大谷祖廟 (東大谷) (京都市東山区)
Otani-sobyo(Mausoleum)

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総門、江戸時代、1862年に建立、僧檜皮葺の四脚門、高さ8.7m、幅5.2m、奥行き4.3m




本堂




現在、約12500基余の墓が建立されている。


万灯会
 円山公園の南、東山の中腹にある大谷祖廟(おおたにそびょう)は、東大谷(ひがしおおたに)ともいう。 
 真宗大谷派(東本願寺)の宗祖・親鸞の廟所(墓所)、歴代宗主、門徒の遺骨も納められる。
◆歴史年表 鎌倉時代、親鸞(1173-1263)は、弟・尋有僧都(じんうそうづ)の住坊「善法坊」で亡くなった。
 親鸞の入滅地、荼毘地については諸説ある。大谷派では、「善法院」を虎石町付近(現在の京都御池中学校)とし、荼毘地は、延仁寺(東山区今熊野)としている。遺骨は鳥辺野北辺の都の三昧所(共同墓地)「大谷」の地に葬られた。
 親鸞の末娘・覚信(1224-1283)は、門弟の協力を得て、吉水の北辺(現在の崇泰院付近、元大谷)に改葬し、六角の堂宇である廟所(大谷廟堂、おんはかどころ)を建て影像を安置した。
 三世・覚如(1271-1351)により、廟堂は寺院化され、当初は専修寺(せんじゅじ)と号したが本願寺と改称した。
 室町時代、1465年、比叡山衆徒による「寛政の破却」が起こる。
 安土・桃山時代、1602年、教如は本願寺を別立とし、境内南西隅に祖廟を建てたことに始まる。
 江戸時代、1603年、徳川家康により、知恩寺域の拡張により、廟堂は五条坂(大谷本廟、西大谷)に移転された。独立間もない東本願寺は、寺内阿弥陀堂西南の廟所に納めていた。
 1670年、現在地の東大谷に三基一廟(親鸞、教如、宣如)が移された。移徒供養を遂げた。
 1701年、廟墓を改葬し仏殿を落成した。
 1745年、8代将軍・徳川吉宗より一万坪の寄進を受け、祖廟が完成した。
 近代、大谷別院・大谷本廟と改められる。
 現代、1981年、大谷祖廟と改められる。親鸞、歴代、門徒の遺骨が納められている。
◆親鸞 平安時代-鎌倉時代の僧・親鸞(しんらん、1173-1263)。見真大師。京都の日野(伏見区)に長男として生まれた。父は藤原北家の流れをくむ日野有範。母は源氏の出身。幼くして両親を失う。1181年、叔父・日野範綱に連れられ、1181年、9歳で青蓮院・慈円のもとで出家得度し範宴(はんねん)と称した。以後、比叡山横川首楞厳院の堂僧として20年間修行を続けた。東塔無動寺谷の大乗院で修業する。1201年、29歳の時、比叡山を下り、六角堂に参籠、師・源空(法然)の導きにより、浄土教に帰依した。1204年、法然が定めた「七箇条制誡」弟子のひとりとして連署する。1205年、法然は『選択本願念仏集』の書写、法然肖像を描くことを許す。1207年、承元(じょうげん)の法難により、専修(せんじゅ)念仏停止(ちょうじ)にともない、35歳で越後に流罪になり、僧籍剥奪される。禿釈親鸞と自称する。1211年、赦免され、1214年、42歳で妻・恵信尼、子らとともに関東での布教を行った。晩年、1235年頃恵信尼らと別れ、末娘・覚信尼と京都に戻る。1256年、長男・善鸞を義絶した。弟・尋有の善法坊で90歳で亡くなったという。浄土真宗の祖。
 浄土真宗の教義が体系化された6巻からなる『教行信証』(1224)などを著した。この年に立教開宗し、「非僧非俗」を宣言した。罪深い身である者は、阿弥陀仏の本願力を信じ、念仏を唱えることが基本であるとした。絶対他力の自然法爾、悪人こそが本願により救われるという悪人正機を唱えた。
◆年間行事 修正会(1月1日-7日)、春季彼岸会(3月18日-24日、17日-23日)、盂蘭盆会(7月14日-15日)、暁天講座(8月1日-5日)、万灯会(8月14日-16日)、秋季彼岸会(9月20日-26日)、報恩講(9月27日-28日)。
 お盆の「万灯会」では、約1万個の提灯に火が灯ることで知られている。


*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都の寺社505を歩く 上』『日本の名僧』『京都古社寺辞典』


         崇泰院       東本願寺       大谷本廟                   
 大谷祖廟(東大谷) 〒605-0071 京都市東山区円山町477  075-561-0777
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