宮道朝臣列子墓(宮道古墳) (京都市山科区)
grave of Miyaji no ason Resshi
宮道朝臣列子墓 宮道朝臣列子墓 
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「宮道朝臣列子墓」の石標


円墳


宮道朝臣列子墓
 中臣(なかとみ)神社の直ぐ東に小高い丘がある。「宮道朝臣列子墓(みやじ の あそん れっしの はか)」の石標が立つ。石段の上には、新しい五輪塔が立てられている。
 丘は考古学的には「宮道古墳」と呼ばれ、一帯に分布する「中臣十三塚古墳群」の一つになる。
◆歴史年表 変遷の詳細は不明。
 近代
、1868年頃、列子の御陵は私有地になる。
 1890年、墳上に石碑が建立された。
 1933年、勧修寺宮旧臣・永田重泰が、この地を勧修寺に寄進した。
 現代、1971年、この地の西に、「中臣十三塚古墳群」の一部が発掘された。
 1972年、「宮道朝臣列子墓」の石標が立てられた。
 2007年、現在の五輪塔が立てられた。大宅寺にある列子の両親の搭と同寸の搭という。
◆宮道列子 平安時代前期-中期の女性・宮道列子( みやじ の れっし、?-907)。山城宇治郡の郡司・宮道弥益(いやます)の娘。藤原高藤(たかふじ)の妻になり、胤子(いんし)、定国、定方らを産む。884年頃、胤子が第59代・宇多天皇女御になり、885年、第60代・醍醐天皇を産む。列子は天皇の外祖母になる。従三位、贈正一位追贈墓は「後小野墓」と称された。
◆墓・中臣十三塚古墳群 宮道朝臣列子墓は、『延喜式』諸陵寮の「後小野墓(のちのおののはか)」と伝えられている。ただ、確定されていない。2007年に、現在の五輪塔が新たに立てられた。大宅寺(山科区)にある列子の両親の搭と同寸の搭という。考古学的には、宮道古墳と呼ばれ、「中臣十三塚古墳群」に含まれている。円墳であり、周囲に堀がある。東西26m、南北29mある。
 1971年、この地の西に、「中臣十三塚古墳群」の一部が発掘され、周濠、横穴式石室基底部、須恵器などが出土した。古墳時代後期、6世紀末-7世紀前半のこれらの小古墳の遺跡群は、栗栖野丘陵地の現在の西野山中臣町、勧修寺西栗栖野町にあった。
 「鎌足塚(十三塚)」と呼ばれ、藤原鎌足の殯舎(ひんしゃ)跡と伝えられていた。12の小円墳の遺跡群は、その後の宅地開発により大部分が消失している。現在残る墳丘は、折上神社境内の円墳「稲荷塚古墳」、この円墳「宮道古墳(宮道朝臣列子墓)」の2だけになる。
 

*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*参考文献 碑文、『昭和京都名所図会 6 洛南』『京都大事典』


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「贈正一位宮道朝臣列子墓」の石標
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map 宮道朝臣列子墓(宮道古墳) 〒607-8212 京都市山科区勧修寺西栗栖野町44
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