見性寺 (京都市左京区)
Kensho-ji Temple
見性寺 見性寺
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本堂
 見性寺(けんしょうじ)は、武将・村井重勝ゆかりの寺として知られる。山号は納簱山(のうきざん)という。
 浄土宗知恩院派、本尊は阿弥陀如来。 
◆歴史年表 安土・桃山時代、1582年、本能寺の変で、村井重勝の養父・貞勝は、二条御所で織田信忠とともに討死した。重勝は実父・織田信長、養父を弔うために一宇を建立したという。信長から贈られた「直指人身見性成仏(じきしじんしんけんしょうじょうぶつ)」と印した旗を埋め、見性寺とした。当初は、東椹木町(ひがしさわらぎちょう、中京区寺町通丸太町一筋目東入下ル)にあった。
 1588年、養父・貞勝7回忌法会に、豊臣秀吉も参詣した。寺領寄進があり、年貢も免除される。
 江戸時代、徳川家康の時代にも寺領安堵された。
 宝暦年間(1751-1764)、現在地に移る。
◆村井重勝 安土・桃山時代-江戸時代の武将・村井重勝(?-1647?)。詳細は不明。織田信長の庶子ともいう。織田信長の庶長子・織田信正(おだ のぶまさ、1554-1647)と同一人物ともいう。幼くして、信長家臣・村井貞勝(むらい さだかつ、?-1582、春長軒)に養われたという。見性寺の開基になる。号は見性軒。
◆村井貞勝 室町時代-安土・桃山時代の武士・村井貞勝(むらい さだかつ、1520?-1582)。近江国生まれ。1549年以来、織田信長の家臣として信長の信も厚かった。1556年、織田信勝による兄・信長への叛旗に対し、島田秀満(秀順)とともに信勝・柴田勝家らとの和平交渉を行う。1568年、信長が義昭を擁して上洛後、日乗朝山とともに御所の修理を監督した。明智光秀と京都の民政に携わる。民部少輔に任じられた。朝廷との折衝などに当たる。1573年、信長より京都所司代(天下所司代)に任ぜられた。1575年、信長による公家旧領返還の徳政令に関わる。正六位下・長門守に叙任された。1576年、石山本願寺攻めに加わる。1576年-1587年、信長に二条殿の普請を命じられる。1580年、信長居住のための本能寺普請を命じられた。1581年、出家し春長軒と号し、家督を子・貞成に譲る。1582年、本能寺の変で、信長嫡男・信忠の宿所・妙覚寺に駆け、明智軍に抗し二条新御所に立て籠もることをすすめた。信忠、子の貞成・清次らとともに討死した。安土城、南蛮寺の建設、四条の橋の架橋した。ルイス・フロイス『日本史』にその人物を評された。号は春長軒という。墓は春長寺にある。
◆石仏 墓地入口近くに「阿弥陀坐像」(58㎝)が安置されている。厚肉彫。 
 「阿弥陀坐像」(46.5㎝)は半肉彫で、表面に鎌倉時代、「正中二年(1325年)」、背面に「藤位幸宗造立」と刻まれている。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『昭和京都名所図会 2 洛東 下』


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本堂、扁額「納簱山」
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map  見性寺 〒606-8353 京都市左京区正往寺町461   
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