蓮如上人銅像跡 (京都市山科区)
The ruins of the Bronze statue of Rennyo Shonin

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蓮如上人銅像跡


石の台座部分



碑文


「顧問 高村光雲、原型 黒岩淡哉、鋳造 伊藤乙丸」と刻まれている。
 山科区西野の住宅街の一角に、「蓮如上人銅像跡(れんにょしょうにん どうぞう あと)」がある。
 かつてこの地には、蓮如の巨大な立像が立てられていた。いまは一帯に台座、石碑跡、庭跡だけが残る。 
◆歴史年表 近代、1934年、9月、蓮如上人銅像は立てられた。
 1944年、太平洋戦争中に「戦時金属供出」により立像、碑文が撤去され、台座だけが残された。
◆蓮如上人銅像 1934年9月、青銅製の蓮如上人銅像は立てられた。行脚姿の姿の蓮如立像だった。
 東西の御坊融和の象徴として立てられたものという。場所は、東御坊(東本願寺山科別院)、西御坊(西本願寺山科別院)、蓮如上人廟所の3点のほぼ中間点になる。
 建立者は、江戸時代の由比正雪の子孫・卯三郎という。彫刻家・黒岩淡哉の作、仏師・彫刻家・高村光雲(1852-1934)が顧問になった。1944年、太平洋戦争中に、「金属供出」により石垣の台座を残して撤去された。立像は、台座部分も含めて高さ10mだったという。
◆蓮如 室町時代の真宗の僧・蓮如(れんにょ、1415‐1499)。第7代・存如の長男として東山大谷に生まれた。母は祖母の侍女という。1420年、6歳で母が本願寺を去る。継母・如円の下で育つ。1431年、17歳で青蓮院で得度、中納言・広橋兼郷の猶子となる。比叡山、興福寺で修行したという。1442年、如了尼と結婚する。1449年、東国布教に出る。1457年、父の死により本願寺8世となる。1465年、比叡山衆徒により本願寺は破却された。近江に逃れる。(寛正の法難)。1468年、延暦寺は堅田を攻撃する。(堅田大責)。1468年(1469年とも)、大津近松に移り、祖像を遷す。1469年、東国に修行に出る。1471年、越前・吉崎に襲撃を避けて道場、吉崎御坊を開く。1473年、『正信偈・和讃』開版。1474年、文明の加賀一向一揆が起こる。1475年、一向一揆に敗走し、河内出口に向かう。1478年、山科に移る。1483年、本願寺を再興し、山科での布教を続けた。1488年、長亨の加賀一揆が起こる。1489年、山科本願寺南殿に隠居した。1496年、大坂石山に坊舎を建て妻子と隠棲した。1499年、山科本願寺に戻り亡くなる。
 蓮如は1461年以後、現世利益ではなく、救われて仏となること、師による恩ではなく教説による仏恩を説き、布教に御文(おふみ)(御文章<ごぶんしょう>)を用いた。「南無阿弥陀仏」などと書かれた掛け軸の御名号(おみょうごう)、門徒の組織である講、親鸞の教えの木版印刷などを通じた布教により教団の急拡大を行った。
◆黒岩淡哉 近現代の彫刻家・黒岩淡哉(くろいわ たんさい、1872-1963)。高木倉吉。後に黒岩家に養子として入る。二松学舎卒業後、1889年、東京美術学校入学、彫刻(木彫)を学ぶ。1894年、卒業。1898年、東京美術学校の彫刻科助手兼教務掛に就く。1900年、パリ万博に「子守」を出品し金牌受賞。1914年、東京美術学校より大阪府立職工学校に出向した。1930年、勲六等瑞宝章受賞。1931年、同校を退職した。1936年、大阪・守口市に移る。
 作品に、「普賢菩薩像」(1930年、四天王寺)、「楠木正行像」(19372年、飯盛山)、「芭蕉像」(1957年、「高野山普賢院)、「菅原道真像」(1958年、福岡・水田天満宮)などがある。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 碑文、「山科本願寺と蓮如コース参加者用資料」


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石碑、碑文板も残されていない。

庭園跡の石橋

【参照】蓮如上人銅像、地域の方提供

【参照】蓮如上人銅像
map  蓮如上人銅像跡 〒607-8344 京都市山科区西野大手先町  
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