発見される。宇治川太閤堤は国の史跡に指定された。
◆宇治川太閤堤跡 宇治川太閤堤跡は、豊臣秀吉によって、宇治川の東岸(右岸)に築造された。その後、18世紀末頃、宇治川の氾濫により全体が埋没する。近代以降の堤防築造により、太閤堤遺構は現在の宇治川東岸に取り残される形で保存されていた。なお、太閤堤跡遺構は、この地(宇治市莵道丸山)のほかに、宇治乙方、槇島町大島にも残る。
 かつて、宇治川の流路は、宇治橋下流で三分流していた。北西に流れ、遊水池になっていた広大な巨椋入江(おくらいりえ、入江)に緩やかに合流していた。
 伏見城築城後、1594年に秀吉は、大規模な治水工事を行う。城下に、大坂、南都、西国からの交通路、水運を集中させる目的があった。このため、宇治川・淀川などの付け替え工事を行っている。秀吉は、巨椋池を四分割している。秀吉は、宇治川を巨椋池から切り離すために、宇治川の流れを遮り、北の流路にまとめ迂回させて流した。北西方向に延びる長大な「槇島堤」(宇治堤、宇治-伏見)を前田利家に命じて築提し、向島まで延長する。宇治川は桃山丘陵の南まで導かれることになる。発見された宇治川太閤堤跡は、この槇島堤の始点、宇治橋付近の右岸部分になる。
 さらに、槇島堤東の池中には、北西方向に「小倉堤」(小倉-伏見豊後橋)を築堤し、二つの堤は結ばれた。堤の結合点の宇治川河口には、同年、豊後橋(現在の観月橋)が架橋された。堤上は、奈良より宇治を経ずに伏見・京町通、京都へ向かう新たな新大和街道になる。これによって、交通路は南北の一線に集約された。伏見湊は、淀川、瀬戸内海、玄界灘につながる水路の拠点になる。他方、旧来の旧大和街道に架かっていた宇治橋は破却され、同年、淀城も廃止される。淀堤の築堤により、旧来の岡屋津、淀津も役割を終えた。
 以後、宇治川の流れは、北へ大きく左回りに迂回するようになる。これらの築堤により、輪中堤(わじゅうつつみ)として堤内は輪中化し、堤の西には新たな浅い巨椋池(平均水深0.9m)が生まれた。
 流路は、宇治川をさらに迂回させて伏見城下にも導かれる。三栖(みす)から淀・納所までは「淀堤」を築いて桂川・淀川と結び、水運に利用された。
◆堤の遺構・構造 発見された宇治川太閤堤の遺構は、南北方向にある。宇治川の右岸に直線的に250m以上ある。実際には宇治橋までの400mほどになると推定されている。堤付近の地形を利用し、各所で工法を変え築造されている。
 堤北側の「石積み護岸」(85m)は、下段には石を積み上げている。最下部に2-4本の「止め杭列」を打ち込み、内側に割石を詰める。幅2.5mで割石(拳大-人頭大)が充填された。最下部には、最大50㎝程の割石がある。上半分(石積み直上の法面-馬踏)には石張りしている。堤防上の平坦面の「馬踏(ばふみ、天端)」の幅は2m、護岸の底辺「敷(しき)」幅は4.7-6m、高さは2.2mになる。法面の「石張り」の平均傾斜は30度になり、川側に向けて緩やかに傾斜している。
 「石張り」は、板状の割石を全面に張りつけている。石の裏込めはなく、簡単な整地の上に石を最大10㎝程の間隔で敷き詰めている。割石間の目地埋めもない。
 「杭止め護岸」(35m)は、石積み護岸の南25m地点にある。付近は谷状の地形を埋め立てており、土質・地下水対応のため用いられたとみられる。杭・板材などの木材を用い、護岸を垂直に築く。「杭(かせ木、直径8㎝)」を15㎝間隔で打ち込み、3本の杭列の内側には割石(拳大-40㎝)を充填する。杭の前面には、「支え柱」(直径16㎝)が打ち込まれている。これらの支え柱、「横板(杭との間の上端に挟み込まれた頭押え)」により、護岸の前倒れを防ぐ目的がある。護岸の幅2m、全長20m-35mとみられる。護岸中央には「石出し」があり、上流側では護岸の高さ2.4mある。
 堤南側の護岸は、自然地形の河岸段丘を利用し、水制を設けているとみられる。
 堤の中ほどには、川方へ緩やかに張り出している「水制」が設けられている。これは、水の勢いを緩和し、流れの向きを変えて水流を調節する機能になる。古くは「川除」と呼ばれた。屈曲点の前後には、「石出し」と「杭出し」の2種の水制が用いられ、全体で5か所見られる。
 「石出し」水制は、90m間隔で3か所確認されている。その後、さらに1か所見つかった。粘板岩を積み上げている。平面は台形状であり、石積みの土台に石垣を組み、川側の前面は緩やかな曲線を描く。側面は石垣積、石垣内部は築城技術の割石を充填している。かつて、上面には石が張られていた。石積みは、城郭の石垣様になっている。石垣部の規模は、幅9m、突出長8.5m、高さ1mになる。
 「杭出し」水制は、緩い流れの部分に用いられ、2か所で確認された。護岸から下流側に向けて木杭(直径15㎝)を縦横間隔に複数列以上打ち込んでいる。杭列は長く出している。水を通す透過水制であり、構造は簡単になる。川の流れを緩めて、土砂の堆積効果もある。幅2m、全長20m以上と推測される。
 「庭園遺構」も見つかっている。築堤後、江戸時代中期、正徳年間(1711-1715)-元禄年間(1688-1704)に、護岸の埋没により盛土を施し、護岸の上層に造営されたとみられている。石積み護岸と杭止め護岸の間にあり、西からの流れを受け止める上下2段の池、洲浜状遺構による。
 堤全体に使用されている石材は、一部に宇治川の川原石、大半は頁岩・粘板岩になる。これらは、板状に割れやすく、加工しやすい。宇治川の上流、天ヶ瀬付近に見られる天ヶ瀬層より運ばれたとみられている。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 宇治市歴史資料館『宇治市宇治川太閤堤跡』『新版 京・伏見 歴史の旅』『京都府の歴史散歩 下』『京都学ことはじめ』『景観から歴史を読む』『伏見学ことはじめ』


  関連・周辺槇島城跡       周辺菟道稚郎子(うじのわき いらつこ)宇治墓・浮舟宮跡・浮舟の森       周辺宇治川・宇治橋(宇治市)       関連伏見城・伏見桃山城         

上空写真、手前が太閤堤遺構、右手に宇治川、奥に宇治橋、説明板より
map  宇治川太閤堤跡 〒611-0013 京都府宇治市莵道丸山77 
50音索引  Home  top 50音索引  Home  top
   © 2006- Kyotofukoh,京都風光