三条西殿跡 (京都市中京区)
The ruins of the residence of Sanjo-nishidono(Palace)
三条西殿跡 三条西殿跡
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「三条西殿跡・三条大路跡」の説明板、財團法人古代學協會


【参照】平安時代の三条西殿の復元図、京都アスニー
 烏丸通三条西入る北側に、「三条西殿跡(さんじょうにしどの あと)・三条大路跡(さんじょうおおじ あと)」の大型の説明板が掲示されている。
 この地は、平安京左京三条三坊十二町にあたる。白河法皇(第72代)、鳥羽上皇(第74代)、待賢門院璋子、後白河法皇(第77代)などの御所に充てられた。 
◆歴史年表 平安時代、公卿・藤原師実が、養女・賢子(白河天皇の中宮)の里第に用いた。
 1118年、中宮・待賢門院璋子は三条西殿に赴き白河法皇に逢う。
 1119年、待賢門院璋子は、三条西殿で皇子・顕仁を産んだ。
 1124年、待賢門院璋子は、三条西殿で第2皇子・通仁親王を産む。
 1129年、白河法皇が三条西殿の西対(にしのたい)で亡くなる。その後、西対は鳥羽殿に移された。
 後に、後白河法皇(第77代、1127-1192)、その女御・建春門院(1157-?)の御所になった。
 現代、1969年、財團法人古代學協會・平安博物館により現在地の発掘調査を行う。
 1980年、財團法人古代學協會・平安博物館が発掘調査を実施した。
◆藤原師実 平安時代後期の公卿・藤原師実(ふじわら の もろざね、1042-1101)。京極殿、後宇治殿。父は藤原頼通、母は因幡守・藤原種成の娘・祇子(ぎし)。1053年、元服、1069年、左大臣。養女・賢子(師房孫、顕房の子)が第72代・白河天皇の中宮、第73代・堀河天皇の母となる。1075年、叔父・教通の死により内覧、氏長者、関白に昇る。1086年、堀河天皇の即位により摂政、1088年、太政大臣、1090年、関白となった。1094年、関白を辞任する。1101年、出家し、法覚と号した。
 有職に通じ、和歌、琵琶を好む。家集に「京極関白集」がある。
◆藤原賢子 平安時代中期-後期の白河天皇の中宮・藤原賢子(ふじわら の けんし/かたこ、1057-1084)。父は源顕房(あきふさ)、母は源隆俊の娘・隆子。藤原師実(もろざね)の養女になる。1071年、東宮・貞仁親王に入内。1072年、貞仁親王即位(第72代・白河天皇)に伴い、1073年、女御、1074年、中宮になる。第1皇子・敦文親王を産む(1077年、夭折)。1079年、善仁親王(後の第73代・堀河天皇)を産む。ほかに、媞子内親王(郁芳門院)、令子内親王、禛子内親王を産んだ。28歳で亡くなる。墓は上醍醐陵(伏見区)にある。
 白河天皇は、その死を悼み死の穢れの例に反して亡骸を抱いて号泣し、食事も摂らなかったという。1087年、堀河天皇の即位に伴い皇太后を追贈。 
◆白河天皇 平安時代の第72代・白河天皇(しらかわ てんのう、1053-1129)。第71代・後三条天皇の第1皇子、母は中納言・藤原公成の娘・茂子。1072年、20歳で即位した。1075年、法勝寺の創建に着手する。父の遺言に背き、1086年、8歳の子・善仁親王(第73代・堀河天皇)に譲位後、自らは白河院として院政を行った。1087年、別業の鳥羽殿(南殿)を建立する。1107年、5歳の孫・第74代・鳥羽天皇、1123年、曾孫・第75代・崇徳天皇と、3代にわたり43年間の強権的な執政を行う。「治天の君」といわれた。院御所は主に六条院とした。200か所以上の倉を有し、1077年、六勝寺の初めである法勝寺、1095年頃、白河に白河殿を建立した。熊野参詣は9度行う。延暦寺衆徒の嗷訴(強訴)に苦慮し、源平の武士を登用しその台頭を促す。
 西三条殿内裏で亡くなる。衣笠山山麓で荼毘に付され、香隆寺に埋葬される。その後、1131年、成菩提院(成菩提院陵)に改葬された。
◆待賢門院璋子 平安時代の待賢門院璋子(たいけんもんいん の しょうこ/たまこ、1101-1145)。藤原璋子。父は正二位行権大納言・藤原公実、母は左中弁藤原隆方娘で堀河・鳥羽両代の乳母・光子。美貌の人だったという。第72代・白河天皇と寵姫・祇園女御の養女として育てられた。1117年、入内し女御になる。17歳で白河天皇の孫、第74代・鳥羽天皇中宮となる。里第として三条西殿に御殿が造営される。1119年、顕仁親王(第75代・崇徳天皇)、第77代・後白河天皇の母となる。ただ、顕仁(あきひと)親王は、寵愛された白河法皇との間の子ともされる。鳥羽天皇は親王を「叔父子(おじご)」と呼び冷遇した。1123年、法皇の命により、5歳の崇徳天皇が即位した。国母(こくも)に就く。待賢門院の院号を与えられ、女院となる。1129年、白河法皇没後、皇子(覚性法親王)を産む。1133年、白河法皇の火葬場(衣笠山)に参る。この頃、夫・鳥羽天皇は美貌の藤原得子(美福門院)を寵愛した。子・禧子内親王も喪う。1134年、病苦に苦しむ。1142年、美福門院との間の子・近衛天皇へ皇位継承させた。待賢門院は次第に権勢を失う。1142年、法金剛院で落飾し真如法と称した。1143年、第3皇子・君仁親王を喪う。その後、三条高倉第で鳥羽法皇に見守られ亡くなる。箏の琴(十三絃琴)の名手として知られた。鳥羽天皇中宮花園西陵に葬られる。
 1155年、近衛天皇夭折後、待賢門院の二人の子、後白河天皇と崇徳上皇の皇位継承争いが保元の乱(1156)になった。
◆三条西殿跡 三条西殿は、平安左京三条三坊十二町にあった。南を三条大路(三条通)、北を姉小路(姉小路通)、東を烏丸小路(烏丸通)、西を室町小路(室町通)に囲まれた1町にあった。
 白河法皇、鳥羽天皇、鳥羽天皇皇后・待賢門院は、三条東殿、三条西殿を行き来していた。主な居処は西殿にあり、白河法皇による院政期政治の中心になった。
 待賢門院は、三条西殿を里第のように用いた。1118年、白河法皇は三条西殿を訪れ寵愛していた待賢門院を訪ねている。翌、1119年、待賢門院は三条西殿で第1皇子・顕仁親王(後の崇徳天皇)を産む。1124年、第2皇子・通仁親王も三条西殿で産んだ。
 1129年、白河法皇は三条西殿の西対(にしのたい)で亡くなる。法皇は病床にあり最期まで待賢門院のことを気にかけていたという。その後、西対は鳥羽殿に移された。
 その後、三条西殿は、後白河法皇(第77代、1127-1192)、女御・建春門院(1157-?)の御所になった。
◆発掘調査 1969年以来、財團法人古代學協會・平安博物館により、烏丸ビル敷地での4回の発掘調査が行れた。後世の削平などにより、建物跡は発見されなかった。
 敷地の南で三条大路北端、東で烏丸小路西端の側溝が見つかり、平安京の町割りの定点になった。
 敷地東南隅では、平安時代-江戸時代の三条大路側溝、路面の一部が発掘された。平安京の当初の路幅は8丈(24m)あった。後世、次第に狭められていた。大量の屋瓦類、土器・陶磁器類が出土している。
 室町時代の三条の溝より、西国三十三所巡りの巡礼札も出土した。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 財團法人古代學協會の説明板、『平安京散策』『京都大事典』


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map 三条西殿跡 〒604-8166 京都市中京区御倉町85-1,烏丸通三条西入る北側
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