菟道稚郎子宇治墓・浮舟宮跡・浮舟の森 (宇治市)
Ujinowaki-Iratsuko uji-no-haka(mausoleum)
菟道稚郎子宇治墓 菟道稚郎子宇治墓 
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「菟道稚郎子皇子御墓」とある。


「応神天皇皇子 菟道稚郎子尊 宇治墓」と刻まれている。



菟道稚郎子宇治墓


「浮舟宮跡」の石碑


【参照】近くを流れる宇治川
 宇治橋の下流、宇治市莵道(とどう)の宇治川東岸に、5世紀初頭の皇子・菟道稚郎子(うじのわき いらつこ)の宇治墓(うじ の はか)とされる丘陵地がある。いまは、巨木の豊かな森が広がり、宮内庁が管理している。
◆歴史年表 古墳時代、5世紀(401-500)初頭、莵道稚郎子は自ら命を絶つ。兄・大鷦鷯(おおさざき)は、遺骸を「莵道の山の上に葬りまつる」とされる。(「日本書紀」)
 年代不詳、現在地(莵道)には古墳状の円丘があり、一帯の小字は丸山(まるやま)と呼ばれていた。円丘は、菟道稚郎子を攻め、宇治川で討たれた大山守命(おおやまもり)の墓とも、菟道稚郎子の母・宮主矢河枝比売(みやぬしやかはえひめ)の墓とも伝えられていた。また、付近には浮舟宮という古社が祀られていたという。一帯は「浮舟の森」とも呼ばれ、榎木の大木が茂っていた。
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、現在地の南東にある朝日山山頂(宇治市、標高124m)が莵道稚郎子の葬地とされた。
 江戸時代中期、寛永年間 (1741-1744)、付近の浮舟の宮は廃絶した。跡地には、三室戸寺により「浮舟之古蹟碑」が立てられた。
 江戸時代、1733年、儒学者・並河五一郎は、朝日山山上に莵道稚郎子の墓碑(1m)を立てている。
 近代、1889年、現在地の浮舟宮社跡は、宮内省により、莵道稚郎子の墓と治定される。前方後円状の墳墓が造成された。
◆菟道稚郎子 古墳時代、4世紀の皇子・菟道稚郎子(うじのわき いらつこ、?-312)。父は第15代・応神天皇、母は和爾氏の女・宮主矢河枝比売(みやぬしやかはえひめ)。異母兄に大山守皇子(おおやまもりのみこ)、第16代・仁徳天皇(大鷦鶺尊<おおさざきのみこと>)がある。幼少より読書を好む。百済より渡来した学者・阿直岐(あちき)、王仁(わに)に学ぶ。応神天皇の寵愛を受け、兄たちを差し置いて立太子された。応神天皇没後、菟道稚郎子は兄・大鷦鶺皇子に皇位を譲り、自らは宇治に離宮・桐原日桁宮(ひげたりみや)を建て移り住んだ。兄・大鷦鶺皇子も皇位を受けず、皇位継承の混乱は3年に及ぶ。この間に、皇位を巡り、兄・大山守皇子は挙兵した。大鷦鶺皇子はこれを菟道稚郎子に知らせ、自らも皇位を譲りを受けない意志を示した。菟道稚郎子は、菟道川(うじがわ、宇治川)で兄・大山守皇子を討った。菟道稚郎子は入水して自らの命を絶つ。313年、兄・大鷦鶺皇子は仁徳天皇として即位したという。
 菟道稚郎子は、『源氏物語』第45帖-54帖の「宇治十帖」、第45帖「橋姫」、第46帖「椎本(しいがもと)」で登場する宇治八宮のモデルともいう。
 墓は宇治川右岸に宇治墓としてある。1889年に宮内省が治定した。
◆並河五一郎 江戸時代中期の儒学者・地理学者。・並河五一郎(なみかわ ごいちろう、1668-1738)。誠所(せいしょ)。山城国の富農の家に生まれる。儒学者・並河天民は弟になる。1691年、京都の儒学者・伊藤仁斎の堀川塾に学ぶ。1699年、遠江国掛川藩の藩儒。1706年、辞任。1708年、武蔵国川越藩の藩儒。1716年、辞任し、江戸に塾を開いた。弟・天民の京都の塾で経世済民思想などに影響を受ける。関衡祖、野呂元丈と親交を持った。1723年、幕命により畿内の古文献を調べる。1726年-1727年、大坂・懐徳堂、三島に漢学私塾「仰止館」を開く。1729年、幕命により畿内地誌編纂の調査を行う。河内国に入る。1730年、摂津国、1731年、大和国を調査する。1734年、『五畿内志』を完成した。墓は三島・本覚寺にある。
◆莵道稚郎子墓 莵道稚郎子の墓は確定されていない。
 莵道稚郎子は自ら命を絶ったため、兄・大鷦鷯(おおさざき)は、「莵道の山の上」に莵道稚郎子を葬ったという。(『日本書紀』)。また、墓は山城国宇治郡に在り、兆域(東西12町、南北12町)あり、守戸(しゅこ、御陵番)が三烟(えん)あったという。(『延喜式』)。これは仁徳陵、応神陵の規模を凌ぐ大規模なものになる。このため、この「山上」 とは、朝日山、三室戸山山頂ともいう。
 かつて、現在地(莵道)には古墳状の円丘(円墳)があり、小字は丸山(まるやま)と呼ばれていた。伝承として、菟道稚郎子を攻め、逆に宇治川で討たれた兄・大山守命(おおやまもり)の墓、菟道稚郎子の母・宮主矢河枝比売(みやぬしやかはえひめ)の墓ともされた。
 近世、朝日山山上(宇治市)が莵道稚郎子の墓とされた。これに基づき、江戸時代、1733年、並河五一郎は、朝日山山上に墓碑(1m)を立てている。
 近代、1889年、『延喜式』により宮内省は現在地を墓と治定し、前方後円状の墳墓を造成した。現在、墓は宮内庁が管理している。長さ80m.。
◆墓浮舟宮 菟道稚郎子宇治墓の西隣に「浮舟宮跡」という石碑が立てられている。
 かつて、付近に浮舟宮(浮舟社)という古社があったという。一帯は「浮舟の森」ともいわれ、榎木の大木が茂っていた。『源氏物語』「宇治十帖」の浮舟の宮を祀り、里人に親しまれていたという。
 江戸時代中期に社は廃絶した。寛永年間 (1741-1744)には、跡地に三室戸寺により「浮舟之古蹟之碑」が立てられた。
 近代、社跡は莵道稚郎子の陪塚(ばいちょう、小型の古墳)、宇治墓として整備される。
 近年になり、石碑は三室戸寺境内に移されたという。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都府の地名』『京都大事典』『京都府の歴史散歩 下』、サイト「菟道稚郎子墓」、碑文、『京都の地名検証』

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map 菟道稚郎子宇治墓 〒611-0013 京都府宇治市莵道丸山36-11
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