本能寺跡・本能寺の変 (京都市中京区)
ruins of Honnou-ji Temple
本能寺跡・本能寺の変 本能寺跡・本能寺の変 
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本能寺跡の石標


本能寺跡の石碑


参考資料 『京都・観光文化 時代MAP』
 中京区の元本能寺南町(もとほんのうじ みなみちょう)に、「此付近 本能寺(ほんのうじ)址」の石標が立つ。かつて、この地に一時は本能寺があり、本能寺の変の舞台にもなった。その後、寺は現在地(上京区)に移された。
◆歴史年表 室町時代、1415年、宗祖・日隆(にちりゅう)により建立された。当初は、油小路高辻と五条坊門の間付近にあり、本応寺(ほんのうじ)と号した。日隆は、妙本寺(妙顕寺)の月明と袂を分かつ。妙本寺宗徒により寺はすぐに破却された。
 1429年、日隆は、豪商・小袖屋宗句の帰依により、内野の町端(上京区)に本応寺を再建する。(『両山歴譜』)
 1423年、1433年、1434年とも、日隆は、信者・如意王丸の発願により、六角大宮(中京区、六角通以南、四条坊門以北、櫛笥以東、大宮通以西)に移転し、本能寺と改称する。
 1536年、二十一本山を焼き討ちした「天文法華の乱」で、本能寺は2万の兵で四条口を守る。だが、伽藍焼失した。(『西山歴譜』)。その後、堺・顕本寺に逃れる。
 1542年、第105代・後奈良天皇の綸旨により堺よりの帰洛を許される。
 1545年、8世伏見宮・日承により、四条西洞院に移転再興される。壮大な堂宇を誇る。寺には堀と土塁が築かれ、内部に七堂伽藍、厩屋、数多くの子院が建ち並び、防御機能を持つ城郭構造を有していた。
 1547年、1548年とも、延暦寺との和議が成立し、第8世・日承により、四条坊門西洞院に再興された。広大な寺域を占め、織田信長の仮宿所になる。
 安土・桃山時代、1580年、本堂改築により、堀、土居、石垣、厩が新設になり、城塞として修築される。信長の宿所にするためだったという。
 1581年、イエズス会のヴァリニアーノは、オルガンチーノ、フロイスとともに本能寺の信長を訪ねた。
 1582年、明智光秀による本能寺の変で、自刃した織田信長とともに寺は焼失する。織田信長三男・信孝は、本能寺を信長の墓所とする書状を送り、廟所を造る。(『信長公記』『日本史』)
 1587年、同地に再建されるが、上棟式の当日、豊臣秀吉の都市計画により現在地(上京区寺町御池)への移転を命じられる。
 現代、2007年、旧本能寺跡の発掘調査により、焼けた軒丸瓦が大量に発掘された。寺の堀には、堅固な石垣が積まれていたことが判明した。
◆日隆 南北朝時代-室町時代の日蓮宗の僧・日隆(にちりゅう、1385-1464)。越中国に生まれた。越中国・遠成寺、1402年、京都・妙本寺(妙顕寺)の日霽(にっせい)に師事、当初は慶林房(桂林坊)日立と称した。伯父・日存、日道に学ぶ。1405年、師没後、後継の月明と対立し独立した。五条坊門西洞院・日像堂に拠り、本応寺を二度建立し、月明に破却されたという。1415年、越中・元成寺、1420年、尼崎・本興寺、1421年越前・本勝寺を建立、1429年、京都内野に本応寺を建立、1423年(1433年、1434年とも)六角大宮に移し本能寺と改めた。1454年本興寺に勧学院を開く。八品派(法華宗本門流・本門法華宗)の祖。本興寺に墓がある。
 日隆は本勝迹劣の義を説き、本門法華宗を興した。本能寺、本興寺両山一寺の体制を築く。学僧であり『法華天台両宗勝劣抄』など著述が多い。弟子の日典、日良は、種子島・屋久島・永良部島に末寺を建立した。種子島で、伝来していた鉄砲を本土へ持ち込むことに本能寺の関与があったという。
◆織田信長 室町時代-安土・桃山時代の武将・織田信長(おだ のぶなが、1534-1582)。尾張に生まれた。父は守護代家老・織田信秀、母は土田御前。幼い頃は「大うつけ」といわれた。1551年、父没後、家督を継ぐ。1559年、尾張国を統一、京都の室町通上京裏辻(裏築地町付近)で足利義輝に謁見した。1560年、桶狭間の戦で今川を討つ。1567年、美濃国平定、1568年、足利義昭を岐阜に迎え入れ、軍4-6万人で上洛した。義昭の将軍職就任を助け、二条御所の造営を行う。1569年、三好三人衆の反乱を鎮圧する。イエズス会・フロイスの京都往還を許す。軍資金提供を要求し拒否した自治都市・堺を攻める。一町切りの連座制を強いた。1570年、姉川の戦で浅井・朝倉を破る。1571年、浅井らに与した延暦寺を焼き討ちした。1573年、将軍義昭を追放し室町幕府を滅ぼす。信長に抗したため示威により上京を焼いた。1575年、長篠の戦で徳川家康と連合し武田を破る。1576年、拠点になる安土城を築く。1580年、石山本願寺(大坂本願寺)と和睦、中国の毛利氏攻略に動く。1582年、家臣・明智光秀に討たれ本能寺で自害した。(本能寺の変)
 戦で鉄砲を初めて実戦使用した。検地、関所廃止、楽市・楽座の制を整える。キリスト教を保護した。墓は本能寺に「惣見院殿贈大相国一品泰巌尊儀」としてある。阿弥陀寺にもあり、建勲神社には信長を祀る。
◆明智光秀 安土・桃山時代の武将・明智光秀(あけち みつひで、1528?-1582)。美濃の土岐一族とされる。越前の朝倉義景、織田信長に仕え、足利義昭にも奉仕した。1568年、信長入京にも関わる。信長と義昭対立の際にも斡旋した。1570年、信長の摂津、近江の出陣以来、各所での戦に関わる。1571年、信長により坂本城を与えられる。1575年、九州の名族惟任姓と日向守を与えられた。1575年、信長に丹波攻略を命じられ、口丹波、亀山、八木、山国を攻略一国支配を認められた。1580年、備中、1581年、因幡鳥取城攻撃の秀吉を助ける。1582年、信長の命による中国攻略中の秀吉支援に反した。1万3000の明智軍は備中に向かわず、亀山城から老ノ坂を経て本能寺を急襲した。信長は自刃、二条御所の信忠も自滅させた。取って返した秀吉との山崎の合戦に敗れ、一旦勝竜寺城に入る。坂本に落ち延びる途中の小栗栖で土民の襲撃によって負傷し自刃したといわれる。
◆天文法華の乱 鎌倉時代末、日像(にちぞう)によってもたらされた法華宗(日蓮宗)は、洛中に本能寺を初め、本山だけで21か寺を数え、京都は「題目の巷」といわれるまでになった。だが、室町時代後期、比叡山延暦寺と対立し、次第に武装化する。
 1536年、山門・南近江の守護六角氏らによる21本山を焼き討ちした「天文法華の乱」も起きた。六角定頼以下近江の軍勢は、三条口・四条口を攻撃し洛中に乱入する。法華寺院と町衆が集住する下京は焼かれ、本能寺も焼失する。その後一時、堺の顕本寺に逃れた。
◆本能寺の変 本能寺の変の舞台になった本能寺は、この当時、北は錦通、南は六角通、東は西洞院通、西は油小路通に囲まれた2町四方(東西140m、南北270m)の境内を有していた。周囲に堀、土居があり、出入口に木戸も開き城塞の構えになっていた。
 光秀が本能寺の変を起こした原因については諸説ある。
 1582年、5月、光秀は安土城で徳川家康の饗応役を降ろされた。光秀は信長に急遽、中国出陣の羽柴秀吉軍の援軍を命じられる。このことが、光秀謀反の遠因の一つになったともいう。
 また、2014年に発見された「石谷(いしがい)家文書」から、光秀と懇意で信長と敵対していた四国の戦国大名・長宗我部元親の窮地を救うためだったともいう。光秀はかつて長宗我部に仕えた。長宗我部との交渉をしていた光秀が面目を失い、反旗を翻したとする。(「四国説」)。
 また、2014年に光秀の密書原本が見つかった。変直後の12日に、光秀が、紀伊雑賀衆で反信長派土豪・土橋重治に宛てた直筆書状だった。光秀は、信長に追放された15代将軍・足利義昭と通じ、室町幕府の再興を目指したという。変後、光秀は、頼みとした細川藤孝(幽斎)、筒井順慶らの協力を得られずに孤立する。長宗我部、毛利らの反信長勢力に奉じられた義昭により幕府再興を目指したともいう。(「義昭黒幕説」)。
 1582年、5月、明智光秀は安土城で徳川家康の饗応役を降ろされている。光秀は、信長に急遽、中国出陣の羽柴秀吉軍の援軍を命じられる。
 5月21日、信長の嫡男・信忠は、信濃より凱旋し、入洛、妙覚寺に宿泊した。
 5月26日、光秀は、中国出陣のためとして坂本城より丹波・亀山城に入る。
 5月29日、光秀は戦勝祈願のために愛宕山に登っている。
 5月28日、光秀は愛宕山で連歌会「愛宕百韻」を催し、意味深な「時は今天が下知る皐月かな」と発句した。
 5月29日、織田信長は、安土城より少数の供(十数人、150騎とも)とともに入京し、本能寺の宿所に入る。備中高松城を包囲していた秀吉の援護のためとも、朝廷工作、武器調達のためともされる。
 翌6月1日(この年の5月は小月)、信長は、本能寺に、公家、商人など有力者を招いて盛大な茶会を催す。安土城より38の名物茶器が運ばれ披露された。信忠も酒宴に加わり、京都所司代・村井貞勝らと歓談し、後に宿所の妙覚寺に戻る。信長は深夜に就寝した。光秀は、信長に中国出陣を命じられており、信長に軍勢を見せるとの名目で1万3000の軍とともに亀山城を出発した。
 6月2日、光秀は篠八幡で重臣を集め信長への謀反を告げたともいう。京都までの行程は5里(20km)あった。軍は、野条より3陣に分かれ、夜に進軍した。老ノ坂峠を越え、夜半に西国街道の分岐点である沓掛(くつかけ)で小休止後した。桂川畔に達し、渡河後、光秀は「敵は本能寺にあり」「出世は手柄次第」と全軍に告げた。軍は、旧西院街道を東行し、丹波口を過ぎて北行し、洛中に入る。また、北よりの明智峠から唐櫃峠を越えて入洛したともいう。
 6月2日、明智軍は南より進軍し、雨が上がりの黎明の頃(午前4時頃)、信長の眠る本能寺を包囲した。秀吉を始めとして織田軍団の諸侯は、京都を出払い各地で敵軍と対峙しており、京洛の警備は手薄になっていた。本能寺で寝入っていた信長に、森蘭丸が光秀の謀反を知らせた。信長は弓、槍を取って自ら戦う。だが、敵の槍を受けて傷を負い、奥の間に一人入り自決した、火を放ち焼かれたともいう。信長の遺骸は見つからなかったという。光秀の軍勢はさらに北に進み、信長の長男・信忠の宿所である妙覚寺を攻めた。信忠は、本能寺に向かうことができず、二条御所に立て籠もる。信忠は奮戦したものの自害した。
 光秀は近畿平定の間もなく、急遽、中国より引き返した秀吉との山崎の合戦で敗走中する。6月13日、光秀は土民により討たれた。
◆発掘調査 2007年の旧本能寺跡(西洞院六角下ル西側)の発掘調査により、寺の堀には、堅固な石垣が積まれていたことが判明した。織田信長が定宿としていた本能寺は、旧来指摘されていた無防備の状態だったのではなく、ある程度の防御機能も備えていたという。また、本能寺の変の際に焼けた瓦とみられるものも初めて見つかった。異字体の「䏻」と刻まれた軒瓦も発見されている。本能寺に焼失が多かった。「能」の字には二つ重なる「ヒ(火)」があるとして、あえて「去」に代えられた。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『朝鮮通信使と京都』『京都史跡事典』『京都古社寺辞典』『事典 日本の名僧』『京都府の歴史散歩 上』『京都時代MAP 安土桃山編』『京都・観光文化 時代MAP』『京都大事典』『あなたの知らない京都府の歴史』『京都の寺社505を歩く 上』『京都の近代化遺産』『京都 歴史案内』『京のキリシタン史跡を巡る 風は都から』『京の寺 不思議見聞録』


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