朱雀門跡 (京都市中京区)
The ruins of Suzaku-mon Gate
朱雀門跡   朱雀門跡 
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「此附近平安京大内裏朱雀門址」の石標


「伴大納言絵詞」(国宝)に描かれた朱雀門、平安時代後期 866年、応天門炎上に際して群衆が左方向にある応天門を見上げている。説明板より


大内裏の朱雀門(赤い矢印)、説明板より


【参照】大内裏復元模型、中央に朱雀大路、その突き当りに朱雀門、その奥に朝堂院がある。京都アスニー



朱雀門は赤い囲み部分、その上に朝堂院、説明板より




 二条駅近く千本通の東に、「此附近 平安京大内裏 朱雀門址」の碑が立てられている。この地には、平安時代、平安京の大内裏南面にあり、最も重要で、最大の門といわれた朱雀門(すざくもん/すざかもん/しゅじゃくもん)が建てられていたという。
◆歴史年表 
平安時代
、門は、現在地付近に南面して建てられた。当初は「大伴門(おおとももん)」と呼ばれた。
 818年、「朱雀門」に改められる。
 866年、「伴大納言絵詞」(国宝)に朱雀門が描かれている。
 989年、倒壊した。
 1007年、藤原道長による金峯山(奈良)参詣では、道長は土御門第より朱雀大路に出て祓を行う。その後、羅城門跡より出立した。
 1165年、朱雀門での大祓装束の指図がある。(「山槐記」)
 鎌倉時代、1208年、焼失した。
 1209年、倒壊し、再建される。
 1211年、自然倒壊し、以後、再建されなかった。
 
1227年、焼失したともいう。
 現代、1987年、千本通での埋設管敷設工事にともない立会調査を行う。
 1985年、朱雀門北側の立会調査により朱雀門-応天門間の道路が見つかる。
 2008年、千本通での埋設管敷設工事にともない立会調査を行う。
 2009年、千本通での埋設管敷設工事にともない立会調査を行う。
 2011年、朱雀門推定地北西隅で試掘調査を行い、平安時代の土坑1基が見つかる。
◆朱雀門 朱雀門は、平安宮南面中央、大内裏(だいだいり)の正門に建てられていた。平安京朱雀大路、現在の千本通北端(中京区千本通押小路上ル東)にあり、南の二条大路に面した。門の北には宮城内の応天門、大極殿があり、これらは直線上に位置している。朱雀門の南、朱雀大路の南端には羅城門があった。
 古代の日本では、宮城十二門が宮の四周に建てられ、その南面正門(中央門)は「応天門」と呼ばれていた。平安宮には14の門があった。
 朱雀門とは、中国の長安城に、南面して建てられていた皇城門の呼称に倣う。朱雀門の初見は、奈良時代、714年であり、四神の一つであり、南を守る朱雀に因んだ。(「続日本紀」)。飛鳥時代、第36代・孝徳天皇の難波豊碕宮にも用いられた。
 朱雀門には複数の呼称があった。「南門」、また、門は二層のため「重閣門」とも呼ばれた。飛鳥時代より天皇警護の任に就いた大伴氏に因み「大伴門」と呼ばれる。これは、禁中警固の氏に対する栄誉を表すための慣例に倣った。平安時代、818年には、「朱雀門」に改められる。
 平安宮で重要な三門(ほかに上東門、上西門)の一つであり、その中で最も重要、最大の門だった。門前では儀式、歌垣(うたがき)も行われている。6月、12月晦日の大祓(おおはらえ)、斎内親王(斎宮)の伊勢群行、大嘗祭に伴う臨時の大祓も行われた。大祓は門前の堀(8尺)である耳敏川(みみとがわ)で行われた。門は、左右の衛門(えもん)府が共同で警固していた。
 朱雀門は壇上積基壇の上に建てられている。柱は朱塗りで、棟の両端に金色の鴟尾(しび)が載せられた。七間二間五戸、重層(重閣門)、入母屋造、瓦葺。 
◆伝承 朱雀門の伝承がある。
 平安時代、空海(774-835)は扁額を書く際に、大極殿の「大」を「火」に、朱雀門の「朱」を「米」にあえて変えて書いたという。無徳の君の大内裏造営に対して、将来の国の財を案じ、戒めとするためだったという。(『太平記』巻十二)。能書家・小野道風(894-964)は、「火極殿」「米雀門」とこれを非難したため、筆を取ると手が震えたという。
 平安時代、延喜年間(901-923)の初め、貴族・文人・都良香(みやこ の よしか、834-879)が、朱雀門近くで「気霽(は)れては風、新柳の髪を梳(けづ)り」と漢詩を詠んだ。楼上より「氷消えては波、旧苔の鬚(ひげ)を洗ふ」と詠む声がした。良香がこのことを菅原道真に語ると、「下句は鬼の詞だ」と告げた。朱雀門には赤鬼が棲んでいたという。ただ、羅城門での話ともいう。(『撰集抄』巻八、『十訓抄』)
 平安時代、管弦名人の公卿・雅楽家・源博雅(918-980)は、明月に朱雀門前で笛を吹いた。するともう一人の奏者も現れ、巧みに笛を吹く。以来、二人は月夜にしばしば笛を吹いた。ある時、博雅はもう一人に笛を取り換えてもらい吹くと、名笛であることが分かる。博雅の没後、天皇は、名手にこの笛を吹かせた。だが、誰一人として吹きこなす者はなかった。ただ、浄蔵はだけは巧みに吹く。天皇の命により、浄蔵が月夜の朱雀門で吹くと、楼上より「なお一物や」と褒める声がある。この時、笛は門に棲む鬼の物であることが知れた。笛は「葉二(はふたつ)」と名付けられた。(「十訓抄」第十)
 平安時代中期の天台宗の僧・登照(とうしょう、生没年不詳)は、朱雀門を通りかかった。門下で老いた男女の姿を見かける。ともに死相が出ている。登照は、この門がすぐに倒れると察知し、大声で危険を知らせた。人々は逃げ出し、途端に門は自然倒壊した。警告に高を括った者は圧死したという。(『今昔物語集』巻四)
◆朱雀大路 南北の大通りである朱雀大路(すざく おおじ)は、南の羅城門まで一直線に延びていた。道幅は28丈(80-84m)という。築地の中心間は84m、路面幅は70.2mあった。
 道の両側には外側より築地(幅1.8m)、犬行(いぬばしり、幅4.5m)、溝(幅1.5m)、柳が植えられていた。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 説明板、『平安の都』『文化財と遺跡を歩く 京都歴史散策ガイドブック』『京都歴史案内』『京都市文化財ブックス28集 平安京』


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map 朱雀門跡 〒604-8383 京都市中京区西ノ京小堀町2-24,千本通押小路上る東側  
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