智積院 (京都市東山区)  
Chishaku-in Temple
智積院 智積院
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総門、江戸時代、御所、東福門院より移築したという。能化晋山時のみに開門される。


総門


総門


総門から大玄関に向かう。

総門


総門、寺紋の桔梗紋、加藤清正の家紋に因むという。





冠木門




冠木門


冠木門


狛犬



仏旗(ぶっき)、左より青、黄、赤、白、橙(樺)の配色になっている。青は仏陀の頭髪の色「定根」をあらわす。 黄は仏陀の身体の色「金剛」、赤は仏陀の血液の色「精進」、白は仏陀の歯の色「清浄」、 樺(橙)は仏陀の袈裟の色「忍辱」をあらわす。また、旗一番右の列には5色を上から順番に並べた縞模様があり、「輝き」をあらわす。




玄宥僧正像


仏足石






金堂、入母屋造、瓦屋根、1975年に再建。本尊・大日如来が安置されている。以前の建物は1705年に建立され、恵心僧都源信作の本尊が祀られていた。1882年に焼失している。


金堂、木鼻


金堂、蟇股


金堂、扁額「智積院」


金堂、内陣、鎌倉時代の釈迦如来坐像を安置する。


金堂釈迦如来坐像


金堂、密教法具、五鈷杵


金堂












桔梗、境内には数多く植えられている。


アジサイ


明王殿(不動堂)、1947年に焼失している。その後、江戸時代建立の大雲院本堂を移築し再建された。


明王殿(不動堂)、もとは大雲院(四条寺町)の本堂が移築され、講堂の場所にあった。1995年の講堂再建に伴い、現在地に移された。本尊は不動明王を安置。


明王殿


明王殿、本尊の不動明王坐像
 阿弥陀峰西麓、東山七条にある「学山智山」の智積院 (ちしゃくいん)は、根来寺(ねごろじ)智積院という。学僧多く輩出し、「学問所」「学山智山」とも呼ばれていた。現在も智山専修学院が山内にあり、学山の伝統が続く。山号は五百仏山(いおぶつさん)という。
 真言宗智山派(ちさんは)の総本山。本尊は大日如来。
 末寺は成田山新勝寺(千葉)、川崎大師平勝寺(神奈川)、高尾山薬王院(東京)、高幡山金剛寺(東京)、大須観音宝生院(名古屋)、出鶴山満願寺(栃木)など3000を数える。
 神仏霊場会第120番、京都第40番。不動明王(初七日)は京都十三仏霊場めぐり第1番。近畿三十六不動の一つ。知恵不動と呼ばれ、入試合格、家内安全、交通安全の信仰がある。御朱印(3種類)が授けられる。
◆歴史年表 平安時代、1132年、智積院の前身となる紀州岩手(いわで、岩出市)の真言宗根来(ねごろ)寺は、高野山に大伝法院の末寺として創建された。
 1140年、1130年とも、大伝法院方で真義真言宗宗祖・興教大師覚鑁(かくばん、1095-1143)が、金剛峯寺方の攻撃より逃れ、根来の豊福寺(ぶふくじ)に移住する。この地に、一乗山円明寺、神宮寺が建立される。
 鎌倉時代、1288年、頼瑜(らいゆ、1226-1304)と衆徒が根来に移住し、大伝法院、密厳院も移され、ここでも伝法大会を行う。金剛峯方と決別し、新義真言宗を別立した。
 1336年、北朝の足利尊氏を支援したため、高野山に押領されていた大伝法院寮を尊氏より安堵された。醍醐寺三宝院門跡賢俊が大伝法院座主を兼任する。
 1337年、尊氏より和泉国信達庄を寄進される。
 また、1392年以降、根来寺境内(円明寺境内三部大権現社東隣の小谷)に学頭・眞(真)憲房長盛が根来寺塔頭・智積院を建立したともいう。
 室町時代、1405年、大伝法堂が建立される。また、この頃、応永10年代(1403-1412)、根来寺智積院が建立されたともいう。また、高野山南谷にも、智積院という寺があった。智積院は、学頭院家といわれ、学頭の居する塔頭だった。
 室町時代以降、寺は荘園を拡大する。土豪の子弟で寺務に関わる行人(ぎょうにん)は次第に武力を蓄えていく。こうした根来衆は、戦国時代には、鉄砲衆による自治的な軍事組織になっていた。
 安土・桃山時代、1577年、智積院尭性(玄宥)が住持になる。
 1584年、秀吉と織田信雄・家康が戦った小牧・長久手の戦いでは、根来寺は家康側に加担し、秀吉の居城・大坂城攻略のため、岸和田城に侵攻している。
 1585年、秀吉と家康は和睦し、秀吉は10万の兵で根来寺に報復反攻し、堂宇の多くは焼失、行人、学侶も各地へ逃れた。智積院尭性(玄宥)は、高野山・清浄心院から京に入り、醍醐寺、高雄・神護寺へ移る。
 1591年、豊臣秀吉の長男棄君(鶴松)は、3歳で夭逝した。
 1593年頃、この地に、棄君(鶴松)の3回忌に冥福を祈り、菩提寺の祥雲禅寺(しょううんぜんじ、祥雲寺)が建立された。(「雍州府志」)。寺は、「東山第一」といわれ、初代には、石川豊前守の勧めにより妙心寺の南化玄興が就く。
 1598年、玄宥は、家康より寺領を受けて北野に移り、智積院を復興した。 
 1600年、関ヶ原の戦いの後、徳川家康は、秀吉建立の豊国神社(阿弥陀ヶ峯山麓)を破却し、祥雲禅寺も没収した。
 1602年、1601年とも、家康より豊国神社跡地、寺領、祈祷料を与えられた1世・玄宥が、北野からこの地に移って洛東智積院を建立した。豊臣秀吉が建立した豊国社、祥雲禅寺の建物、資材なども建立の部材に利用されたという。上寺に学徒の坊舎、下寺として講堂が建てられ、五百仏山根寺来智積院と呼ばれた。玄宥は、中興第一世能化となる。家康により寺領200石を寄進される。
 1603年、幕府より三か条の「智積院法度」が下される。
 江戸時代、1613年、幕府は「智積院法度」と寺領の朱印を与える。(「柳営禁令式」「智積院文書」)
 1615年、大坂夏の陣の後、豊臣家滅亡を受け、3世・日誉は、家康より秀吉建立の祥雲禅寺境内東半分、伽藍、豊国神社境内を与えられ、寺域を拡充する。寺名も、五百仏山根来寺智積院と改称している。
 1619年、日誉は徳川秀忠より大報恩寺養命坊(千本釈迦堂)を与えられ、智山能化の隠居所とする。
 1620年、500石に加増される。(『舜旧記』)。以後、江戸時代を通じて、宇治郡大鳳村の寺領は安堵される。(「京都御役所向大概覚書」)
 1661年、運敞が7世・能化に就く。以来、講学が隆盛になる。
 1667年、開山堂、密厳堂などの伽藍が建てられる。
 1673年、運敞堂が建てられる。
 1674年、智山庭園が完成した。
 1682年、祥雲寺遺構の方丈殿を焼失する。(『続史愚抄』)
 1683年、東福門院旧殿を贈られる。
 1685年、方丈殿が再建された。(「智積院文書」)
 元禄期(1688-1704)、最盛になり、学寮70数棟、数百の学徒が常住した。
 1692年、妙法院の三河山の地を借り、学寮が建てられる。
 1705年、桂昌院の寄付により、金堂が再建される。
 1708年、妙法院よりの借地が智積院所有となる。
 1710年、管谷の地を与えられた。
 1789年、大師堂が建立される。
 1817年、庫裏玄関が新築される。
 1851年、求聞堂が建立される。
 1862年、学寮は土州侯陣所になり、市中警護を行う。幕末期、土佐の山内容堂(1849-1859)が当院を宿舎として使った。
 近代、1869年、唯一残っていた祥雲寺遺構・勧学院が土佐藩の弾薬により爆発炎上する。
 1870年、1871年とも、上知令以後、寺領、境内地の4割(2万7000坪から1万6800坪へ)を失う。(『坊目誌』)
 1872年、新義真言宗の総本山になる。管長は高野山と交替制になる。
 1882年、金堂が焼失した。
 1892年、長谷川等伯筆「金屏風 松に秋草絵彩色模様」「金襖 松に萩秋草絵模様」など5点が盗難に遭う。
 1893年、佐伯隆基が44世・能化になる。
 1894年、隆基の寄付により宸殿が建立される。また、伽藍の改修、佐伯隆範などの尽力により末寺も3倍に増やした。小書院、居間書院が取り壊される。障壁画は宸殿に移される。
 1898年、豊臣秀吉三百年祭は盛大に催される。桃山城跡、太閤坦、豊国神社、妙法院、高台寺、耳塚、智積院などゆかりの社寺などで法要、献茶式、大茶会などが催された。
 1900年、真言宗各派独立し、「加持身説」の真義真言宗智山派の総本山となる。智山勧学院大学(大学林)が復興し、西田幾多郎、井上哲治郎をはじめとする講師陣が関わる。
 日露戦争(1904-1905)後、一時、ロシア兵捕虜の収容施設となる。のちに伏見俘虜収容所に移された。
 1925年、智山専門学校、智山専修学院が創立された。
 1929年、智山勧学院(大正大学と合併)が東京に移される。
 現代、1946年、真言宗智山派と改称している。
 1947年、方丈(仮本堂・講堂)、宸殿を焼失、大書院も半焼する。国宝障壁画の多くは運び出される。
 1949年、東京の智積院別院・真福寺宗務所を山内に移した。
 現代、1951年、明王殿が現在の講堂の付近に移される。
 1952年、本堂が再建される。本山が移転された。
 1958年、宸殿が再建される。
 1975年、金堂が再建された。
 1980年、かつて上知された境内地を京都市より買い戻す。
 1990年、明王殿が現在地に移される。
 1992年、祥雲寺客殿遺構(講堂付近)が発掘された。
 1995年、講堂(方丈殿)が再建された。
◆覚鑁 平安時代の僧・覚鑁(かくばん、1095-1144)。肥前藤津に生まれた。仁和寺成就院・寛助の灌頂を受ける。興福寺、東大寺で学ぶ。鳥羽上皇(第74代)の帰依により、高野山・大伝法院を開き再興する。院主と金剛峰寺座主を兼任する。観法、教育制度の伝法大会を確立した。1140年、対立した高野山の金剛峰寺方の衆徒に襲われ、根来山に逃れる。根来に学問寺の円明寺を建てた。
 浄土思想を取り入れ真言教学を再興した。諡号は興教大師。新義真言宗派の祖。
◆頼瑜 鎌倉時代の僧・頼瑜(らいゆ、1226-1304)。紀伊に生まれた。高野山大伝法院、仁和寺、醍醐寺を経て、大伝法院学頭になる。実勝から灌頂を受け、中性院(ちゅうしょういん)流を開く。金剛峯寺と対立し、1288年、大伝法院と密厳院を根来寺に移し、新義真言宗を別立てにした。
◆玄宥 室町時代-江戸時代の僧・智積院尭性(ちしゃくいん ぎょうしょう、1529-1605)。玄宥(げんゆう)。下野国に生まれた。7歳で宥日僧都の弟子になり、出家、18歳で根来寺に入った。紀州根来寺の客方で学頭、能化(のうけ、教化指導者)だった。郷里の持明院住持、根来、奈良、近江・三井寺、比叡山で学ぶ。1585年、秀吉の根来寺進攻により、高野山を追われ、1592年、京都に入る。玄宥は、関ヶ原の戦いの戦勝祈願をしたという。醍醐寺、1594年高雄・神護寺、さらに1598年、家康より寺領を受けて北野に移り、智積院を復興した。
◆眞(真)憲房長盛 室町時代の僧・眞(真)憲房長盛(生没年不詳)。詳細不明。教学に優れた。大伝法院学頭、智積院を開山した。
◆運敞 江戸時代前期の真言宗の僧・運敞(うんしょう、1614-1693)。大坂に生まれた。16歳で出家し、智積院の日誉、元寿に師事。醍醐寺・寛済らからも密教、華厳、法相、天台なども学ぶ。安楽寿院、尾張・長久寺、江戸愛宕・円福寺住持を歴任。能化後任を巡る山内対立を経て、1661年、智山第7世能化(学頭)に就任した。綱紀粛正し、将軍家綱や後水尾上皇の帰依を受ける。
 学僧として智山教学を大成したことから「近代師」といわれ、蔵書家として知られ、絵画収集も行っている。経蔵に蔵書、典書などが納められている。号は泊如。
◆長谷川等伯 安土・桃山時代-江戸時代の画家・長谷川等伯(はせがわ とうはく、1539-1610)。長谷川派の祖。父は能登畠山家家臣・奥村文之丞宗道。染め物屋を営む長谷川宗清の養子となる。義父から絵を教わる。雪舟門弟・等春の弟子・宗清に学び、1564年、信春(しんしゅん)と称し、熱心な法華信徒として仏画「十二天像」を描く。1571年、養父、養母が亡くなり、本法寺を頼り妻子と共に上洛、狩野永徳に入門するが後に出る。千利休、本法寺10世・日通、大徳寺・春屋宗園らと親交を結ぶ。大徳寺塔頭・三玄院事件により世に認められ、長谷川派は狩野派に拮抗した。1579年、妻を失う。1589年頃、大徳寺の牧谿(もっけい)画と出遭う。1590年、仙洞御所対屋障壁画を、京都所司代・前田玄以は等伯に描かせようとする。だが、永徳は勧修寺晴豊によりこれを覆した。1590年永徳は急逝する。1591年、等伯は秀吉が愛息を弔うために建てた祥雲寺障壁画を手掛け、長谷川派を確立した。1599年、亡き子・久蔵菩提のために「仏涅槃図」を完成させた。「自雪舟五代」と署し、雪舟画系であるとした。1604年、法橋、1605年、法眼に叙される。1610年、家康に招かれ江戸に着き亡くなる。
 狩野派とともに、南宋の牧谿(もっけい)の絵に多大な影響を受けた。水墨画の最高傑作といわれる1593年頃の「松林図屏風」(東京国立博物館蔵)は、子・久蔵の死を乗り越えて描いた下絵とされ、能登の松林に海霧がかかる。画面の余白秀逸とされている。
◆長谷川久蔵 安土・桃山時代の画家・長谷川久蔵(はせがわ きゅうぞう、1568-1593)。長谷川等伯の長男。母は浄妙。能登に生まれた。画才は父を凌ぎ、長谷川派随一といわれた。1593年頃、等伯一派による祥雲禅寺(祥雲寺)の障壁画制作に加わる。金碧の花木図障壁画「桜図」(智積院)は久蔵が25歳の時に手掛けた。描き上げた翌年に急逝する。現存作品は3点しかない。ほかに「朝比奈草摺曳図絵馬」「大原御幸図屏風」。26歳。
◆仏像 金堂の「大日如来坐像」は、現代の仏師・西村公朝(1915-2003)の指導により、1975年作。藤原時代(894-1285)の彫刻様式を模している。
 両界曼荼羅のうち、右の胎蔵界曼荼羅前に「弘法大師木像」、左の金剛界曼荼羅の前に、「興行大師の木像」が安置されている。金堂に、鎌倉時代の漆箔「釈迦如来坐像」が安置されている。施無畏、与願印を結ぶ。
 明王殿の本尊・「不動明王坐像」は、根来寺近郊の辻堂に安置されていたものともいう。不動明王は農民の麦つきを代わって行ったという伝承があり「麦つき不動」といわれている。平安時代の興教大師覚ばん(1095-1143)作ともいう。
 講堂に平安時代作の「阿弥陀如来坐像」が安置されている。
◆根来寺・根来衆 覚鑁は鳥羽上皇の庇護を受け、高野山に学問探究の場の伝法院、修禅道場の密厳院を建立した。根来近郊には荘園を得て寺は隆盛した。その後、覚鑁は高野山との確執により、1140年に根来に移る。豊福(とよとみ)長者の山岳信仰の葛城山系草庵を建て直し、豊福寺(ぶふくじ)とした。学問所の円明寺、住居の密厳院などを建立する。1143年の覚鑁没後、衆徒の一部は高野山に戻る。鎌倉時代、1288年、頼瑜らが再び高野山から移ってきた。
 安土・桃山時代、天正年間(1573-1591)に隆盛となる。1543年の種子島への鉄砲伝来により、一梃は根来寺の根来衆(行人、ぎょうにん)の手に渡った。根来では紀ノ川に良質の砂鉄を産したことから、数年後には鉄砲の量産を可能とし、根来衆による鉄砲隊を組織、販売も行っていた。1583年、根来衆の動向を危険視した豊臣秀吉は、10万の軍勢で根来を攻め、2000もの伽藍を焼いた。その後、再興は許されなかったが、紀州徳川家の外護を受け、新義真言宗の総本山として復興された。
 なお、院号の智積院は、根来寺大伝法院内に長盛が建立した学問所の智積院に由来している。
◆祥雲禅寺 安土・桃山時代、1589年、豊臣秀吉の側室・淀殿は鶴松(捨丸)を生む。だが、鶴松は3歳で夭逝した。
 秀吉は愛児の菩提のために、1591年に寺院建立に着工し、1592年(1593年とも)、現在の智積院境内に臨済宗の祥雲禅寺(祥雲寺)を創建した。京都所司代・前田玄以が普請奉行となり、大仏殿坊舎の一部も流用された。「京都第一の大寺」と謳われた。開山は妙心寺の高僧・南化(下)玄興による。寺名は鶴松の法名・祥雲院にちなむ。1593年に三回忌が営まれる。建物内部は、玄以により長谷川等伯親子の障壁画で飾られた。1596年、寺領300石が寄進される。鶴松遺品の玩具船、倶利伽羅龍守刀なども寄進された。秀吉没後、無住になり、伽藍は焼失した。
 江戸時代、1615年の豊臣家滅亡後、祥雲禅寺は、徳川家康により智積院日誉に下げ渡され、寺号は禅の字を取り祥雲寺となる。祥雲寺住職の海山は、師・南化玄興とともに棄丸の木像(遺骨とも)を自ら背負い、妙心寺に戻ったという。現在、妙心寺の塔頭・玉鳳院境内に祥雲院殿霊屋(おたまや)が祀られ、棄丸の木像が安置されている。
 1992年、祥雲寺客殿遺構が境内講堂の地より発掘される。
◆学林 学山智山といわれた智積院は、7世・運敞により、1661年以降に学寮が整備された。境内に、智山勧学院が置かれ、建物は茶臼山(大坂)の陣所を移している。1700年に敷地を広げる。経本を納めた経蔵なども建てられた。学寮の遺構は、現在3棟ある行堂とみられている。
 能化(住職)、学侶(所化)があり、学侶の修養は20年に及んだ。真言教学のほか、宗派の隔てなく、そのほかの仏教一般も修めた。唯識、倶舎、インド哲学、国学、漢学、天文暦学、算数、兵学も学んだ。江戸時代中期の最盛期には70あまりの学寮と、全国から集まった僧(所化、学侶)は1600人にも及んだ。僧のすする朝粥の音が、鴨川の七条大橋まで聞こえてきたという。
 境内の東には学侶の墓地もある。諸国の末寺より集った多くの子弟がいまも葬られている。
◆加持身説 真言宗の加持身説は、空海を高祖とし、覚鑁を宗祖とする。大日如来が、利他のためにとる形態を示す。本地身説法を説く高野山古義真言宗に対し分立した。覚鑁が開いた大伝法院を中心とし、のちに智山(智積院)、豊山(大和・長谷寺)二派に分れた。
 古義は、従来の教理・本地身説を説き、密教の仏身説で宇宙の根源・毘盧遮那仏の法身をいう。高野山を中心とし、古義八派あり、その後各派に分裂した。
◆建築 「本堂」は、かつて祥雲寺法堂であり、知証作という不動明王を本尊とし金堂としていた。1882年に火災焼失後、東福門院旧殿を仮本堂として大日如来を安置していた。1947年に焼失したため、1871年建造の大雲院本堂を移した。
 「金堂」は、1975年に再建された。本尊・大日如来が安置されている。以前の建物は1705年に建立され、恵心僧都源信作の本尊が祀られていた。1882年に焼失している。入母屋造、瓦屋根。
 「総門」は、江戸時代、御所、東福門院より移築したという。能化晋山時のみに開門される。
 「明王殿(不動堂)」は、1947年に焼失している。その後、江戸時代建立の大雲院本堂(四条寺町)を移築し再建された。当初は講堂の場所にあった。1995年の講堂再建に伴い、現在地に移された。
 
「講堂」は、江戸時代、1682年に焼失し、1995年に再建された。祥雲禅寺方丈客殿の遺構にあわせて建てられている。京都にある寺のなかで最も大きな総ヒノキ造の建物という。一重入母屋造、総ヒノキ造り。桁行18間、梁間9間。
 「大師堂」は、江戸時代、1789年に学侶の寄付により建立された。遍照金剛院とも呼ばれる。弘法大師を安置している。
 「運敞蔵」は、江戸時代、1673年建立。京都府指定文化財。
 「求聞持(ぐもんじ)堂」は、文殊堂、護摩堂ともいう。江戸時代、1844年(1851年とも)建立。京都府指定文化財。
 「密厳堂(みつごんどう)」は、開山堂、覚ばん堂とも呼ばれる。江戸時代、1667年に運敞が学侶らの寄付により建立した。興教大師堂を安置している。5間6間。京都府指定文化財。
 「第三行堂」は、かつての学寮遺構とみられている。
 
「鐘楼」は、かつては豊国社神廟内、鐘櫓にあった、社の破却の際に移築された。江戸時代、1667年建立。梵鐘は1616年鋳造。「三条釜座藤原国信」による。京都府指定文化財。
 「三部権現社」は、江戸時代、1667年勧請、京都府指定文化財。 
◆文化財 南宋時代の張即之(1186-1266)筆「金剛経」(国宝)、南画の祖といわれる王維の「瀧図」(重文)、鎌倉時代の「童子経曼荼羅」(重文)、鎌倉時代の「孔雀明王像」(重文)。奈良時代、759年の「増壱阿権含経 巻第二十九(善光朱印経)」(重文)。
 南宋時代の「瀑布図」(重文)。
 鎌倉時代「興教大師像」、南北朝時代「賴瑜僧正像」、江戸時代の運敞賛「玄宥僧正像」、江戸時代の寿像で自賛「運敞僧正像」。
 1609年の長谷川等伯の「十六羅漢屏風」(重文)、「一の谷合戦図屏風」(重美)。
◆障壁画 豊臣秀吉が3歳で夭折した長男・鶴松の菩提を弔うために祥雲禅寺(祥雲寺)を建立した。その客殿を飾っていた障壁画の一部が智積院に残されている。
 長谷川等伯(1539-1610)と子・久蔵(1568-1593)、その一門による一連の紙本金地着色の障壁画(国宝、重文)があった。等伯は、鶴松の生涯を四季に喩えたという。控えの間に春・桜(久蔵筆)、法要の間に夏・青緑の松(等学筆)、上段の間に秋・紅葉(等伯筆)、冬の間に雪と松(等秀?筆)で飾られた。
 豊臣家滅亡後、等伯一門の障壁画は、江戸時代、1615年、徳川家康により智積院に与えられた。かつて、100面以上存在したが、1682年、1947年の火災、盗難などで多くが失われ、現在は20数面のみが残されている。火事の際には、僧侶らが画を懸命に運び出したという。
 現在、収蔵庫に障壁画が保存展示されている。いずれも鳥が描かれない金碧花木図が特徴になっている。安土・桃山時代、1593年、等伯が若くして急逝した息子の久蔵を悼んで描いた紙本金地着色「楓図 壁貼図」4面(172.5×139.5㎝)(国宝)がある。金雲の地に、上部を大胆に切り取られた楓の大木二本がある。葉には微妙な色の変化が付けられている。対照的に、その太い根元に萩、鶏頭、菊などの白い花弁が鮮やかに描写されている。緑葉、太い幹の左に印象的な群青の水辺も配される。楓も紅葉とともに緑の葉も描かれており、一葉一葉に多様な色使いになっている。
 1592年頃、久蔵が25歳で桜を描いた紙本金地着色「桜図」4面(国宝)(175.6×139.5㎝)も、金雲の地に中央に太い幹二本が描かれている。だが、右手の木はほぼ幹のみしかない。牡蠣の胡粉により厚く塗られた八重桜の白い花弁、蕾が画面に浮かび上がる。花弁は、月光の下で白く発光するという。
 1592年頃、等伯と久蔵合作ともいう紙本金地着色「松に秋草図屏風 床貼図」二曲一双(国宝)(227.3×331㎝)は、右手に描かれた太い松の幹の上部は省略されている。地面にはさまざまな白花が全体に花開く。根元の薄は籠の網目の様に交差して描かれる。本来は障壁画4面であり、その後、屏風に仕立て直されたため引き手の跡が残る。
 等伯作とみられる安土・桃山時代、1593年(1592年頃とも)、紙本金地著色の「松に黄蜀葵(とろろあおい)図 床貼図」4面(国宝)(335×354㎝)がある。
 娘婿・長谷川等秀とも等伯門下の手によるともいわれる「雪松図(松に梅図)」(国宝)(172.5×141㎝)は、松の大木が左下より右上に画面を斜めに立ち上がる。それに呼応するように椿、梅が白い花を付けている。
 等伯、また二男・長谷川宗宅ともいう「松に立葵図」(国宝)、作者不詳の松図(重文)は等伯の下絵ともいう。
 宸殿襖絵に、現代の画家・堂本印象(1891-1975)筆の「婦女喫茶図」(1958)は、和装と洋装の婦人が椅子に座る。「松桜柳の図」、「朝顔に鶏の図」「朝顔に茄子の図」「流水に鳶の図」。
 講堂に現代の田淵俊夫(1941-)筆「四季墨絵」(2008)、後藤順一(1948-)筆の百雀の間の「百雀図」には99羽の雀が描かれている。
◆庭園 大書院東面に座観式池庭、1600㎡があり、安土・桃山時代、1593年頃建立された祥雲禅寺(祥雲寺)庭園遺構とみられている。江戸時代、1674年、7世・運敞(うんしょう、1614-1693)の時、庭が改修されたという。また、運敞が手を加えたともいわれていた。ただ、近年の発掘調査により、祥雲禅寺創建当初の作庭が原型になっているとみられている。
 萬福寺5世・高泉性とん(こうせんしょうとん)は「東山第一景」と賞賛した。茶人・千利休(1522-1591)好みの庭ともいわれ、石、刈込を細かく配しながら、全体としては水の庭の雄大さと重厚さを演出している。池は広く太い川の流れのように配されている。水は書院の床下にまで入り込んでおり、これは江戸時代中期の修造による。
 中国の景色が模されている。自然の傾斜地に築山が造られ、長江(揚子江)を表したという南北に細長い池が造られている。縁先、池前には、黒い一文字手水鉢が据えられた。阿弥陀ヶ峰を背に、中国江西省の廬山(ろざん)を模したという築山には、サツキ(5月下旬-6月下旬)、ツツジの大刈り込みがあり、琴、撥を表したものともいう。
 数多くの景石が配されている。池に注ぐ滝石組は、江戸時代の改修による。石組と刈込が交互に配される。さらにその上の築山の中に架けられた切石橋は、中国宋末元初期の山水画の影響があり、画僧の名に因み「玉澗流(ぎょくかんりゅう)」といわれる。この石橋より奥は、自然石のみを用い、刈込を配し、安土・桃山時代の作庭という。また、池の南の2枚の青石による橋も、安土桃山様式の祥雲禅寺の遺構という。
◆京都十三仏霊場めぐり 智積院の不動明王は京都十三仏霊場めぐりの第1番札所になっている。
 室町時代、8代将軍・足利義政が、盆に歴代将軍の供養を十三仏に祈願したことから始まったという。現在の菩薩は、1444年の東麓破衲 (とう ろくはのう)編『下学集(かがくしゅう)』に見える。また、南北朝時代ともいう。貴族にはそれ以前よりの信仰があったともいう。1981年、池田昇・大阪十三仏奉賛会会長らの呼びかけにより復活した。
 十三仏とは中陰法要、年忌法要の際の十三体の仏・菩薩をいう。霊を極楽浄土に導き、自身の死後の法事をあらかじめ修する。中陰法要は、葬儀後、初七日の不動明王、二十七日の釈迦如来、三十七日の文殊菩薩、四十七日の普賢菩薩、五十七日の地蔵菩薩、六十七日の弥勒菩薩、七十七日の薬師如来とあり、これらを終えた満中陰により新たな生を受け、続いて百日の観音菩薩、一周忌の勢至菩薩、三回忌の阿弥陀如来、七回忌の阿閦(あしゅく)如来、十三回忌の大日如来、三十三回忌の虚空蔵菩薩と追善法要が続く。
◆花暦・樹木 サツキ・ツツジ(5月下旬)、キキョウ(寺紋はキキョウで、祥雲寺建立の際に関わった加藤清正の家紋に因むともいう。境内には3000株が植えられている)(7月日)。青葉・青モミジ(6-8月)、紅葉(11月)。
 ボダイジュがある。
◆宿坊・修行体験 宿坊の「智積院会館」に宿泊できる。金堂でのお勤め、明王殿での護摩祈祷見学、僧による解説で障壁画、庭園の拝観もできる。
 茶寮「ききょう」でこんにゃく料理、精進料理が頂ける。
 「写経のつどい・法話」(毎月21日、13:00、金堂地下ホール)。
◆年間行事 修正会・元朝大護摩供(1月1日)、新年祝祷会・お昆布式(1月15日)、初不動(1月28日)、節分会(2月節分)、常楽会(2月15日)、正御影供(3月21日)、彼岸会法要(春分の日)、得度式(4月30日)、仏生会(4月8日)、玄宥僧正誕生会(4月17日)、得度式(4月30日)、青葉祭(両祖大師誕生会、柴燈護摩道場で山伏姿の僧による大護摩供養を行う)・柴燈大護摩供(6月15日)、暁天講座(8月1日-3日)、施餓鬼会(8月12日)、盂蘭盆会(8月15日)、総供養法要(金堂内で光明真言を100人の僧が唱える。光明三昧ともいう)(8月31日)、運敞僧正会(9月10日)、彼岸会法要(秋分の日)、玄宥僧正忌(10月4日)、成道会(12月8日)、冬報恩講・出仕論義・陀羅尼会(出仕論義は仏道を究めるための問答を行う)(12月10日-12日)など。


*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『古寺巡礼 京都 29 智積院』『京の古都から 25 智積院』『京都・山城寺院神社大事典』『洛中洛外』『続・京都史跡事典』『京都大事典』『朝鮮通信使と京都』『別冊太陽 長谷川等伯』『庭を読み解く』『京都古社寺辞典』『京都府の歴史散歩 中』『京都の寺社505を歩く 上』『京都 神社と寺院の森』『こころ美しく京のお寺で修行体験』『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』『京の福神めぐり』『京都の隠れた御朱印ブック』『週刊 日本の美をめぐる 金と墨の 長谷川等伯』『週刊 日本庭園をゆく 22 京都洛東の名庭 3 東福寺 高台寺 智積院』『週刊 仏教新発見 17 長谷寺 智積院』『週刊 古寺を巡る 42 智積院』『週刊 古寺名刹巡拝の旅 32 東山 京都』『週刊 京都を歩く 25 東山 1』
 


  関連・周辺       周辺新日吉神社      周辺三十三間堂(蓮華王院)      関連豊国神社      関連隣華院       関連本法寺       関連三玄院〔大徳寺〕       関連玉鳳院〔妙心寺〕           

鐘楼
大師堂周辺

アジサイ

弘法大師像

権児大師像

大師堂、江戸時代、1789年に建立、本尊は江戸時代作の弘法大師像を安置する。かつては理源堂に安置されていた。東寺御影堂の大師像を摸刻したといわれている。像の開帳は50年に一度。毎月21日に、月並御影供法要が行われている。

大師堂、扁額「遍照金剛殿」は大通寺の南谷(照什、1663-1736)による。


大師堂

第一行堂、学寮遺構という。

鐘楼、かつては豊国社神廟内、鐘櫓にあった、社の破却の際に移築された。江戸時代、1667年建立。梵鐘は1616年鋳造。「三条釜座藤原国信」による。京都府指定文化財。

鐘楼

運敞蔵、附・京都府指定文化財。江戸時代、1673年建立。7世・運敞僧正により蒐集された文献が収蔵されている、その坐像も祀られている。

運敞蔵、「運敞僧正影前」と刻まれている。

興教大師像

密厳堂(みつごんどう)、開山堂、覚ばん堂とも呼ばれる。5間6間。京都府指定文化財。江戸時代、1667年建立された。7世・能化の運敞(1614-1693)の寄進による。江戸時代作の興教大師覚ばんを祀る。毎月12日に月並報恩講。像の開帳は50年に一度行われる。

密厳堂、扁額「密厳堂」は運敞筆。


ハス

求聞持(ぐもんじ)堂、文殊堂、護摩堂ともいう。腑・京都府指定文化財。江戸時代、1844年(1851年とも)建立、本尊は虚空蔵菩薩、前立は不動明王。求聞持とは求聞持法という修法に因む。虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)を本尊として行い記憶力増進のためのもの。

求聞持(ぐもんじ)堂、「光明殿」の扁額

拝殿

拝殿

藤森大王

白山大権現

天満宮

愛宕大権現

三部権現社、江戸時代、1667年勧請、京都府指定文化財。 

三部権現社

三部権現社、仏部聖動尊本部の十天

三部権現社、蓮華部天照大神、八幡、加茂

三部権現社、総鎮守、金剛部丹生高野両大明神

第三行堂、かつての学寮遺構とみられている。

宝篋印塔

光明殿

宝篋印塔
講堂周辺



唐門、講堂の入口

建物の軒の周囲に仏旗(ぶっき)といわれる幕が巡らせてある。青、黄、赤、白、橙(樺)の配色になっている。青は仏陀の頭髪の色「定根」をあらわす。 黄は仏陀の身体の色「金剛」、赤は仏陀の血液の色「精進」、白は仏陀の歯の色「清浄」、 樺(橙)は仏陀の袈裟の色「忍辱」をあらわす。


「ひらひらとつくもをぬひて落花哉」、高浜虚子(1874-1959)、1930年に当院を訪れた際に詠んだ。「つくも」とは都久毛(つくも)太太藺 (ふとい)、(大藺(おおい)のことで、蚊帳吊草(かやつりぐさ)科。 池、沼、湿地に群生し、高さは2mぐらい。筵、敷物を編むのに使った。夏に、茎先から茶色い花が咲く。




講堂、総檜造り、江戸時代、1682年に焼失し、1995年に再建された。祥雲禅寺方丈客殿の遺構にあわせて建てられている。一重入母屋造、総ヒノキ造り。桁行18間、梁間9間。京都にある寺のなかで最も大きな総ヒノキ造の建物という。

講堂、扁額

講堂、平安時代の阿弥陀如来坐像を安置する。


講堂、本尊・阿弥陀如来、もとは金堂に安置されていた。平安時代後期作。

講堂、広縁。

大書院


大書院、長谷川等伯の障壁画「楓図」(複製)、嘱望された息子・久蔵の急逝を受けた後に完成した。絵には父の悲哀が表されているともいう。実物は、火災の際に持ち出されたというが、一部に焼痕がある。

大書院、長谷川久蔵筆の障壁画「桜図」(複製)、25歳の時に描かれた。最も優美で繊麗な絵とされ、久蔵の遺作とされている。完成の翌年に久蔵は急逝する。敵対した狩野派に殺されたとの説もある。




大書院、上段の間、等伯の「松に黄蜀葵図」(複製)、豊臣秀吉が3歳で亡くなった愛児鶴松の菩提を弔うために建立した祥雲寺に長谷川等伯一派により描かれた。金碧の花木図障壁画は、鶴松の松に因み描かれたともいわれている。鶴松が存命であったことを仮定し、人間模様に重ね四季折々の風景が描かれているともいう。この「松に黄蜀葵図」では、葵(徳川)を蔽うように生える巨木の松(豊臣)の意味が隠されているともいう。


大書院

大玄関使者の間、「布袋唐子嬉戯の図」、江戸時代から近代の月樵道人画(1846-1918)。


講堂、田渕俊夫(1941-)の「夕陽」、刻、春夏秋冬の60面の障壁画がある。

玄関

講堂集会所、後藤順一(1948-)、「浄」8面。(1995)、ほかに「百雀図」

庭園

庭園、借景、廬山(ろざん)を見上げるような見方が本来の形ともいう。狭い庭園を広く見させる工夫という。

中国江西省の廬山(ろざん)を模したという築山、サツキ、ツツジの大刈り込みがある。琴を表したものという。

長江(揚子江)を表したという池、池には泥を堆積させ、あえて淀みが作られ、深い緑の色が演出されている。時折鯉が泳ぐと、底の泥を掻き揚げる趣も取り入れられているという。



黒い一文字手水鉢、水穴が一の字に見える事による。手水鉢は、池に浮かぶ一艘の舟に見立てている。



2枚の青石による橋、桃山様式の祥雲禅寺の遺構という。

羅漢石、築山に向かって合掌している姿という。たとえ釈迦はいなくても、自然から教えを受けているという。かつては、苔が生え、緑衣、萌木色をしていたという。

池の北にある滝石組

築山の中に架けられた切石橋は、中国宋末元初期の山水画の影響があり、画僧の名に因み「玉澗流(ぎょくかんりゅう)」といわれる。

サツキ、ツツジの大刈り込み、琴を表した。

サツキ、ツツジの大刈り込み、撥の形を表している。自然の音を弾き聴くことを意味している。

大書院落縁の床下まで池は広がっている。江戸時代中期の改修に由るものともいう。船に乗っているかのような気分にさせる。


庭園の南部分


茶室、庭園南にある。

講堂の西にある庭園

講堂の西にある庭園の石組

講堂西の庭園

宸殿


大玄関

本坊



法務所、智山講伝所

収蔵庫


延命子育地蔵

大日如来
墓地





学侶墓地、江戸時代、院内で修行していた学僧で、志半ばで亡くなった僧を葬った。墓石は、もとは地蔵山にあり、1991年に移転した。

能化の墓、歴代の墓が立つ。


能化の墓、運敞の墓
綴プロジェクト
map 智積院 〒605-0951 京都市東山区東瓦町964,東大路七条下る東側  075-541-5363  9:00-16:30

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