逢坂・逢坂山・逢坂関跡 (滋賀県大津市)
Osaka,the Osaka Barrier
逢坂・逢坂山 逢坂・逢坂山 
50音索引  Home 50音索引  Home

逢坂関付近、現在は幹線の国道1号線が通っている。奥が大津市側になる。旧峠道に較べて、道の切り下げ・拡張工事が行われており、旧街道の面影はない。


「逢坂山関跡」の石碑(右)、「逢坂常夜燈」




逢坂関付近の、説明板より

伊勢参宮名所図会(1797)、説明板より。逢坂関付近の道の端(手前)に車石を使って峠を登る牛に牽かれた大八車、道の中央に旅人、商人、右手に人馬などが描かれている。


逢坂関の車石、説明板より。


逢坂山、右下に国道1号線が通っている。


逢坂山山頂、奥は三井寺に続く峠道


清少納言「夜をこめて鳥の空音(そらね)は謀(はか)るともよに逢坂(あふさか)の関は許さじ」の歌碑


三条右大臣に、「名にしおはば 逢坂山の さねかづら 人に知られて 来るよしもがな」の歌碑
 京阪電鉄大谷駅の東、国道1号沿いの峠付近に、「逢坂山関跡(おうさかやまのせきあと)」の大きな石碑、常夜塔が立つ。
 峠の北に位置する逢坂山(325m)は、関山、手向け山とも呼ばれた。南には音羽山(593.2m)に連なる峰々がある。
 逢坂関(おうさかのせき)は、山城国と近江国の国境にあり、逢坂越とも呼ばれた。逢坂関には、東海道、東山道(後の中山道)、北陸道より国内最大の貨客が集まった。京の玄関口に当たり、東海道の大津宿、札の辻より峠越により三条通に通じていた。軍事的な要所でもあった。
◆歴史年表 古墳時代、200年頃、14代・仲哀天皇没後、竹内宿禰は、忍熊王(おしくまおう)らの反乱を逢坂で鎮圧する。「精兵を出して追ふ。適に逢坂に遇ひて破る」とある。(『日本書紀』)。逢坂の地名の始まりともいう。
 飛鳥時代、646年、畿内北境として「狭狭波(ささなみ)の合坂山(おうさかやま)」を定めたという。(『日本書紀』)
 古代(奈良時代-平安時代)、この地は、東北、北陸への交通の要衝地として知られた。
 平安時代、795年、「廃近江国相坂剗(おうさかのせん)」と記されている。(『日本紀略』)。関の前身になる施設が置かれた。この年、一旦、関が廃絶されたともいう。
 810年、平城太上天皇の変(薬子の変)に際して、「伊勢、近江、美濃等三国府并故関」とある。(『日本後記』)。平安時代中期には、平安京防備の「三関(さんかん/さんせき)」と呼ばれ、北陸道の越前・愛発(あらち)関に代わり逢坂関、ほかに伊勢・鈴鹿関、美濃・不破(ふわ)関が知られた。
 857年、上請により、逢坂関が復活する。近江国の大石、龍花にも関が設けられた。
 895年、太政官符で「五位以上及孫王」が畿内を出ることを禁じ、会坂関を畿内の東端とした。
 970年、藤原道綱母が逢坂越をする。逢坂で休息している。(『蜻蛉日記』)
 996年、父・藤原為時の越前下向に紫式部は従う。粟田口、山科、逢坂山を越え、大津・打出浜に向かう。
 1000年、少将・藤原成房は、延暦寺の帰路に逢坂山を越えた。(『権記』)
 南北朝時代以降、関は園城寺が支配し、関銭が徴収されていた。
 1367年、園城寺の衆徒が南禅寺所轄の関を破却する。侍所頭人・今川貞世は、逢坂関、四宮川原関、松坂峠関を焼払う。(『師守記』)。その後、逢坂関は再設された。
 室町時代、1418年、足利義持が伊勢神宮を参詣した際に、逢坂関を通過した。
 1460年、伊勢神宮造替のために大津に新関が設けられ、大谷・逢坂の両関が一時廃される。(『三井続燈記』)
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、峠道の掘り下げ普請が行われる。
 近代、1931-1933年、京津国道(現在の国道1号線)の改良工事が行われる。逢坂峠付近は4m切り下げ、拡幅11mになる。日ノ岡付近も切り下げられ、大谷駅は移転になる。
 1932年、現在の「逢坂山関跡」碑が立てられる。
 現代、2009年、現在の「逢坂の関記念公園」が完成した。
◆逢坂 逢坂は、「合坂」(『日本書紀』)、「相坂」(『万葉集』)、「会坂」とも書かれた。
 本来の「逢坂」の意味は、「あふさか」であり、「人が坂に出合う」の意という。また、「二つの坂が出合う」場所として峠も意味した。古墳時代-弥生時代はこの「人が坂に出会う」だった。200年頃、14代・仲哀天皇没後、竹内宿禰は、忍熊王(おしくまおう)らの反乱を逢坂で鎮圧した。この時、両軍勢が出会った坂が逢坂だったという。その後、平安時代以降は、「人と人が出合う」意味に変わっていく。
 なお、現在地付近に関所があったかどうかは不明とされている。実際には、現在地の北東の地点、関蝉丸神社上社(大津市逢坂2丁目)から関寺(大津市逢坂2丁目、現在の長安寺付近)の境内にかけて置かれたともいう。(『更級日記』『石山寺縁起』)
 逢坂は「追分(おいわけ)」とも呼ばれた。逢坂の関の西寄に「追分町(おいわけちょう)」(大津市)の町名が残されている。この「追分」とは「追ひ、分く」とされ、街道の分岐点を意味した。
◆逢坂山・土産物 近世、東海道の整備により、大津などの港(関)は物資の集散地になる。北国より荷揚げされた米は、逢坂山を越えて京都に運ばれた。牛に牽かれた大八車には、米俵9俵が積まれ、車石を利用して峠を越えていた。峠には坂仲仕がおり、積荷の内2俵の運搬を担い大八車の峠越えを助けた。
 江戸時代の『東海道名所図会」(1797)によれば、逢坂山付近の土産物として、大津絵、算盤(そろばん)、縫い針(大津針)などが売られていた。また、名泉「走井」、峠の茶店で出されていた「走井餅」も名物になった。(歌川(安藤)広重「東海道五十三次」)
 大津絵は、17世紀(1601-1700)前期、旅人の土産物として売られた。旅人は無事に帰郷すると仏壇に掛けて拝んだ。仏画を起源とし、地蔵、不動尊、阿弥陀三尊などが描かれた。元禄年間(1688-1704)、松尾芭蕉は大津・源氏庵に隠遁し、「大津絵の筆のはじめは何仏」と詠んでいる。その後、浮世絵、浄瑠璃などの影響を受け、次第に社会風刺なども描かれた。代表的な「鬼の念仏」は、僧衣の鬼が描かれ、慈悲心の衣の下に鬼心が隠されていると戒めている。近松門左衛門の「傾城反魂香」(1708)により全国に知られた。
 大津算盤は、江戸時代、1612年に一里塚町(大津市大谷町西側)の片岡庄兵衛が、長崎で明の算盤を手に入れ改良を加えたものという。
 大津針は、「大谷の虎屋針」が知られた。ほかに、「追分池川針」、「みすや針」があった。
◆文学  「逢坂の関」は、「逢ふ」の意味を踏まえて歌枕として多くの歌に詠まれた。
 紀貫之(868頃-945)に、「逢坂の関の清水に影見えて今やひくらむ望月の駒」(『拾遺集』)。
 三条右大臣(藤原定方、873-932)に、「名にし負はば逢坂山のさねかづら人に知られで来るよしもがな」(『後撰集』、小倉百人一首25番)。 
 清少納言(966頃-1025年頃)に、「夜をこめて鳥の空音ははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ」(『後拾遺集』、小倉百人一首62番)。 
 蝉丸(生没年不詳)に、「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」(『後撰集』、1089年、小倉百人一首10番)などがある。
 平安時代、970年、夏の日に藤原道綱母は唐崎より逢坂越を越えた。逢坂で休息し、走井で手足を冷やし涼を取る。(『蜻蛉日記』)
 清少納言の『枕草子』(996-1008)の「関は」の段に、「合坂、須磨の関、鈴鹿の関」と筆頭に書かれている。
 紫式部の『源氏物語』(1008頃)の第16帖「関屋」巻では、常陸介と東国に下った空蝉と石山詣の途中の光源氏が逢坂関で再会する。第10帖「賢木」巻では、斎宮下向の日に、思いを募らせた光源氏が娘とともに伊勢へ下る六条御息所に歌を贈る。「またの日関のあなたよりぞ御返しある」。
  

*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 説明板、『京都滋賀で古代地名を歩く』『京都の地名検証』『京都の地名検証 3』『京の古道を歩く』『京への道』『京都大事典』『紫式部と平安の都』


  関連・周辺蝉丸神社(大津市)      関連・周辺月心寺・走井(大津市)      関連・周辺車石・車道・日岡峠       関連・周辺牛尾観音(法厳寺)・音羽山      周辺      関連園城寺(三井寺)(大津市)      

蝉丸に「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」の歌碑

大津絵「鬼の念仏」、説明板より。

大津算盤(一番下)、ほかは算盤製作のための道具類、小島一馬家蔵、説明板より。

大津針を販売する店の看板小島一馬家蔵、説明板より。

逢坂関の峠前にある大谷町の町並

大谷町の町名

【参照】大津市追分町
平安京オーバレイマップ
map  逢坂 大津市大谷町22 
50音索引  Home  top 50音索引  Home  top
 © 2006- Kyotofukoh,京都風光