神泉苑 (京都市中京区) 
Shinsen-en Temple
神泉苑 神泉苑
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大鳥居









本堂


本堂


方丈


善女龍王社






善女龍王社主神は8寸の竜王で雨を降らせるという。


弁天堂、なまずの瓦がある。


弁天堂


恵方社(歳徳神)、方位を司る歳徳神が祀られている。台座に社殿が建てられ、上の社殿部分は回転できる。
毎年大晦日の晩に、氏子により、その年の恵方に社殿が向けられる。







鯉塚、亀塚




法成橋、一つだけ願い事を念じて渡ると成就するという。

法成就池(御池)





 神泉苑(しんせんえん)は、平安宮付属の禁苑(きんえん)であり、かつて大内裏の南に位置し、平安京の三史蹟(ほかに東寺、堀川)の一つに数えられる。
 神泉苑の名は、常に清泉が湧き出したことから名づけられ、古くは「ひぜんさん」とも呼ばれた。「しんぜんえん」「しぜんえん」「しぜんねん」との呼称もある。御池通の「御池」の語源になったといわれている。
 東寺真言宗の寺院、本尊は聖観音。
◆歴史年表 平安京遷都以前より沼沢は存在していた。
 平安時代、794年、平安京遷都により、第50代・桓武天皇により池の整備が進められる。禁苑となり、天皇の遊宴、宮廷儀式、雅遊が催され、池の西の広大な森(南北4町<516m>、東西2町<252m>)は、鹿狩りなどの遊猟の場になった。
 800年以降、中国文化に憧れていたという第50代・桓武天皇は行幸した。(『日本紀略』)。以来、記録に残るだけでも5年間に27回行幸している。
 804年、暴風雨により左右閣が壊れる。(『日本紀略』)
 第51代・平城天皇(在位806-809)は、3年間で13回行幸している。
 812年、第52代・嵯峨天皇による観花の宴は、花見節会のさきがけになった。
 819年、814年とも、嵯峨天皇により初の雨乞いの儀式が行われる。嵯峨天皇は、14年間で43回行幸している。その後も、累代天皇が雨乞や雨止の祈祷を行う。
 第53代・淳和天皇(在位823-833)は、5年間に23回行幸している。
 824年、淳和天皇の時、西寺・守敏と東寺・空海が天長年間(824-834)の旱災に対して祈雨の法を争い、空海が勝利したという。(『今昔物語集』巻14、『贈大僧正空海和上伝記』)。渤海の「猲(狼)」に苑中の鹿を追わせた。 
 836年、第54代・仁明天皇は隼狩りを行う。
 斉衡年間(854-857)、祈雨修法の場になった。
 854年、真言僧・恵運(えうん)により祈雨が行われている。文献初見という。
 856年、僧・常暁(じょうぎょう)が祈雨のために太元帥法を修した。(『覚禅抄』)
 862年、旱魃の際に、西北の門が開かれ、人々が池の水を汲むことが勅により許される。(『三代実録』)
 863年、勅命により、大般若経の転読が3日に渡り行われた。国家により初の御霊会が行われる。祟道天皇(早良親王)以下6柱の霊が祀られた。舞、雑技、散楽などが披露された。四門を開いて人々に開放される。(『三代実録』)
 866年、天台座主・安恵により7日間にわたる請雨経法が催された。
 869年、御霊会で、祇園社から神輿が出て66本の鉾(綾傘鉾)を立てて祈願し、民衆も参加し田楽、猿楽が奉納された。
 875年、空海の弟子で東寺4世・真雅ら15人の僧により請雨経法が行われ、真言密教の祈雨霊場になる。(『三代実録』)
 877年、旱魃により池水を流し、城南の民田を灌漑したという。一日一夜で水脈が枯れるほどだった。
 880年、祈雨により田の苗が水没した。大水が出たため、止雨の灌頂経法が修された。
 884年、近江、丹波により3艘の高瀬舟が造られ、池に浮かべられた。(『三代実録』)
 885年、第53代・淳和天皇は、投網により魚を獲る。
 892年、菅原道真は苑中に鹿が群れを成していたと記している。(「奉勅却鹿鳥願文」)
 第60代・醍醐天皇(在位897-930)は、門を開いて人々に水を分け与えたという。
 949年、旱魃に際して3日に渡り池水を流した。にわかに雨雲が起こり、止雨の奉幣師を立てるほどになる。(『日本紀略』)
 1004年、安倍晴明が五龍祭で一日だけ雨を降らしたという。
 1018年、旱に際して、仁海(にんかい)は勅により請雨経法を3日間にわたり修した。その後も9度にわたり雨を降らせ雨僧正と呼ばれた。(『元亨釈書』)
 1117年、醍醐寺三宝院を開いた勝覚は神泉苑での祈雨の請雨経法を修した。
 1177年、京中に暴風があり被害が出た。善如龍王が池を去ったとの噂が流れる。(『百錬抄』)。太郎焼亡により類焼する。
 平安時代末、池の汚濁が進む。
 鎌倉時代、建保年間(1213-1219)、北条泰時は、諸侯に門垣を築かせ、狼藉を禁じた。
 中世(鎌倉時代-室町時代)以降、衰退する。快雅上人により再興され、以来東寺との関係が深まる。現在の本堂も、東寺より移築されている。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)で、立石が奪われ、苑内に田が開かれ荒廃した。
 安土・桃山時代、1602年、徳川家康の二条城築造により、神泉苑の北側の大半が削られ、湧水は城堀に使われた。
 江戸時代、1607年、筑紫の僧・快我(かいが)は、復興のため勧進を行い、所司代・板倉勝重、片桐且元らの協力により寺院になる。東寺に属し、寺領40石を寄せられる。
 1624年-1625年、さらに二条城域の修築、拡大が行われている。
 近代以降、真言宗の道場として再興された。
 1935年、国史跡「神泉苑」に指定される。
 現代、1990年、地下鉄東西線工事に伴う事前調査により、池汀線、船着き場跡とみられる遺構などが発掘された。
 1992年まで、発掘調査が行われた。
神泉苑 神泉苑の池は、今から1万年前に生まれたという。
 苑は、かつてあった沼を整備して造られ、周の文王霊囿を模し、漢の武帝時代の宮廷苑池、都城の宮苑、禁苑がもとになっているともいう。作庭は、平安京を設計した巨勢金岡(こせのかなおか)によるとされる。
 平安京(大内裏)の南東に隣接し、南北は二条から三条、東西は大宮から壬生まで、南北4町513m、東西2町250mを占める広大なもので、13万㎡の広さがあった。なお、神泉苑と同時期、大内裏南には朱雀(すざく)院も造営され、柏梁殿などが建てられていた。
 建物は、東に三門(東門)、東北門、西に西門、馬場末門、北に北門、南に南門が開かれ、中国風の正殿・乾臨閣(けんりんかく)、その左右に二階建ての閣(左閣、右閣)が建てられていた。南に延びた廊の東西に釣台があり、池に迫り出していた。池(推定東西180m、南北162m)には中島、舟着場があり、庭も造られていた。池の北東に滝殿、西に馬埒殿(うまらちどの)・馬場なども建てられていた。
 苑池は、二条城の築城により8000㎡に減じ、近代以降は4400㎡に縮小した。
雨乞い 雨乞いとの係わりが深い。日照りが続いても神泉苑の水だけは涸れたことがなかった。鴨川の伏流水が豊富に湧いていた。平安時代、862年、旱魃の際に、西北の門が開かれ、人々が池の水を汲むことが勅により許されている。877年には、城南の民田を灌漑したという。
 雨乞いの儀式の最初は、平安時代の第52代・嵯峨天皇が819年(814年とも)に行ったとされており、その後も、累代の天皇が雨乞や雨止の祈祷を行っている。875年、第56代・清和天皇の代、空海の弟子・真雅ら15人の僧による雨乞いが行なわれた記録がある。第60代・醍醐天皇(897-930)は、門を開いて人々に水を分け与えたという。やがて通り名が「御池」と呼ばれるようになる。
 824年、第53代・淳和天皇の勅命により東寺の空海は、神泉苑の池畔で祈り、雨乞いの法会を行なったとの伝承もある。都の旱魃の原因は、西寺の守敏という南都僧が、雨乞いの法力により、7日の結願の時、豪雨を降らせる。だがその範囲は限られていた。続いて、空海による修法では降雨はしなかった。それは、守敏が呪力により龍神をことごとく水瓶に封じ込めていたからだった。空海は、唯一残された善女龍王(ぜんにょ りゅうおう)を天竺・阿褥達智池(あのくだつちいけ)から呼び寄せたところ、龍王は龍に化身して現れ、神泉池に雨を降らせたという。また、神泉苑の池に棲む龍は、本来は清らかな水を湛えた無熱地に棲む善女龍王という。空海の祈祷により、その龍が現れて三日三晩、都に雨を降らしたという。雨乞いに敗れた守敏は、呪法により矢を放ち、空海を殺めようとした。空海も呪法により対抗し、矢を射落とし、守敏を倒したという。(『古事談』『太平記』)
 また、空海が渡唐していた時、守敏は奇独の修法により天皇に取り入り帰依を受けた。空海が帰国後、天皇は二人の法力を競わせようとした。守敏の加持の効力が失われたことから、守敏は天皇を恨む。すべての龍神を水瓶に封じ込めて、国土は大干ばつに襲われる。空海は、三千世界の龍神の中で、ただ一つ、天竺の境、大雪山の北、無熱池に潜む龍神を見出し、大内に池を掘らせて勧請した。善女龍王は金色の八寸の龍の頂に乗り、池に降り立った。以来、3日に渡り国中に雨が降り続く。守敏はいよいよ怒り、西寺で軍荼利夜叉の法を行う。空海は東寺で大威徳明王の法で対抗した。二尊が射た矢が空中でひっきしなしに音を立てて相打ちになり落ちた。空海は、一計を案じ、自らが亡くなったとの噂を立てた。守敏は勝利したと思い込み、油断して壇を破った途端にこと切れた。空海は茅を龍形に結び善女龍王を池にとどめて、弥勒仏の出世までの国の守護を契った。茅の龍王は大龍になり、無熱池に戻ったとも、尾張・熱田の宮にとどまったともいう。以後、西寺は衰亡し、東寺は繁栄したという。(「神泉苑絵巻」)
 祈雨の文献初見は854年、真言僧・恵運(798-869)による。そのほか、聖宝(832-909)、寛空(884-972)、元真、元杲(914-995)、仁海(951-1046)が行った。
 小野小町(809-901?)も祈雨したという伝承が残る。小町は「ことわりや 日の本ならば 照りもせめ さりとてはまた 天が下とは」と詠んだとされる。
 陰陽師・安倍吉平(954-1027)は、安倍晴明の子ともいわれている。陰陽師としては初めて神泉苑での雨乞いの祈祷を行う。3度行い、雨を降らすことに成功している。
 1117年、醍醐寺三宝院を開いた勝覚は神泉苑での祈雨の請雨経法を修した。
 1182年、後白河法皇(第77代)の意向により、雨乞いの白拍子の舞が奉納された。その中に静御前おり、最後に舞うと三日間雨が降り続いたという。この際に、静御前は源義経に出会ったと伝えられる。
◆御霊会 平安時代、平安京に人口流入が起こり、衛生状態の悪化は、疫病の流行を頻発させ、多くの死病人が出た。疫病の原因は、政争により都を追われ、非業の死を遂げた人々の御霊の仕業とされ恐れられた。そのため、それらの御霊を神として祀ることで、疫病の退散を願った。
 平安時代、貞観年間(859-876)、御霊信仰が高まり、神泉苑がその霊場になっていく。863年、怨霊を鎮める祭礼である御霊会(ごりょうえ)が朝廷により執り行われ、一般の人々の出入りが許されている。金光明経、般若心経が説かれ、散楽、角力、騎馬などが演戯された。(『三代実録』)
 都では「咳逆病」(疱瘡、麻疹、インフルエンザとも)という疫病が流行り、死者が相次いだ。地方では凶作に見舞われていた。その原因は怨霊の祟りとされた。第53代・淳和天皇の勅命により、第50代・桓武天皇の弟・祟道天皇(早良親王)、桓武天皇皇子・伊予親王、その母・藤原夫人(吉子、きつし)、「薬子の変」(810)の藤原仲成(観察使)、橘逸勢(たちばなの はやなり)、文屋(ふんや)宮田麻呂ら6人が祀られた。これらの人々は、いずれも政争に敗れ、失脚、亡くなった人たちだった。
 その2年後の865年、朝廷は民間の御霊会を停止している。
 祇園祭との関わりもある。869年の御霊会で、祇園社から神輿が出て66本の鉾(綾傘鉾)を立てて祈願し、民衆も参加し田楽、猿楽が奉納された。66の意味は、全国66カ国の疫病を除くという意味がこめられている。のちにこれが祇園祭へと発展したとされる。なお、江戸時代には、御渡の神輿は、八坂神社から四条通を経て神泉苑に向かっていた。
◆狂言 「神泉苑大念仏狂言」(5月1日-4日)が狂言堂で行われている。
 壬生狂言の流れをくむ踊念仏狂言になる。近代、1903年に壬生狂言衆が壬生寺より分離独立した。1983年に京都市の無形民俗文化財指定された。
◆仏像・木像 弁天堂に「弁財天像」が安置されている。造立年代、仏師も不明。台座も含め像高60㎝ほどあり、艶冶漂う。頭上に鳥居と座した童子が載る。木造極彩色。
 小野小町の伝承に因む「雨乞小町」がある。
◆恵方社 境内の恵方社(えほうしゃ)には、方位を司る歳徳神(さいとくしん)が祀られている。台座に社殿が建てられ、上の社殿部分は回転できる。
 毎年大晦日の晩に、氏子によりその年の恵方(吉方)に社殿が向けられる。歳徳神はその方角にあり、開運を招くとされる。
◆遺構 神泉苑の船着場に使われた足場板、瓦などが、地下鉄工事に伴い発掘された。平安時代の井戸枠と、鎌倉時代の石組み井戸の底部は、地下鉄二条城前駅に復元されている。
◆文学 『徒然草』180段に、毬杖(ぎっちょう)を真言院より神泉苑に出して焼き上げると記されている。毬杖とは、正月の子供遊戯の一種であり、槌形の杖に色糸などを飾りつけ木製の毬を打合う。
 第60代・醍醐天皇は、神泉苑での夏の御遊のために、蔵人に洲崎の鷺を捕えるように命じた。蔵人が捕まえようとすると鷺は飛び立つ。蔵人が勅定であると叫ぶと、鷺は飛び下りて羽を垂れ、地に伏した。天皇は感じ入り、蔵人に爵を、鷺にも五位を授け、再び放たれたという。(『源平盛衰記』、謡曲「鷺」)
 外村繁(1902-1961)の『澪標(みおつくし)』には、神泉苑界隈が登場する。
◆千日回峯行 比叡山延暦寺の千日回峯行者は、京都大廻りの際に拝する。
◆アハの辻 神泉苑の北東角北に、かつて平安京の辻「アハの辻(あははの辻/あはらの辻)」があり、二条大路、大宮大路が交差していた。大内裏の北東角に当たる。南北の大宮大路には、耳敏川(みみとしがわ、大宮川、芥川)が流れ、七瀬祓が行われていた。
 藤原師輔はアハの辻で百鬼夜行に遭ったという。(『大鏡』)。藤原常行は、アハの辻近く、二条通を挟んだ神泉苑の北向いの大内裏美福門で百鬼夜行を見たという。(『今昔物語』)。源高明は、神泉苑東北角、冷泉院南西で怪異を見たという。(『続古事談』)
◆墓 鐘楼の傍らに、江戸時代の中興開山・快我上人、所司代・板倉勝重、片桐勝元の供養塔(五輪塔)が立つ。
自然 池にはタウナギという珍しいウナギが生息している。また、中島に生息するゴイサギは、醍醐天皇が苑を訪れた際に、鳥を捕らえても神妙であったことから、五位の位を授けたことによると伝えられる。
◆花暦 サクラ・サツキ・ショウブ(3-5月)、ツツジ(6-8月)、紅葉、ウメ・サザンカ(12-2月)。
◆年間行事 神泉苑大念仏狂言(5月1日-4日)、神泉苑祭(5月3日)、歳徳神恵方廻し(方違え式)・年越蕎麦接待除夜の鐘(12月31日)。 


*年間行事などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『遺跡から見た京都の歴史』『日本の古代遺跡28京都Ⅱ』『京都・山城寺院神社大事典』『京都歴史案内』『平安の都』『京都府の歴史散歩 上』『洛東探訪』『京都市文化財ブックス28集 平安京』『昭和京都名所図会 5 洛中』『桓武天皇と平安京』『京都の地名検証 2』『京都・美のこころ』『京都四季の庭園』『おんなの史跡を歩く』『京の寺 不思議見聞録』『京都歩きの愉しみ』『あなたの知らない京都の歴史』『京都時代MAP 平安京編』
 

  蓮光院(北向不動)      祇園祭             東寺       西寺址      御霊神社(上御霊神社)・出雲寺・御霊の森       八坂神社(東山区)      崇道神社       延暦寺・東塔(大津市)       延暦寺・無動寺谷(大津市)       延暦寺・飯室不動堂(大津市)       大覚寺                   

平安京造営時には今の10倍の広さを誇っていた。平安貴族の舟遊びや詩歌管絃の宴が催された。法成就池にいまも龍頭船が浮かぶ。

狂言堂

雨のいのりのむかしをおもいて 
「名月や 神仙苑の うお おとる
」 蕪村

【参照】神泉苑の船着場に使われた足場板

【参照】出土した瓦など(地下鉄二条駅)

【参照】平安時代の神泉苑復元図、京都アスニー

【参照】平安時代の神泉苑復元図、京都アスニー
平安京オーバレイマップ
 神泉苑 〒604-8306 京都市中京区門前町166,御池通神泉苑東入る  075-821-1466  9:00-20:00

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