信仰の小道・高山右近・イエズス会伏見教会  (京都市伏見区)
Path of Faith(Takayama Ukon)
信仰の小道 信仰の小道
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「信仰の小道」の整備された踏石、先は行き止まりになっている。


「信仰の小道」の整備された踏石


「信仰の小道」の瓦片



イエズス会伏見教会があった付近、現在は伏見南浜幼稚園、伏見南浜小学校が建つ。


中央付近に「高山右近」と記されている。(『豊公伏見城ノ図』)、説明板より。




【参照】長建寺にある「マリア燈籠」


【参照】長建寺にある「マリア燈籠」の「マリア像」

 伏見の月桂冠大倉記念館の東側駐車場の北東隅に、「信仰の小道(しんこうのこみち)」と呼ばれる径(幅2.4m、長さ10m)が残されている。
 北の松林院、南の伏見南浜幼稚園・伏見南浜小学校の間にあり、東側は行止りになっている。かつて、小学校付近にはイエズス会の伏見教会が建てられていた。一時は、キリシタン大名の高山右近も教会に通っていたという。
◆歴史年表 安土・桃山時代、1550年、フランシスコ・ザヴィエルは、京都に立ち寄っている。京都を離れる際には、伏見の鳥羽湊(伏見区下鳥羽)から出港した。以後、伏見での信仰が徐々に広まる。
 1600年頃、現在地、信仰の小道付近の東側に、高山右近の武家屋敷が描かれ「高山右近」と記されている。(『豊公伏見城ノ図』)。当時の右近は、加賀・前田家の客将としてお預けの身であり、伏見教会にも煩雑に訪れていたために記されたとみられる。
 1601年、フランシスコ会士・ヘロニモ・デ・ヘスス神父は、徳川家康より伏見に最初の土地を与えられる。ここに教会施設を建てた。(『1614年イエズス会年報』)。イエズス会士・オルガンティノ神父は、伏見の家康を訪ね、イエズス会の教会用地を懇請した。
 1602年、オルガンティノ神父は、伏見に教会を建設した。ジェロニモ・デ・アンジェリス神父により枝の主日(イエス・キリスト復活の1週間前の日曜日)に初ミサが行われる。(『1614年イエズス会年報』)
 江戸時代、1604年、イエズス会は、伏見の現在地付近に新たな、より広い土地を購入した。主任神父・アンジェリス神父により、イエズス会伏見教会が建てられる。名義は、高山右近の従兄弟・マルコ孫兵衛だった。教会は引き込んだ町屋に囲まれた場所にあり、外からは民家に見えたという。(『1614年イエズス会年報』)。
 1614年、キリシタン禁教令後、教会は破壊され焼き払われた。(『イエズス会年報』)。右近は、国外追放令になる。その後、小道は、御崇光太上天皇(ごすこうだいじょうてんのう、1372-1456)の伏見松林院陵の参道として残る。
 1637年、月桂冠大倉が創業している。
 近代、1909年、伏見教会敷地跡の現在地付近は、皇室財産の林野地を管理する帝室林野局により登記された。
 1910年、敷地跡は伏見町に所有移転された。小学校と幼稚園が移転した。
 昭和期(1925-1989)初期より以前、月桂冠側の通路より御陵に伸びる参道が存在した。その後、小学校、幼稚園への通用路として使用された。
 現代、2015年、現在地の敷地を所有する月桂冠が、「信仰の小道」を確認した。踏石、説明板などが整備される。
 2016年、バチカンのローマ法王庁が、高山右近を「福者」に認定した。
◆アンジェリス 安土・桃山時代-江戸時代の神父・ジェロニモ・デ・アンジェリス神父(?-1623)。詳細不明。1603年-1611年、イエズス会伏見教会の主任司祭になる。1623年、江戸の大殉教により、札の辻で火刑にされ殉教した。
◆高山右近 室町時代-江戸時代のキリシタン大名・高山右近(たかやま うこん、1552-1615)。摂津国高山生まれ。父は高山友照(図書、洗礼名ダリオ)の嫡男、母は洗礼名マリア。高山には多くのキリシタンが住んでいた。その後、父が大和・沢城主に任じられ榛原に移る。1564年、12歳で日本人のロレンソより洗礼を受け、洗礼名はユスト(ジェスト)。1568年、右近父子は和田惟政に仕え、摂津・芥川城を預かる。1570年、右近父子は高槻城の惟政家臣頭になる。1571年、白井河原の戦いで惟政が討死する。右近父子は馬塚、糖塚を守る。1573年、子・和田惟長と右近父子は対立し、惟長が暗殺を謀る。右近父子は荒木村重の支配下に入り、村重の命により惟長を討つ。右近も重傷を負う。父に譲られ、高槻城主になる。この頃、村重に茶道を指南され茶の湯を深めた。1574年、上洛したイエズス会上長・カブラルの教理を受けた。高槻に天主堂を建てる。摂津余野城主・黒田の娘・ジェスタと結婚する。1576年、京都・南蛮寺の建立に尽力した。領内でオルガンティーノ神父を招き復活祭が祝われた。1577年、領地高槻などで1年間に4000人の領民が洗礼を受けた。1578年、村重の信長への謀反により、当初、右近は村重への忠誠を示した。妹、長男を人質に出す。信長は右近に降伏を要求し、右近は高槻城を無血開城した。1579年、信長は右近に再び高槻城主を命じた。1580年、3階建ての安土セミナリオを建設する。1581年、巡察師・ヴァリニャーノを高槻に迎え、復活祭が行なわれる。1582年、本能寺の変で信長が倒れ、山崎の戦いで先鋒を務め、明智軍に対して戦功を成す。大徳寺での信長の葬儀に参列し、偶像崇拝に繋がるとして唯一人焼香をしなかったという。安土セミナリオを移し、高槻セミナリオを建てた。1583年、賤ヶ岳の合戦に豊臣秀吉方で出陣する。佐久間盛政に敗北した。大坂・南蛮寺建設に尽力する。1584年、小牧・長久手の戦い、1585年、根来征伐、四国征伐にも加わり武功をあげる。安土セミナリオを高槻に移し、大坂に教会を建てたともいう。明石に転封、明石教会を建設した。1586年、利休とともに秀吉に対して、堺・日比谷家一族助命の嘆願を行う。1587年、秀吉の九州征伐に加わる。秀吉はバテレン(伴天連)追放令を出し、右近にも棄教を迫り、利休を2度も遣わした。右近は拒否したため、領土を剥奪、追放され、博多湾の能古島、淡路島、小豆島に隠れる。1588年、肥後より、盟友の加賀藩・前田利家の招きにより金沢に移り、加賀藩預かりになる。1590年、小田原征伐に加わる。前田氏に従い、十字の旗指物を掲げ武功をあげた。1592年、文禄の役でも前田氏に従う。名護屋城に赴き、秀吉に謁見する。来日中のコエリヨ神父と茶会に招かれた。1597年、二十六聖人殉教では当初、右近の名もあった。石田三成の計らいにより削除された。1599年、金沢城を修復した。1600年、関ヶ原の戦いで利家に従い、大聖寺城を攻めた。三成について敗れる。1605年、金沢・南蛮寺を建てた。1608年、金沢でクリスマスを行う。1609年、前田利長の命で高岡城を築く。1612年、幕府はキリシタン禁教令を発布、1614年、右近の国外追放令が出された。一家は京都、坂本を経て、大坂より船で、長崎より内藤如安らとマニラに渡る。右近は殉教者として国を挙げて迎えられる。到着後40日ほどで熱病により没した
 茶号は「南坊」だった。師・利休のわび茶の精神に忠実であり、「貧しきものは幸いである。天国は汝のものなり」(『新約聖書 マタイ福音書』)を体現し「きれい茶」を求めた。千利休の七高弟(利休七哲)の一人に数えられる。1583年-1584年、右近の教化によりキリシタンになった武将には、秀吉側近・牧村政治、蒲生氏郷、黒田考高、瀬田左馬丞、柴山監物がいる。黒田以外は「七哲」に含まれている。右近は、最期まで師・利休に贈られた羽箒(はぼうき)を所持していたという。
 10日間の盛大な右近の葬儀がマニラ市により行われ、イエズス会聖堂に葬られた。現在もマニラの日比友好公園に像が立つ。2016年、バチカン(ローマ法王庁)は右近を「福者」に認定した。
◆マルコ孫兵衛 安土・桃山時代江戸時代のキリシタン町人・マルコ孫兵衛(生没年不詳)。詳細不明。片岡孫兵衛、伊兵衛、越前谷休庵。父は茶人・家柄町人・片岡休応、高山右近の義兄弟か従兄弟ともいう。妻・マリナは右近の姪ともいう。子・休嘉の妻は、内藤如庵の娘ともいう。
 1583年、前田利家の金沢城入城後、金沢に移る。1585年、金沢城に利家の接待により滞留した、豊臣秀吉の御茶道役を勤めた。その後、伏見に移る。1604年、イエズス会伏見教会の建立に際して、地所取得時の名義人になる。1614年、棄教勧告を拒否し、長崎に送られた。 
◆伏見教会 安土・桃山時代、1600年頃、現在地付近東に、高山右近の武家屋敷が2つあり「高山右近」(伏見区丹後町)、さらに「高山右近長房」(伏見区下三栖東ノ口町)と記されている。(『豊公伏見城ノ図』)。当時の右近は、加賀・前田家の客将預かりであり、伏見教会に度々訪れていたため、屋敷として記されたとみられる。
 イエズス会の伏見教会は、江戸時代、1604年に高山右近の従兄弟・マルコ孫兵衛の名義により、現在地付近に建てられた。為政者、周辺を刺激しないためだったとみられる。将軍の許可はなかったため、教会は隠されるようにして町屋に囲まれ、外部からは民家に見えたという。孫兵衛は、教舎の外側に住んだ。(『1614年イエズス会の報告書』)。1603年-1611年の主任司祭はアンジェリス神父だった。
 教会の位置は、現在の伏見南浜小学校、伏見南浜幼稚園、伏見松林院陵の西の一部を含む。周囲は町家で取り囲まれており、西側に通路(現在の信仰の小道付近)があった。教会は、1614年の禁教令により、しばらくして破壊、焼き払われた。右近は国外追放になっている。
◆マリア燈籠 近くの長建寺境内の北側には「マリア燈籠」が立つ。この燈籠と高山右近との関連は不明ながら、かつて、お茶屋「紅屋」の隠れ座敷の庭に立てられ、女将が大切に保存してきた。戦後になり、先代の住職により長建寺に移されたという。火袋の下の竿部に十字架のような膨らみがあり、棹の下部にマリア像らしきものが鮮明に肉彫りされている。この像の部分は、普段は土中に隠して埋められ、信者は密かに礼拝していたという。(公開)
 なお、高山右近の屋敷にあったという同様の燈籠が、松本酒造(伏見区)の庭に立てられている。笠の形状はやや異なっており、棹の下部には同様な像が彫られている。(非公開)


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『伏見の歴史と文化』、説明板、『裏千家今日庵歴代 第一巻 利休宗易』『キリシタン大名 高山右近の足跡を歩く』、サイト「キリシタン大名高山右近と京都伏見」


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