藤原惺窩の市原山荘跡 (京都市左京区静市)
Ruins of the residence of FUJIWARA Seika
藤原惺窩の市原山荘跡  藤原惺窩の市原山荘跡 
50音索引  Home 50音索引  Home

「此付近藤原惺窩市原山荘跡」の石標


北市原第二児童公園


向山


鞍馬川(市原川)
 静市市原町の向山(むかいやま)の麓、鞍馬川(市原川)近くにある北市原第二児童公園内に、「此付近 藤原惺窩市原山荘跡(ふじわら せいか いちはらさんそう あと)」の石標が立つ。
 この地に、儒者・藤原惺窩が晩年に隠棲した山荘があった。いまは史跡はなく、石標だけが立つ。
◆歴史年表 江戸時代、1605年、家康が二条城に惺窩を招く。惺窩に仕官の意志はなく、門人・林羅山(はやしらざん)を推した。8月頃、洛中の相国寺東隣より市原野の「市原山荘」に移り隠棲したとみられる。北肉山人(きたししさんじん)と号した。(『惺窩先生文集』)
 1619年、惺窩の没後、相国寺塔頭・林光院に葬られた。門弟・武田道安は、山荘の傍らに「夕佳楼」を建てる。石川丈山なども来遊する。その後、間もなくして廃した。
 1684年、惺窩没後65年に医者・歴史家・黒川道祐がこの地を訪れている。跡地は「茅庵零落、一庭草ノミ茂リ」と記され、すでに荒廃していた。(『東北歴覧記』)
 年代不詳、跡地に料理旅館(小町園?)が建てられたという。その後、廃される。
 現代、1970年、現在地に京都市により現在の石標が立てられた。
◆藤原惺窩 室町時代-江戸時代の儒学者・藤原惺窩(ふじわら せいか、1561-1619)。号は多く惺斎、北肉山人(きたししさんじん)、柴立子(さいりつし)など。播磨の生まれ。細川荘(三木市細川町)の荘園を領した冷泉為純(れいぜい ためずみ)の3男。藤原定家の子孫。神童と呼ばれ、1567年、7歳で播州竜野・景雲寺の東明昊に師事、剃髪し宗舜と称した。1578年、三木城主・別所長治に家は滅ぼされ、父、兄、家領も失う。姫路の書写山に陣を敷いた羽柴秀吉に、仇討と家名再興を願い出て諭される。京都の叔父・寿泉を頼り相国寺・南豊軒で禅学、漢学、儒学を学ぶ。一時、吉田兼見の弟子になる。首座(しゅそ)に上る。1590年、秀吉の命により、朝鮮国使・黄允吉ら3人と、大徳寺で筆話を行う。1591年、秀次の召により相国寺で五山僧徒と詩を闘わす。1593年、秀俊に従い、肥前名護屋で明国信徒に会う。江戸で家康、家臣に『貞観政要』を講じた。1596年、儒学を学ぶため、薩摩から明へ渡航した。悪天候のために喜界島に漂着した。1597年、帰洛。1598年、文禄・慶長の役の捕虜で、朝鮮の朱子学者・姜沆(きょう こう)に伏見の大名・赤松広通邸で会い朱子学を学ぶ。1599年、広通、姜沆の協力により、初めて宋儒の説に従う四書五経に訓点を施した『四書五経倭訓』を著す。1600年、広通の尽力により姜沆などが帰国した。支援した広通は自決し還俗する。1604年、林羅山が入門する。1605年、家康が二条城に惺窩を招く。仕官の意志はなく、羅山を代行させた。1606年、紀州・浅野幸長の招により和歌山に赴く。1607年、堀杏庵らが入門した。
 五山僧の教養だった儒学を解放し体系化、「京学派」として定立した。神儒一致、朱子学を基調とし、仏教、陽明学も受け容れた。後に近世儒学の祖とされた。門人に「惺門四天王」の林羅山、那波活所(なば かっしょ)、松永尺五(せきご)、堀杏庵(きょうあん)、ほかに、菅得庵(かん とくあん)、林東舟、三宅奇斎らがいる。紀州城主・浅野幸長、角倉了意などと親交があった。和歌、古典にも通じた。主著に『寸鉄録』など。当初は時雨亭の傍らに葬られる。その後、相国寺・林光院に葬られた。
◆林羅山 江戸時代初期の儒学者・林羅山(はやし らざん、1583-1657)。京都生まれ。父は加賀郷士末裔で浪人、幼くして養子に出される。1595年、建仁寺に入り、大統庵・古澗慈稽、十如院・英甫永雄(雄長老)に師事、1597年、出家を拒否し家に戻る。1604年、角倉素庵の仲介で藤原惺窩(せいか)に儒学、朱子学を学ぶ。1605年、惺窩の推挙により二条城で徳川家康に謁見した。1606年、イエズス会日本人修道士・イルマン・ハビアンと論争し、地球方形説と天動説を主張した。1607年、家康命により剃髪し道春と称し仕える。2代将軍・秀忠に講書を行う。1614年、大坂の役に際し、方広寺鐘銘事件で家康に追従し勘文を作る。1624年、3代将軍・家光の侍講となる。1632年、幕府より与えられた地、江戸上野忍岡に私塾学問所、孔子廟などを建て、先聖殿(後の忍岡聖堂、昌平坂学問所)と称した。1635年、武家諸法度を起草した。1657年、明暦の大火により神田本邸の文庫を焼失、落胆し4日後に急逝した。
 幕府儒官林家の祖といわれる。朱子学、儒学の官学化に貢献し近世儒学の祖になる。幕藩体制の身分秩序を位置づける役割を果たす。家康以来、将軍4代に仕え、伝記・歴史の編纂、古書・古記録の採集、「諸士法度」などの法令制定、外交文書起草、典礼調査、朝鮮通信使の応接、オランダ、シャムとの通信、教育、文化にも幅広く関与した。幕命で「寛永諸家系図伝」「本朝編年録」を編修した。「惺門四天王」のひとり。
 生誕地は中京区新町通錦小路上ルとされる。場所は確定されていない。
◆向山・山荘の所在地 市原野に営まれた藤原惺窩の「市原山荘」の場所は、背後(北)に向山(むかいやま)、前方(南)に鞍馬川を隔て、市原盆地を望む地点だったという。(『羅山文集』)。また、洛北市原の山中の「百余弓地」にあったという。(『事実文編』巻十)。林羅山は経済的な援助も行っている。
 なお、この向山は、惺窩が当初、「背向山(そがいのやま)」と名付けた。その後、「向山」と呼ばれるようになる。「市原山八景」(『京羽二重』)にもあり、付近の景勝地として、①「手月磧(てちつくし)」、②「朽斧松(くたらのまつ)」、③「巌牆水(いはかきみず)」、④「北肉峰(きたししのみね、向山)」、⑤「流六渓(るりのろくたに)」、⑥「洗蜜科(しみつのくほ)」、⑦「枕流洞(まくらのるりほら)」、⑧「飛鳥潭(あすかのふち)」の名が挙げられている。惺窩はそれぞれに歌を詠んだ。
 データベース「京のいしぶみ」によると、山荘跡は、市原小字札の辻の西方五町許の山麓にあり、小字向山二十一番地の山林一段だったという。(『京都府愛宕郡村誌』)。現在の老人ホーム市原寮の隣の台地にあり、かつて恵光寺が所有した。最初の石標が建立されたのは、現在地(北市原第二児童公園)の石標が立つ地点より東へ100m程の地点になる。静市市原町の小町園内という。この「小町園」(料理旅館?)とは、鞍馬川(市原川)に架かる市原橋の西(下流)、川畔の北側辺にあったらしい。(『史跡のいしぶみ』第2集)


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『昭和京都名所図会 3 洛北』『京都市の地名』『人物叢書 藤原惺窩』『京都大事典』『京都事典』、サイト「京のいしぶみ」



  関連・周辺奉先堂碑      周辺帰源寺      関連林光院〔相国寺〕      関連詩仙堂        
平安京オーバレイマップ
map  藤原惺窩の市原山荘跡 〒601-1123 京都市左京区静市市原町1325-73 北市原第二児童公園内
50音索引  Home  top 50音索引  Home  top
 © 2006- Kyotofukoh,京都風光