長円寺(長圓寺) (京都市伏見区)
Choen-ji Temple

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「戊辰役東軍戦死者慰霊碑」


「戊辰役東軍戦死者慰霊碑」、「子爵 榎本武揚 書」と刻まれている。


本堂
 淀新町の長円寺(ちょうえんじ)は、正式には壽豊山観音院長円寺という。
 幕末ゆかりの寺として知られる。鳥羽・伏見の戦いでは幕府軍の野戦病院になった。山門脇に榎本武揚書の「戊辰役東軍戦死者慰霊碑」が立つ。
 浄土宗、本尊は阿弥陀如来。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 江戸時代、1750年頃、正月16日、7月16日の縁日について記されている。鉦盤を鳴らし、高張提灯が下げられ、商人により店が出された。(「淀真砂子」)
 1863年、長州藩・急進派公卿を朝廷から追放された八月一八日の政変で、長州藩は途中で当寺の足立観音にも参詣したという。 
 近代、1868年、鳥羽・伏見の戦いでは、長円寺が幕府軍(幕府、会津藩、新撰組)の野戦病院になり、負傷者、戦死者が運び込まれた。 
 1907年、榎本武揚書により「戊辰役東軍戦死者慰霊碑」が立てられる。
 1913年、幕軍歩兵指図役頭取・森田貫輔の首級が改葬される。
◆森田貫輔 江戸時代末の幕軍・森田貫輔(?-1868)。幕軍歩兵指図役頭取。1868年、鳥羽・伏見の戦いの八幡の戦いで負傷し、久修園院(枚方市楠葉中之芝)で自刃する。部下2人が介錯した。首級は家臣により本堂傍らに埋められた。1913年、長円寺に改葬される。24歳。
閻魔王 閻魔堂に閻魔王、脇侍に俱生神が祀られている。閻魔王は新撰組、幕府軍にも拝されたという。
 1868年の鳥羽・伏見の戦いで、政府軍が幕府軍の野戦病院になった当寺を攻撃できなかったのは、閻魔王の守護があったためという。
◆観音堂 観音堂には、足立観音が安置されている。八幡大菩薩の化身とされる。和気清麻呂(わけ の きよまろ、733-799)の夢に顕れたという。清麻呂の傷を治したため、足腰治癒、健康祈願の信仰を集める。年に一度だけ開帳される。
 1863年の八月一八日の政変で、京都を追われた長州藩は、途中で足立観音にも参詣したという。1868年の鳥羽・伏見の戦いでは、長州藩を含む政府軍が幕府軍の野戦病院になった当寺を攻撃できなかった。足立観音(八幡大菩薩)の恩に背くことを恐れたためという。
 観音堂に幕府軍戦死者の位牌が祀られている。
◆守護閻魔刀 「和泉守兼定(いずみのかみ かねさだ)・脇差」が、「守護閻魔刀」として奉納されている。江戸時代の会津藩の刀工・和泉守兼定(会津兼定)(1837-1903)の作による。1868年の鳥羽・伏見の戦いで、幕府軍、会津藩、新選組・土方歳三は「和泉守兼定・太刀」を使用した。その和泉守兼定の兄弟刀という。
 「國廣」は、安土・桃山時代の刀工・堀川国広(1531-1614)の作といわれる。守護閻魔刀として奉納された。別の刀匠による希望銘ともいう。土方歳三も鳥羽・伏見の戦いで、希望銘の国広を使用していたという。
◆鳥羽・伏見の戦い
 1868年の鳥羽・伏見の戦いは、1月3日に始まる。1月5日、淀千両松の戦いが起きる。幕府軍の布陣に対して政府軍が攻撃した。幕府軍は西に敗走する。幕府軍は、態勢を整えるために淀城入城を拒まれ、さらに西の男山方面に撤退した。
 途中、負傷者は孫橋より南に分かれ、長円寺に向かった。寺で手当てを受けた。戦死者の遺体も運び込まれ供養が行われた。門前の道は流血しながら歩く負傷者の姿が見られたという。
 新撰組副長・土方歳三(1835-1869)は、幕臣・榎本武揚(1836-1908)に対して、長円寺が幕府軍を助けた寺であると語ったという。武揚は、1907年に当寺の山門脇に書し「戊辰役東軍戦死者慰霊碑」を立てた。
◆文化財 鳥羽・伏見の戦いの際の銃弾跡とともに、使用された砲弾が残されている。
◆淀河津桜 門前の淀水路畔沿いは、近年、京都一早咲きの淀河津桜の名所になっている。
◆墓 戊辰役東軍戦死者埋骨地・戊辰役東軍供養墓、森田貫輔首級がある。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『長円寺の縁起』


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本堂

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閻魔堂、俱生神

閻魔堂、俱生神

刀剣朱印

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戊辰役東軍戦死者埋骨地

森田貫輔首級
map  長円寺 〒613-0906 京都市伏見区淀新町681  075-631-2467
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