近江屋跡・近江屋事件跡 (京都市中京区)
ruins of Omiya Inn
近江屋跡・近江屋事件跡 近江屋跡・近江屋事件跡 
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坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地」の石標


参考 『京都・観光文化 時代MAP』
 繁華街の塩屋町、河原町通の西側に「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地」の石標が立てられている。かつて、この付近に醤油商「近江屋」があり、坂本龍馬、中岡慎太郎が暗殺された「近江屋事件」の現場になった。
◆歴史年表 江戸時代末、1867年、11月14日まで、坂本龍馬は「近江屋」裏手の土蔵二階に隠れ潜む。
 11月15日、龍馬は「近江屋」の母屋に移る。夜半、龍馬と慎太郎は、「近江屋」で刺客により暗殺される。  
 11月17日、夜、龍馬、慎太郎ら3人の葬儀が行われている。
◆坂本龍馬 幕末の尊攘派志士・坂本龍馬(さかもと りょうま、1835-1867)。土佐藩郷士・坂本長兵衛の次男。1853年、江戸・千葉道場に剣術修行に出る。1849年、ペリー来航後、脱藩と帰藩を繰り返す。1854年、画家・河田小龍から西洋事情を学ぶ。1856年、再び千葉道場に遊学する。1861年、土佐勤王党に加盟。1862年、脱藩、勝海舟の弟子になる。1864年、再脱藩、神戸海軍操練所創設、1865年、薩摩藩の援助の下で長崎で株式会社の先駆になる亀山社中を設立した。1866年、薩長同盟に尽力する。寺田屋で襲われる。1867年、亀山社中を海援隊と改めた。大政奉還を原案とする「船中八策」を策定した。近江屋で中岡慎太郎とともに暗殺される。32歳。
◆中岡慎太郎 幕末の尊攘派志士・中岡慎太郎(なかおか しんたろう、1836-1867)。土佐藩郷士・庄屋中岡小伝次の子。1855年、武市瑞山の道場に入門し坂本龍馬を知る。1861年、土佐勤王党の血盟文に署名。1862年、五十人組結成に参加、江戸で山内豊信の警護に当たる。1863年、帰郷、尊攘派の弾圧により脱藩、長州で三条実美らの護衛に当たる。1864年、上洛、長州軍として禁門の変に参加するが敗れ、長州藩に逃れ忠勇隊隊長となる。以来、各所で薩長の和解に尽力する。1867年、脱藩の罪を許され、土佐藩より陸援隊隊長に任命される。同年、薩土盟約締結に立ち合う。中岡は三条実美と岩倉具視、西郷隆盛と高杉晋作を連携させた。龍馬とともに近江屋で襲われ負傷、その後亡くなる。30歳。
◆近江屋事件 坂本龍馬は、旅籠「池田屋」に投宿していた。桂小五郎、伊東甲子太郎らは、龍馬の命を狙う者があるとして、警護を強化するように忠告した。その後、龍馬は「酢屋」と、河原町の醤油商「近江屋」の井口新助邸を行き来した。龍馬は、土佐藩邸に移ることも勧められていた。 
 1867年11月14日まで、龍馬は「近江屋」裏手の土蔵二階に隠れ潜んでいた。龍馬は、風邪をひいており、厠に立つのも難儀だとして、11月15日に「近江屋」の母屋に移る。午後3時、5時、龍馬は福岡孝弟(たかちか)の下宿(近江屋の3軒南隣)を訪ねている。夕方、慎太郎は、子・峰吉に薩摩藩の定宿「薩摩屋」に手紙を届けさせた。北白川の陸援隊屯所から慎太郎、峰吉、土佐藩目付役・岡本健三の3人が、「近江屋」の龍馬を訪ねる。夜半、龍馬と慎太郎は、「近江屋」二階で歓談した。龍馬、慎太郎は軍鶏(しゃも)鍋を食べることにして、峰吉を木屋町「鳥弥三(鳥新)」に使いに走らせた。健三も峰吉に同行する。
 その間に、階段を上ってきた者数人があった。「十津川郷士」を名乗る男たちは、下男とともに階段を上がってきた。龍馬と慎太郎は差し出された名刺を確かめる。その隙に、2人は突然に襲撃された。龍馬は、護身用の拳銃を撃つこともなく絶命した。この時、龍馬は日本刀「陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)」を携えていたという。また、石川(慎太郎の偽名)の刀を探して数度叫んだともいう。
 直後に、使いから戻ってきた峰吉が龍馬らの暗殺の知らせをして、土佐藩士・谷干城、陸戦隊・田中光顕らが「近江屋」に駆け付けた。その日は、奇しくも龍馬33歳の誕生日だった。負傷した慎太郎は、事件の2日後に亡くなる。下僕・藤吉も殺されている。
 「近江屋」には、海援隊、陸援隊、土佐藩士、薩摩藩士らが集った。11月17日の夜、3人の葬儀が行われ、遺骸は東山の霊明神社墓地に葬られた。
 刺客については、ほぼ定説として、京都見廻組・佐々木只三郎ら6人ともいわれている。また、幹部・今井信郎の維新後の供述により、見廻組の隊士7人によるともいう。このうち、2階には4人が上がったという。霊山歴史館に、見廻組・桂早之助が所持したという刀(42.1㎝)がある。龍馬を斬った刀とされ、屋内を想定し刀身が短い。ほかにも、新撰組・原田左之助、御陵衛士・伊藤甲子太郎、御陵衛士・斎藤一、薩摩藩士・中村半次郎、長州藩士、紀州藩士だったともいう。
 「近江屋」の位置は、現在の石標付近にあり、東西方向に細長い、鰻の寝床だった。西に土蔵、東に母屋があり、東端は旧河原町通2間(幅4m)に面していた。旧河原町通は狭く、現在の河原町通の東端にある歩道の幅に等しかった。「近江屋」の母屋は、現在の河原町通の道幅全域を占めていたとみられている。現在の石標の立つ位置は、「近江屋」の北側に位置し、西の土蔵と東の母屋のほぼ中間地点にあたる。実際の龍馬らの暗殺地点は、石標のやや南にあり、母屋の西端、北よりの付近だったとみられる。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『幕末京都 新選組と龍馬たち』『新選組大事典』『新撰組辞典』『新選組大事典』『新選組と幕末の京都』『京都・観光文化 時代MAP』『京都歩きの愉しみ』『あなたの知らない京都府の歴史』


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map  近江屋跡 〒604-8027 京都市中京区塩屋町(河原町通)330

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