大谷本廟 (西大谷) (京都市東山区)
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大谷本廟 大谷本廟
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総門、江戸時代、1710年建立


総門


総門














円通橋、皎月池に架かる。側面から見ると眼鏡橋になっている。江戸時代後期、1856年竣工、大坂播磨屋五兵衛寄進による。橋脚はなく、橋板石を敷き詰めたアーチがある。勾欄付。長さ40m、幅6m。

 五条坂、東山の中腹にある大谷本廟(おおたに ほんびょう)は、西大谷(にしおおたに)とも呼ばれる。
 浄土真宗本願寺派(西本願寺)の親鸞廟所(墓所)となっている。親鸞が荼毘に付されたという鳥辺野の南とされる。歴代宗主、門末の墓もある。 
◆歴史年表 鎌倉時代、1263年1月16日(旧暦11月28日)、浄土真宗開祖・親鸞は、弟・尋有僧都(じんうそうづ)の住坊「善法坊」(現在の角坊別院)で亡くなる。
 1263年1月17日、本願寺派によると、親鸞の遺骨は鳥辺山南辺(現在の大谷本廟御荼毘所付近、延仁寺)で火葬され、翌日、遺骨は鳥辺野北辺の「大谷」の地(知恩院付近)に葬られたとする。当初は、石造笠塔婆に周囲を木柵で囲った簡素なものだったという。
 1272年、親鸞の末娘・覚信尼(初代留守職、るすしき)、門弟らは、墳墓を改葬し、吉水の北辺(現在の崇泰院の裏庭付近、覚信尼の夫・小野宮禅念の所有地)に移し、「大谷廟堂」と呼んだ。六角の廟所には、親鸞の遺骨と影像が安置された。このためこの地は「元大谷」と呼ばれる。
 1274年、元大谷を覚信尼に譲ったという。
 1277年、覚信尼は3度に渡り宗祖の墓所として寄進することを東国の門弟に通達した。門弟に代わり廟堂を護持する任(後の「留守職」)に就く。
 1295年頃、親鸞木像(御真影)が安置され、「大谷影堂」と呼ばれる。本願寺の発祥となる。
 1312年、3代・覚如は、青蓮院の法智の勧めで「専修寺」の額を掲げるが、叡山の反対により撤去する。 
 1321年、覚如は、大谷廟堂を寺院化し、「本願寺」と号し、本願寺が成立した。
 室町時代、1465年、比叡山衆徒による本願寺破却(「寛正の法難」)の際にも、墓塔は守られた。この時、蓮如は山科に本願寺を再興し、本廟と本願寺は別立になった。
 安土・桃山時代、1589年、大谷廟堂が再興されたともいう。
 江戸時代、1603年、12代・准如の宗主の時、徳川家康による知恩寺域の大拡張に伴い、幕命により本廟(廟堂)は東山五条坂西大谷(現在の大谷本廟の地、延年寺山西麓)に移され、以後、この地を「大谷(北鳥部)」と呼ぶようになった。境内は24丈四方にあり、寺領1石余を有した。
 1605年、仏殿が建立される。
 1660年、西方30歩に仏殿(本堂)改築が始まる。
 1661年、仏殿(本堂)が建てられる。13代・良如自刻の仏像を本尊とした。輪番所が置かれた。鐘楼(鼓楼)が建てられる。九条の西光寺の願いにより、祖廟の外に墳塔を営むことを許可し、大谷墓地が始まる。祖墳を南谷(現在地)に移転する。
 1662年、親鸞廟墳の北に、11代・顕如、南に12代・准如の墳が造られた。以後、歴代宗主の墓が造られる。
 1669年、茶所(接待所)が建てられた。
 1673年、福井別院の本尊を遷す。
 1694年、14代・寂如の時、新たに廟堂を建立する。この頃、本廟の報恩講(大谷会、本廟報恩講)が営まれる。21代・明如以来、これを「龍谷会」と称した。
 1698年、廟塔に「祖壇」の扁額を掲げる。
 1702年、14代・寂如は「龍谷山」の山号の扁額を書し、仏殿に掲げる。山号は、「おおたに」(谷+龍)に因む。
 1709年、寂如の時、廟塔前に拝堂(明著堂)を建立する。
 1710年、総門が建てられた。
 1716年、寂如の時、「明著堂」の額を書し拝堂正面に掲げる。以後、明著堂と呼ばれた。
 1724年、玄関、対面所、聴聞所、納骨堂が造られる。
 1771年、境内11295歩あり、8000基の墓塔が並んだ。
 1860年、20代・広如の時、総門に九条尚忠筆の扁額「大谷本廟」を掲げる。
 1867年、二天門より出火し、仏殿、玄関、対面所、奥書院、輪番所、納骨堂、香積などを焼失する。
 近代、1870年、現在の仏殿、仮書院、香積、納骨所が再建された。
 1872年、21代・明如の時、二天門を再建する。
 1899年、書院を再建した。
 1908年、対面所、聴聞所、手水屋形、通用門が建てられた。
 現代、1969年、第一無量寿堂(納骨所)、会館が造営される。
 1990年、新無量寿堂(第二無量寿堂)が建てられた。
◆祖廟 祖廟(祖壇)には、親鸞の遺骨とともに、本願寺歴代、門徒の遺骨が納められている。
◆親鸞 平安時代-鎌倉時代の僧・親鸞(しんらん、1173-1263)。京都の日野(伏見区)に長男として生まれた。父は藤原北家の流れをくむ日野有範。母は源氏の出身。幼くして両親を失う。1181年、叔父・日野範綱に連れられ、1181年、9歳で青蓮院・慈円のもとで出家得度し範宴(はんねん)と称した。以後、比叡山横川首楞厳院の堂僧として20年間修行を続けた。東塔無動寺谷の大乗院で修業する。1201年、29歳の時、比叡山を下り、六角堂に参籠、師・源空(法然)の導きにより、浄土教に帰依した。1204年、法然が定めた「七箇条制誡」弟子のひとりとして連署する。1205年、法然は『選択本願念仏集』の書写、法然肖像を描くことを許す。1207年、承元(じょうげん)の法難により、専修(せんじゅ)念仏停止(ちょうじ)にともない、35歳で越後に流罪になり、僧籍剥奪される。禿釈親鸞と自称する。1211年、赦免され、1214年、42歳で妻・恵信尼、子らとともに関東での布教を行った。晩年、1235年頃、恵信尼らと別れ、末娘・覚信尼と京都に戻る。1256年長男・善鸞を義絶した。弟・尋有の善法坊で90歳で亡くなったという。浄土真宗の祖。
 浄土真宗の教義が体系化された6巻からなる『教行信証』(1224)などを著した。この年に立教開宗し、「非僧非俗」を宣言した。罪深い身である者は、阿弥陀仏の本願力を信じ、念仏を唱えることが基本であるとした。絶対他力の自然法爾、悪人こそが本願により救われるという悪人正機を唱えた。
◆覚信尼 鎌倉時代の親鸞末娘・覚信尼(かくしんに、1224-1283)。常陸国に生まれた。11歳で親鸞とともに帰京、初めは日野広綱の側室となる。その没後、親鸞と同居し、親鸞没後は葬送、拾骨を行った。
 その後、小野宮禅念と再婚し、吉水北辺(崇泰院付近)の大谷に住んだ。この地に、1272年、親鸞の廟堂(影堂)を建立する。1274年以後、覚信尼と子孫は、廟堂の留守職(管理権)になっている。
◆八尋不二 近現代の脚本家・八尋不二(やひろ ふじ、1904-1986)。福岡県生まれる。明治大学政経学部中退、1927年、マキノ・プロダクション御室撮影所で「学生五人男」が初脚本になる。1928年、東京・河合映画製作社に入社、1931年京都・帝国キネマに移籍する。1934年、脚本家8人で鳴滝村に「鳴滝組」を結成した。山中貞雄、萩原遼らと共同ペンネーム「梶原金八」を使う。1937年、組の活動を停止した。1939年、「沼津兵学校」、1942年、「大村益次郎」、戦後1947年東横映画で「金色夜叉」、1954年、溝口健二監督「山椒大夫」(ベニス映画祭銀獅子賞受賞)、1958年忠臣蔵物の最高傑作「忠臣蔵」、1960年、秀作「千姫御殿」を手がけた。監督・伊藤大輔らと雑誌「時代映画」を編集・発行した。500本の脚本を執筆した。
 墓は西大谷墓地にある。
◆文学 鳥辺野(とりべの)は、清水寺南より今熊野一帯の丘陵地をいう。『源氏物語』第4帖「夕顔」巻では、鳥辺野で夕顔の葬送が営まれた。葵の上は荼毘に付された。 
◆映画 映画「ゴー!ゴー!若大将」(主演・加山雄三、監督・岩内克己、1967年、宝塚)では、全日本学生ラリー選手権の場面で、大谷本廟横の国道1号線が登場する。
◆墓 脚本家・八尋不二(1905-1986)の墓がある。
◆樹木 ソテツがある。
◆年間行事 春季彼岸会(3月17日-23日/18日-24日)、総追悼法要(4月17日-18日)、覚信尼祥月法要(5月11-12日)、納骨・永代法要(6月25日-28日)、朝の法座(8月6日-10日)、盂蘭盆会(8月14-15日)、秋季彼岸会(9月20日-26日)、龍谷会(報恩講)(10月15-16日)。


*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都の寺社505を歩く 上』『京都古社寺辞典』『源氏物語を歩く旅』『京都の地名検証』『シネマの京都をたどる』『京都シネマップ 映画ロマン紀行』『京都 神社と寺院の森』


  親鸞御荼毘所(御荼毘所)           崇泰院      西本願寺     大谷祖廟         


仏殿(本堂)

仏殿(本堂)

二天門


八角堂、祖壇の奥にある。


祖壇

明著堂、東西5間、南北10間、内部に柱がない。

明著堂、江戸時代、1709年の14世・寂如筆の扁額。

明著堂、さらに奥に祖壇がある。

鐘楼

守衛室

戦没者記念堂

親鸞像


覚信尼公碑

殉教碑

本廟内石窟、親鸞が学問をした場所という。江戸時代の『京童跡追無』(1667)に記されているという。石窟は親鸞の廟堂(大谷廟堂)のあった祟泰院付近より移されたという。『大谷本願寺通記』(1785)。入口付近に漆喰の跡、踏石があり、かつては扉が付けられていたという。石材には、江戸時代の石仏、五輪塔、小形板碑などが使われているという。

本廟内石窟内部

大賀蓮(古代の蓮)、1951年、当時の東京大学検見川厚生農場(落合遺跡)で、遺跡調査をしていた女子中学生により、地下約6mの泥炭層からハスの実3粒が発見された。実は、約2000年前、弥生時代のものと確定された。ハスの権威者・大賀一郎博士(1883-1964)は発芽を試みたが、2粒は失敗に終わり、残りの1つが発芽、翌年にピンク色の花が開いた。その後、大賀蓮は「世界最古の花」として、国際的な話題を呼び、世界各国へ根分けされている。 

東山

大谷墓地
 大谷本廟 〒605-0846 京都市東山区五条橋東6丁目514  075-531-4171

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