池田屋跡・池田屋事件跡 (京都市中京区)
ruins of Ikedaya Inn
池田屋跡・池田屋事件跡 池田屋跡・池田屋事件跡 
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「維新史跡池田屋騒動之址」の石標


金属プレート、三条通三条大橋西北側
 河原町三条東入る北側に「維新史跡 池田屋騒動之址(いしんいせき いけだやそうどう の あと)」の石標が立てられている。近くの歩道には金属製のプレートが埋め込まれている。
 幕末、ここに長州藩士の常宿「池田屋」があり、長州藩士、新撰組の間で死闘が繰り広げられた「池田屋事件」の舞台になった。
◆歴史年表 江戸時代末、1864年4月、新撰組は木屋町の火事現場で捕えた不審人物により、多数の長州人が京都に潜伏していることを知る。
 6月5日、早朝、新撰組は小道具商(薪炭商)の枡屋主人・古高俊太郎を捕えた。その自白により長州藩士のテロ計画が判明した
 6月5日、午後、新撰組は「旅客改め」のために壬生屯所を発した。
 6月5日、日没後、新撰組は八坂寺神社石段下の祇園町会所に集まる。
 6月5日、夕刻、池田屋で長州藩士、新撰組の死闘が始まる。
 6月6日、会津、桑名藩兵らとともに残党掃討が行われた。
◆池田屋事件 三条小橋の西、北側に旅籠旅館「池田屋」(中京区河原町三条東入ル)が建っていた。二階建で、間口7m、奥行30m、建坪300㎡の広さがあった。一階に4室、二階に7室の客室あり、主人は池田屋惣兵衛といった。
 1864年4月、新撰組は木屋町の火事現場で捕えた不審人物により、多数の長州人が京都に潜伏していることを知る。6月、新撰組は宮部鼎蔵の下僕を捕えている。6月5日、新撰組は小道具商(薪炭商)の枡屋主人・古高俊太郎を捕えた。新撰組は、屯所前川邸で古高に拷問を加え、その自白により長州のテロ計画が判明したとされる。長州は、風の激しい夜に御所に火をかけ、天皇を長州に連れて行くというものだった。店内からは大量の武器、火薬、書簡類も発見された。
 6月5日当日の夜は、祇園祭の宵々山だった。新撰組30人は「旅客改め」のために壬生屯所を発し、日没頃に八坂寺神社石段下の祇園町会所に集まった。近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助ら新撰組7人(5人とも)が長州藩士の定宿「池田屋」に向かう。会津藩、京都奉行所の応援を待たずに「池田屋」を急襲した。土方歳三ら25人は「四国屋」へ向かっている。
 「池田屋」には、古高逮捕後の対応を打ち合わせるために、長州藩士など30数人が集まっていた。両者の暗闘は2時間に及ぶ。新撰組は、長州、土佐藩、肥後藩などの尊皇攘夷派らの会合を鎮圧した。志士の肥後・宮部鼎蔵、土佐・北添佶麿、長州・吉田稔麿、大高又次郎らが殺され、10数人が捕縛された。土方らは戦闘の1時間後に駆けつけ、その後、守護職と所司代3000人も加わった。新撰組は、奥沢英助が斬られている。翌日、会津、桑名藩兵らとともに残党掃討が行われた。
 事件当日、桂小五郎は「池田屋」での会合に出席予定だった。事件前に「池田屋」の裏手にある対馬藩別邸に移り難を逃れた。事件時、池田屋惣兵衛は逃れる。その後出頭し捕縛、獄中で病死した。旅館の器物などは没収され、営業停止になり、廃業している。 
幕末京都の推移 1853年、アメリカのペリーは浦賀に来航する。1854年、「日米和親条約」が締結され、下田、箱館が開港になる。1856年、初代領事・ハリスが着任し、1857年、13代将軍・徳川家定に謁見した。幕府は、通商条約締結のために、老中・堀田正睦を上洛させ、第121代・孝明天皇の勅許を得ようとした。だが、天皇は尊攘論者であり、多くの公卿も反対したため勅許は得られなかった。
 将軍・家定に後継はなく、次期将軍候補をめぐる対立も起きた。一橋慶喜派の徳川斉昭、紀伊慶福(家茂)派の井伊直弼が拮抗する。1858年に直弼は大老になり、慶福を14代将軍に内定させ、一橋派を弾圧した。日米修好通商条約は勅許がないままに調印する。1858年-1859年、直弼は安政の大獄により尊攘派を弾圧する。1860年、直弼は桜田門外の変で暗殺された。幕府は、起死回生のために朝廷に攘夷決行と引き換えに、天皇の妹・和宮を家茂に嫁がせる「公武一体」を謀る。
 京都の治安は悪化しており、尊攘派と鎮撫派の対立が激化していた。1862年、洛中で寺田屋事件が起こり、天誅が頻発したため、幕府は京都守護職を置き、会津藩主・松平容保が任じられた。1863年、家茂入洛時には、将軍家警固のために浪士隊が組織された。だが、尊攘派の清河八郎と近藤勇の対立が起こる。京都に残留した勇らは京都守護職預かりになり、新たに壬生組を組織した。
 長州藩、公卿・三条実美らは、王政復古を企て幕府を揺るがす。これに対して公武合体派の会津藩、薩摩藩は、1863年に武力クーデタ「八・一八の政変」を起こした。公武合体派は巻き返しのために御所を固め、御所の堺町御門を警備していた長州藩を解任、代わりに新選組が名をもらい任に着いた。さらに、長州藩の京都からの退出、関与した公卿の謹慎を命じた。妙法院に集まった長州藩士、7人の公卿は、長州へと向かう。(「七卿落ち」)。以後、公武合体派は、新撰組、見廻組による浪士狩りを行い京都の治安強化を行う。
 1864年、6月、池田屋事件が起こる。7月、長州藩の武力による復権を唱える来島又兵衛、久坂玄瑞らは、御所の蛤御門、中立売御門、堺町御門などを攻め、会津藩、薩摩藩、桑名藩兵と戦闘になる。だが、長州藩は敗北する。(「蛤御門の変(禁門の変)」)。この後、洛中は3日間にわたる大火(「どんどん焼け」)になる。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 *参考文献 『幕末京都 新選組と龍馬たち』『新選組大事典』『新撰組辞典』『新選組大事典』『新選組と幕末の京都』『京都・観光文化 時代MAP』『京都歩きの愉しみ』『あなたの知らない京都府の歴史』


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map 「池田屋騒動之址」の石標 〒604-8004 京都市中京区中島町82

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