粟田口大名号碑・日ノ岡宝塔 (京都市山科区)
Awataguchi-daimyogo-hi(Stone monument)
粟田口大名号碑・日ノ岡宝塔  粟田口大名号碑・日ノ岡宝塔
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粟田口大名号碑、


粟田口大名号碑、「弥」の字は上下に二分されている。さらに上の「阿弥」は縦に三分されている。下の部分は当初のものではなく、後に復元された。


粟田口大名号碑の裏面、「京津国道工事ニ於ケル犠牲者ノ為二」と刻まれている。碑は、上半分が縦に三分割、全体は横に二分割されており、修復の際にこれら4つの部分が結合された。


日ノ岡宝塔、題目碑



日ノ岡宝塔、碑の基壇には名号碑の一部が流用されている。「南無妙」の字が見えており、切断されていた日蓮宗関係の碑の一部を修復流用している。



巨大な日蓮像



旧東海道に敷設されていた車石が縁石として再利用されている。
 日ノ岡朝田町の三条通(府道143号線)北側に、「粟田口大名号碑(あわたぐち だいみょうごう ひ)」と呼ばれる巨大な石碑「六字名号石」が立てられている。 
◆歴史年表 江戸時代、1688年、北野・西光院が三条街道沿いの粟田口刑場(厨子奥村)に「南無阿弥陀仏」と刻まれた六字名号石碑を立てたという。(「比留田家文書」)
 1692年、ケンペルは、西光院の六字名号石碑について記している。(『江戸参府旅行日記』)
 1717年、木食僧・養阿は、京都の11無常所(六墓五三昧)を永代供養のために廻った。各所に名号碑を建立したという。九条山には、京都最大の粟田口刑場があり、この地に一丈六尺(4m)の特大の名号碑(粟田口大名号碑)を建立したという。(「安祥院文書」)
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、名号碑が切断され道路の溝蓋などに流用された。
 1933年、現在の粟田口大名号碑(「京津国道工事ニ於ケル犠牲者」碑)の上半分が、名号碑を流用し復元して立てられる。
 現代、1965年、名号碑の下半分も復元され立てられた。
◆養阿 江戸時代の木食僧・養阿(ようあ、1687?-1763)。丹波国桑田郡保津村の村上庄右衛門の子。木食正禅、木食養阿などとも称した。幼くして父を亡くし、京都銀座の手代を経て、24歳で泉涌寺・雲竜院の恵雄により出家、朋厚房正禅と名乗った。1711年、高野山に上り、木食恵昌に師事、五穀を断ち、木の実を食する木食行に入る。甲賀郡安養寺(現嶺南寺)、高野山で木食大戒を修めて大阿闍梨になる。信濃・善光寺、美濃・国一円を行脚した。七条大宮の梅香庵に住し、念仏聖として洛中洛外の無縁墓地を回り供養、名号碑を建立した。1719年、勧進により弥陀如来像を造立し真如堂に安置した。享保年間(1716-1736)、1720年とも、狸谷山不動院で入籠し木食行に入る。参詣者が絶えず、幕府の弾圧により五条坂に移る。1725年、安祥院を再興した。勧進により、1738年、日岡峠、1747年頃、渋谷街道の修築工事を行い、峠道の管理所、休憩所の梅香庵(木食寺)を建てた。1752年、松明殿稲荷神社に井戸を掘る。石橋の架設、寺社の敷石などの土木工事も行う。1741年、法橋上人位を授与され、養阿に改めた。安祥院で即身仏になり墓塔に納められた。 
◆粟田口大名号碑 「粟田口大名号碑」とは、石碑六字名号石であり、「南無阿弥陀仏」と刻まれている。
 江戸時代、京都の刑場近くに11か所の無常所(六墓五三昧)が存在した。「六墓」とは南無地蔵、大谷、西ノ土手、粟田口、西所河原、元三昧の6か所、「五三昧」とは千本、狐塚、阿弥陀ケ峰、中山、七条金光寺の5か所という。また、千本、狐塚、蓮台野、七条、金光寺ともいう。
 各所には無縁者か刑死人が葬られ、僧ですら避けるような地だったという。養阿は、寒夜を選び、3年かけて各所を念仏回向して廻った。1717年、永代供養のために、大谷を除く10か所に名号碑を建立した。九条山の粟田口には京都最大の粟田口刑場があった。養阿は、重罪人の霊を弔うために、花崗岩製の一丈六尺(4m)の特大の名号碑を立てた。(「安祥院文書」、1740年)
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、養阿の立てた名号碑は、中央部分を横に二分された。さらに上半分を縦に三分割された。四分割になった名号碑は、それぞれ道路の溝蓋などに流用されたという。かつて「南無阿弥陀仏木食正禅 粟田口寒念仏墓廻り回向 享保(1717年)二丁酉七月十五日」との刻銘があったという。その後、現在地に移され復元補修された。(京都石佛会、陵ケ岡自治町内会連合会の説明板)
 なお、名号碑の裏面には浄土宗総本山知恩院第83世・量誉信宏の撰書がある。碑文によると、名号碑は浄土宗西光院(上京区仁和寺街道御前東入)の中興開山・西隠法師が建立したものともいう。1717年、西隠は粟田口刑場で処刑された罪人の鎮魂のために、刑場傍にこの碑を立てたという。ただ、この名号碑は、1688年、西光院が三条街道沿いの粟田口刑場(厨子奥村)に立てた六字名号石碑を指すとみられる。(「比留田家文書」)。1692年、ケンペルは、この名号石碑について記している。(「江戸参府旅行日記」)。1717年に立てられたのは、養阿の名号碑とみられる。
 碑文によれば、1933年、京都大津間国道改修工事に際し、碑は、粟田口から現在地に移された。この際に、下半分が欠損し、上半分も縦に三分割されていた。量誉信宏が復元を発願し、「西隠法師の遺徳を偲び顕彰」するために立てたという。1965年に下半分も復元され立てられたという。
 現存する名号碑は、養阿の立てたものとみられ、後に復元して立てられた。養阿の名号碑が、現在地に当初から立てられていたのか、後にほかより移されたのかは不明。
◆日ノ岡宝塔 粟田口大名号碑に隣接して「日ノ岡宝塔(南無妙法蓮華経)」と巨大な「日蓮像」が立つ。
 碑文によると、平安時代-近代まで、粟田口刑場で処刑された罪人の数は15000人以上にのぼるという。その供養のために仏教諸宗により、罪人1000人につき1基ずつ、合計15基の供養塔が建立された。
 近代、粟田口刑場の廃止にともない、廃仏毀釈により碑は破却された。1939年、旅館「法華倶楽部」の創設者・小島愛之助により、供養のために現在の宝塔が立てられたという。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 碑文、『京都府の歴史散歩 中』『史料京都の歴史11 山科区』『京都市の地名』『車石-江戸時代の街道整備』『洛東探訪』、サイト「木食正禅上人と阿弥陀如来露仏-境内霊譚奇談集Ⅸ」『京都大知典』『京都の自然ふしぎ見聞録』『洛東探訪』


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粟田口大名号碑 〒607-8422 京都市山科区御陵封ジ山町7-236 京都市山科区日ノ岡朝田町   
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