橘逸勢邸跡 (京都市中京区)
The ruins of the residence of TACHIBANA no Hayanari
橘逸勢邸跡  橘逸勢邸跡
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 姉小路通東堀川東入上る陣屋辻子の東側に「橘逸勢邸址(たちばな の はやなり ていあと)」の石標が立つ。 
 この地には、平安時代の三筆の一人、橘逸勢の邸宅があった。「松殿(はいまつどの)」と呼ばれた。石標の位置は敷地の南西付近になる。
◆歴史年表 平安時代、この地、平安京左京三条二坊十一町には、橘逸勢(?-842)の邸宅があり、「松殿」と呼ばれていた。
 849年、承和の変で、逸勢は伊豆に流され途中の遠江で病没した。
 850年、逸勢の罪が許された。娘・妙沖は屍を背負い京都に戻ったという。 (「日本文徳天皇実録」)
 その後、逸勢は御霊として祀られる。邸宅跡の西(猪熊通三条辺)には橘逸勢社が祀られた。
 1076年、源師実の邸になり、改装された。
 1177年、大火により焼失した。
 その後、橘逸勢社は焼失している。
◆橘逸勢 平安時代初期の官人・能書家・橘逸勢(たちばな の はやなり、?-842)。 父は橘入居(いりい/いるいえ)、橘奈良麻呂の孫。804年、遣唐使に従い、空海、最澄らと入唐した。唐人は逸勢を「橘秀才(きつしゅうさい)」と称賛した。806年、帰国、従五位下に叙せられる。840年、但馬権守となる。842年、承和(じょうわ)の変の首謀者とされ捕らえられる。拷問を受けたが罪を認めなかった。「非人」として伊豆に流される。途中、遠江(とおとうみ)で没した。
 隷書に優れ、後世、三筆(ほかに空海、嵯峨天皇)の一人とされた。平安宮門扁額を3つを書いたという。空海の「三十帖冊子」など一部にも筆跡があるともいう。
 事件後、怨霊として恐れられた。没後、850年、正五位上、853年、従四位下を追贈される。863年、神泉苑御霊会では、早良親王らと共に御霊信仰の対象とされた。中世まで御霊会で慰撫された。
◆恒貞親王 平安時代前期の恒貞親王(つねさだ しんのう、825-884)。亭子(ていし)親王。第53代・淳和天皇の第2皇子、母は第52代・嵯峨天皇の皇女・正子内親王。嵯峨・淳和上皇に寵愛された。833年、嵯峨上皇の意向により、9歳で第54代・仁明天皇の皇太子になる。本人は固辞したという。842年、承和の変に連座し廃太子させられた。淳和院の東の亭子に住む。849年、三品を授けられた。出家し恒寂(こうじゃく)と称し、大覚寺を開く。884年、藤原基経は第57代・陽成天皇を廃位とし、親王を天皇に立てようとしたが辞退した。伝記に『恒貞親王伝』。
◆妙沖 平安時代前期の尼・妙沖(生没年不詳)。詳細不明。橘逸勢の娘。842年、父が承和の変(840)により伊豆国配流になり、護送の役人の制止を振り切り、泣きながら跡を追ったという。父は遠江国の板筑で亡くなる。娘は父の亡骸を葬り、尼となり妙沖と名乗って墓を守った。850年、父の罪が許されると、妙沖は屍を背負って京都に戻る。人々は孝女と称えたという。 (『日本文徳天皇実録』)
 松殿(はいまつどの)の地に妙沖の墓があったという。東海道の脇街道である姫街道(本坂道)の本坂峠近くにある小社・橘逸勢神社(浜松市)が逸勢の葬られた地とされている。
◆承和の変
 平安時代前期、842年、謀略事件といわれる「承和の変(じょうわのへん)」が起きた。
 第54代・仁明(にんみょう)天皇は、第53代・淳和(じゅんな)上皇の皇子・恒貞(つねさだ)親王を皇太子に立てた。これは、淳和上皇、嵯峨太上皇(第52代)の意に沿うものだった。
 他方、さし押された公卿・藤原良房は、妹・順子(じゅんし)が産んだ第54代・仁明天皇皇子・道康(みちやす)親王の立太子を謀る。恒貞親王は、皇太子を辞すると表明するが、仁明天皇、淳和上皇に反対される。
 840年、淳和上皇が亡くなる。続いて、842年に嵯峨上皇が没した。その2日後、謀主にされかかった第51代・平城天皇皇子・弾正尹・阿保(あぼ)親王は、密書を持ち太皇太后・橘嘉智子に謀反計画があることを告げたという。嘉智子は、嵯峨天皇皇后であり、仁明天皇の母であり、淳和皇后・正子の母になる。
 春宮坊帯刀(とうぐうぼう たちはき)として仕えた伴健岑(とも の こわみね)、但馬権守・橘逸勢らは、朝廷により捕らえられ拷問を受けた。二人は、皇太子を奉じて東国で謀反を起こす陰謀があるとされた。健岑にその意図があったとされ、隠岐に流された。恒貞親王は廃太子となり淳和院に護送された。逸勢は、「非人」の姓にされ伊豆に流された。途中の遠江板築(とおとうみ いたつき、浜松市)の宿で非業の死を遂げた。大納言以下60余人も事件に連座し、追放、左遷された。
 事件は、良房による陰謀とされている。840年、良房の推す道康親王が立太子し、良房は娘・藤原明子(染殿后)を皇太子妃とした。850年、道康親王は、第55代・文徳天皇として即位する。良房は太政大臣に就き、以後、藤原北家(ほっけ)が興隆した。850年、橘嘉智子が没すると、すぐに逸勢に正五位下が追贈された。
◆逸勢社 蛟松殿跡の西(猪熊通三条辺)に、かつて橘逸勢を祀る逸勢社があったという。(『橘逸勢伝』)。その後、社殿は焼失した。
 現在、逸勢は祭神・八所御霊の一つとして上御霊神社(上京区)、下御霊神社(中京区)に祀られている。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都 歴史案内』『続・京都史跡事典』


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map  橘逸勢邸跡 〒604-8267 京都市中京区鍛冶町163-4,姉小路通東堀川東入上る東側
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