斎宮邸跡 (京都市中京区)
ruins of Saigu-tei Palace
斎宮邸跡 斎宮邸跡
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斎宮邸跡の京都市による説明板、西京中・高校の正門脇。


斎宮邸跡、説明板はベージュ色の南端中央の赤い点の部分に設置されている。斎宮跡は、紫色の塗り潰し部分で校内の北半分(十六町)になる。下の東西の通りは御池通、右端の南北の通りは西大路通。説明板より。

グラウンドの発掘調査の写真、説明板より。


池跡から出土した須恵器の墨書土器(左)、上には「齋宮」、下には「齋雑所」と墨書されている。右は泉跡から出土した「人形代(ひとがたしろ、65×7㎝)、説明板より。

斎宮邸の復元図、説明板より。


【参照】平安時代の斎宮邸復元図、京都アスニー
 西京高等学校・附属中学校の正門前に、「斎宮邸跡(さいぐうてい あと)」の大型説明板が設置されている。 
 平安時代中期、この地(平安京右京三条二坊十六町)には一町規模で斎宮邸が置かれていたとみられている。恬子内親王(てんし ないしんのう)の邸宅跡ともいう。
◆歴史年表 平安時代中期、この地(平安京右京三条二坊十六町)には、平安京内の斎宮の一つがあったという。
 現代、1999-2000年、西京高校の北側グラウンドの発掘調査により、斎宮の池跡、泉跡、建物跡などが出土した。897年に伊勢斎宮に卜定された、柔子(じゅうし)内親王邸宅跡とみられている。
◆柔子内親王 平安時代中期の斎宮・柔子内親王(じゅうし/よしこ ないしんのう、?-959)。第59代・宇多天皇の第2皇女。母は藤原胤子(いんし)。第60代・醍醐天皇の妹。892年、内親王となる。897年、伊勢斎宮となり六条斎宮と呼ばれる。32年間にわたり斎宮となり、930年、退いた。「後撰和歌集」に入首。
◆徽子女王 平安時代中期の皇族・歌人・徽子女王(きし/よしこ じょおう、929-985)。式部卿・宮重明親王の第1王女(第60代・醍醐天皇の孫)。母は藤原忠平の次女・寛子。936年、急逝した斎宮斉子内親王(醍醐天皇皇女)の後を受け、8歳で第38代・伊勢斎宮に卜定(ほくてい)された。937年、雅楽寮へ初斎院入り、野宮へ遷る。938年、10歳で伊勢へ群行する。945年、母の死により17歳で退下、帰京した。948年、叔父・第62代・村上天皇に請われて20歳で入内。949年、女御の宣旨を受ける。規子内親王(第4皇女)を産む、皇子1人は早世した。956年、「斎宮女御徽子女王歌合」、959年、「斎宮女御徽子女王前栽合」を主催する。967年、村上天皇没後、規子内親王と共に里第で暮らす。975年、規子内親王が第64代・円融天皇の斎宮に選ばれる。976年、初斎院入りに徽子女王も同行した。977年、勅命に反して前例を破り、斎宮と共に2度目の伊勢へ下向した。984年、円融天皇の譲位に伴い規子内親王が斎宮を退下し、985年、共に帰京した。従四位上。
 後宮(こうきゅう)では和歌と琴七弦琴の名手とされた。局を承香殿とし「承香殿女御」、父・重明親王の肩書から「式部卿の女御」、前斎宮であり「斎宮女御」とも呼ばれた。三十六歌仙、女房三十六歌仙の1人。『源氏物語』「賢木」中の母・六条御息所、娘・秋好中宮のモデルとされる。
◆規子内親王 平安時代中期の伊勢斎宮・規子内親王(きし/のりこ ないしんのう、949-986)。第60代・村上天皇の第4皇女。母は徽子(きし/よしこ)女王。972年、「女四宮歌合」を主催した。975年、伊勢斎宮に卜定され、母とともに伊勢に赴く。984年、第64代・円融天皇の譲位により退く。38歳。
 『源氏物語』「賢木」中の母・六条御息所、娘・秋好中宮のモデルとされる。
◆恬子内親王 平安時代前期-中期の皇女・恬子内親王(てんし/かっし ないしんのう、848?-913)。第55代・文徳天皇の皇女、母は紀静子(きの しずこ)。859年、12歳で斎宮に卜定される。876年、第56代・清和天皇が譲位したため退任した。勅使・在原業平と契り、後に高階師尚を産んだとの伝承が生まれた。 (『伊勢物語』)
◆発掘 1999-2000年、西京高校の北側グラウンドの発掘調査により、平安時代中期の斎宮邸宅跡が発見された。北は二条大路、東は野寺小路、西は道祖大路、南は押小路に面していた。
 敷地の東に正門の四脚門が開いていた。北西に楕円形の池跡(東西15m、南北40m、深さ60㎝)があり、湧水しており、州浜、景石跡も見つかっている。木枠を組んだ泉跡、池の北西、東に張り出す三面廂付建物跡、廊状建物、北東に南北建物などが出土した。敷地の北半分に重要な儀礼、饗宴のための施設が配置されていた。一帯十六町が平安京内の斎宮の一つに当たるとされた。
 池跡より墨書のある須恵器土器が出土し、土器の底には「齋宮」「齋雑所」「齋舎所」と書かれていた。9世紀後半-10世紀中頃のものという。緑釉陶器、灰釉陶器、丸瓦、軒丸瓦も出土している。泉跡より、平安京跡出土としては最大の「人形代(ひとがたしろ)」(65×7㎝)が見つかった。これは、律令祭祀遺物であり、人の身についた穢れ、厄を託して川などに流していた。ほかに土馬、刀子形、舟形、陽物形も出土している。
 池に堆積していた花粉調査により、庭園にはマツ、カエデ、ツツジ、サクラ、アヤメ、ショウブなどの植栽があったとみられている。
◆斎王・斎所 「斎王(さいおう/いつきのみや)」は、伊勢神宮の天照大神の「御杖代(みつえしろ、神の意を受ける依代)」として奉仕した未婚の内親王か女王のことをいう。「斎宮」とは、斎王の御所を意味し、平安時代以降は、斎王自身のことも指すようになった。洛西の大堰川、紙屋川、有栖川は古代より祓禊の場になっており潔斎の場も置かれていた。
 斎王は、伝承では、第11代・垂仁(すいにん)天皇の代(B.C.29?- A.D.70?)の、倭姫命(やまとひめのみこと)に始まったという。実質的には、飛鳥時代、670年、第40代・天武天皇の娘・大来皇女(おおくのこう じょ)より、第96代・後醍醐天皇の代(1330頃)まで、660年間に60人余りの斎王が生まれている。
 天皇の即位とともに、斎王に卜定(ぼくじょう)された未婚の内親王か女王は、大内裏の斎所である「初斎院(しょさいいん)」で1年間の潔斎をした。その後、7月に郊外の清浄な野に建てられた「野宮(ののみや)」に入る。8月、賀茂川で禊を行った。朱雀天皇の頃より9月に変更された。さらに、1-2年の精進潔斎生活を送り、9月に野宮より出て桂川で禊し、宮中に入った。天皇との別れの儀を経て、5泊6日の群行により伊勢の斎宮寮へ向かった。
 野宮は洛西にあったとされ、野宮神社、斎宮神社、斎明神社などもその旧跡地とされている。
◆源氏物語 『源氏物語』第10帖「賢木」巻では、六条御息所(ろくじょうみやすどころ)は、光源氏との恋愛に疲れる。六条御息所は、斎宮に卜定された娘・秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)とともに伊勢に赴くことを決意する。
 光源氏は嵯峨野の野宮へ六条御息所を訪ねた。秋好中宮は、母没後、光源氏の養女になる。やがて、冷泉帝の妃になり斎宮女御と呼ばれた。
 母・六条御息所、娘・秋好中宮は、実在した徽子女王(きし じょおう、929-985)と規子内親王(きし ないしんのう、949-986)母娘が題材になっている。二人とも伊勢斎宮に卜定されている。規子内親王が初斎院入りすると、徽子女王も同行した。徽子女王は、勅命に反して斎宮(規子内親王)と共に2度目の伊勢に下向している。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 京都市の説明板、『洛西探訪』『京都市文化財ブックス28集 平安京』『紫式部と平安の都』


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map  斎宮邸跡 〒604-8437 京都市中京区西ノ京東中合町1 京都市立西京高等学校・附属中学校正門前
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