真如堂 (真正極楽寺) (京都市左京区)
Shinnyo-do Temple 
真如堂 真如堂
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赤門(総門)、敷居がないのは神楽岡(かぐらおか)の神々が、夜に参集するのに邪魔にならないためという。
















参道









本堂(真如堂)(重文)


本堂扁額












三重塔(法華塔)(京都府指定文化財)


三重塔、紅葉の頃、楓は「花の木」と呼ばれる。

























サガギク


ハギ



ヒガンバナ



シャガ







アセビ









万霊堂、地蔵菩薩を安置、1934年、三井財閥本家の寄進による。


経堂
 真如堂(しんにょどう)は、神楽岡(かぐらおか、吉田山、中山)に位置している。古くより、女性を救済する「女人の寺」と呼ばれた。「真如堂さん」とも呼ばれている。
 真如堂とは本堂を意味し、本尊の阿弥陀如来立像を安置した。正式には真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)という。この地が、「仏法有縁真正極楽寺」の霊地であったことに因むという。山号は鈴声(聲)山(れいしょうざん)という。
 天台宗、本尊は阿弥陀如来。 
 神仏霊場会第111番、京都31番。六阿弥陀巡拝(洛陽六阿弥陀めぐり)1番。新長谷寺の十一面観世音菩薩は、洛陽三十三観音巡礼第5番札所。地蔵堂の鎌倉地蔵は、洛陽四十八願所地蔵めぐり(京都四十八願寺)の第23番札所本尊。京の通称寺霊場22番、真如堂。
 極楽往生、女人往生などの信仰がある。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 現在地は、古くより神楽岡と呼ばれ、「仏法有縁真正極楽の霊地」とされていた。
 平安時代、984年、994年とも、戒算が、延暦寺常行堂に安置の円仁自刻という阿弥陀如来像を、神楽岡東の女院離宮(東三条院の離宮、現在の元真如堂・換骨堂付近)に遷して開創したという。請願は、東三条院の宮(第66代・一条天皇母・藤原詮子)による。(『真如堂縁起』)
 992年、離宮は寺に改められたという。本堂(真如堂)が建立される。一条天皇の勅願により戒算が開基したともいう。
 995年、994年とも、一条天皇の勅命により本堂を建立し勅願寺になる。当初は天台宗だった。本尊・阿弥陀如来立像を真如堂に遷座する。戒算が移った。
 1166年、覚快親王が入寺する。(『真正極楽寺記』)
 1171年、治承の乱後、荒廃する。その後、勧進により復興される。
 1181年、慈円が別当に就く。以後、伽藍が整えられ、不断念仏道場になる。(『真正極楽寺記』)
 鎌倉時代、1325年、第96代・後醍醐天皇は仏舎利を寄進した。(『真如堂縁起』)
 室町時代、1379年、焼失する。
 1468年、応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失、その後荒廃した。難を逃れ本尊は、比叡山西塔・黒谷青竜寺へ遷され、その後も坂本・宝光院へと遷された。
 1484年、1485年とも、室町幕府8代将軍・足利義政と妻の日野富子は、神楽岡東の土地2町を寄進し、旧地(元真如堂)に戻る。(「真如堂文書」足利義政寄進状)
 1503年、一条町(一条大路町尻小路西、上京区元真如堂町)へ移る。
 1521年、旧地に戻り再建されたともいう。本堂供養がある。(『実隆卿記』)
 永禄年間(1558-1570)、再び一条西洞院に移る。
 安土・桃山時代、1569年、織田信長の二条城構築(上京区)に伴い、寺地は替地に移転になる。(『言継卿記』)
 1585年、羽柴秀吉が寺領を安堵する。
 1587年、天正年間(1573-1592)とも、豊臣秀吉の命により、東京極大路今出川(上京区真如堂突抜町・真如堂前町)に再移転させられた。
 江戸時代、1606年、本堂を建立した。
 1615年、徳川家康が寺領を安堵する。(『真如堂文書』)
 1661年、焼失する。
 寛文年間(1661-1673)、鎌倉地蔵は、第112代・霊元天皇の命により、僧・宝山が洛外・六地蔵以外の48か寺の地蔵尊を選んだ洛陽四十八願所の霊場のひとつになる。
 1692年、焼失した。
 1693年、28世・尊通の時、第113代・東山天皇の勅願により、旧地(元真如堂)の西南にあたる現在地に移る。(『続史愚抄』)。再び天台宗に戻った。旧地には、念仏堂と呼ばれる小堂宇が残された。その後、輪王寺門跡末寺になり、青蓮寺が寺務した。
 1695年、現在の総門が建立される。
 1703年、本堂真如堂の上棟が行われる。
 1817年、現在の三重塔が建立される。
 1830年、大地震により被災し、一時荒廃した。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、吉田神社神宮寺の新長谷寺の本尊・十一面観音立像が移築、遷された。
 1908年、日本で最初の時代劇映画「本能寺合戦」が真如堂で撮影された。
◆戒筭 平安時代中期の僧・戒筭(かいさん/かいざん、963‐1053)。比叡山で天台を学び、後に浄土教を修めた。984年、994年とも、延暦寺常行堂に安置の円仁自刻という阿弥陀如来像を、神楽岡東の女院離宮(東三条院の離宮、現在の元真如堂・換骨堂付近)に遷して真如堂を開創したという。
◆藤原詮子 平安時代の藤原詮子(ふじわら の せんし、あきこ、962-1002)。第64代・円融天皇女御。第66代・一条天皇の母で、院号は東三条院。摂政関白・太政大臣の藤原兼家の次女として生まれた。978年、入内し、980年、第1皇子・懐仁親王(後の一条天皇)を生む。一条天皇即位後、986年、皇太后となる。円融法皇没後に出家し、東三条院と称した。
 真如堂建立は、東三条院の夢告に従ったという。夢に現れた比叡山の阿弥陀如来が、女人救済のために山から下ろして欲しいと告げた。女院離宮も東三条院の御所で、現在の境内の東北に隣接する元真如堂付近にあった。
◆斎藤利三 室町時代の武将・斎藤利三(さいとう としみつ、1534-1582)。父・斎藤利賢の次男、母・蜷川親順女。土岐氏、斎藤道三より斎藤氏3代、織田信長、豊臣秀吉に仕える。美濃国曽根城主で、安藤守就、氏家直元と併せて西美濃三人衆と併称される。三人衆の一人稲葉一鉄が織田氏へ寝返り、その家臣になり、美濃曽根城主になる。後、稲葉一鉄と別れ、明智光秀に仕え、筆頭家老として丹波黒井城主になる。1582年、光秀の織田信長に対する謀反の本能寺の変後、羽柴秀吉との山崎の戦いで敗走した。秀吉方の捜索により近江堅田で捕縛、六条河原で斬首された。首、胴は光秀とともに本能寺に晒されたともいう。首級は親交の深かった絵師・海北友松により、真正極楽寺へ葬られた。妙心寺・智勝院にも墓がある。
◆養阿
 江戸時代の木食僧・養阿(ようあ、1687?-1763)。丹波国桑田郡保津村の村上庄右衛門の子。木食正禅、木食養阿などとも称した。幼くして父を亡くし、京都銀座の手代を経て、24歳で泉涌寺・雲竜院の恵雄により出家、朋厚房正禅と名乗った。1711年、高野山に上り、木食恵昌に師事、五穀を断ち木の実を食する木食行に入る。甲賀郡安養寺(現嶺南寺)、高野山で木食大戒を修めて大阿闍梨になる。信濃の善光寺、美濃の国一円を行脚した。七条大宮の梅香庵に住し、念仏聖として洛中洛外の無縁墓地を回り供養、名号碑を建立した。1719年、勧進により弥陀如来像を造立し真如堂に安置した。享保年間(1716-1736)、1720年とも、狸谷山不動院で入籠し木食行に入る。参詣者が絶えず、幕府の弾圧により五条坂に移る。1725年、安祥院を再興し、勧進により、1738年、日ノ岡峠、1747年頃、渋谷街道の修築工事を行い、峠道の管理所、休憩所の 梅香庵(木食寺)を建てた。1752年、松明殿稲荷神社に井戸を掘る。石橋の架設、寺社の敷石などの土木工事も行う。1741年、法橋上人位を授与され、養阿 に改めた。安祥院で即身仏になり墓塔に納められた。
◆牧野省三 近代の映画監督・牧野省三(まきの しょうぞう、1878-1929)。映画製作者、脚本家、実業家。京都府北桑田郡山国村生まれ。父は漢方医・山国隊の藤野齋、母は娘義太夫師・竹本弥奈吉 (牧野彌奈)。1901年、劇場「千本座」を母とともに買収し開場した。後に千本座の経営を任された。1908年、横田商会の依頼により、真如堂の境内で「本能寺合戦」を初めて撮影した。1912年、合併した日活で関西撮影所の所長就任。1919年、日活在籍のままミカド商会を設立し、1920年、ミカド商会は横田商会により日活に吸収され、省三は日活に戻る。1921年、等持院境内に牧野教育映画製作所、等持院撮影所を開設した。1922年、『実録忠臣蔵』を撮り大 ヒットする。1923年、マキノ映画製作所に改組、1924年、東亜キネマに吸収合併され、東亜キネマ甲陽撮影所・等持院撮影所の所長就任。1925年、主演・ 澤田正二郎の『国定忠治』で大ヒットした。独立しマキノ・プロダクションを設立した。1929年、国産ディスク式トーキー『戻橋』を完成した。300本以上 の時代劇映画を製作、尾上松之助ら多くの映画人を育て「日本映画の父」と呼ばれた。墓は等持院にある。
◆本尊 本堂の本尊「阿弥陀如来立像」(重文)(108.4㎝)は、「三国無双の阿弥陀如来」と賞賛された。平安時代後期の作になる。一木彫で、印相の九品来迎(くぽんらいごういん)の来迎仏では最古例という。慈覚大師(円仁、794-864)作という。円仁は、第3代天台座主、入唐八家の一人になる。
 「うなずきの弥勒(阿弥陀)」「頭(かぶ)振りの阿弥陀」ともいわれる。円仁が唐より帰国後、近江の苗鹿明神(みょうかみょうじん)で見つけたカヤの霊木を二つに割った。そのうちの一つで自ら仏を彫ったという。片方はそのままにした。838年、円仁は唐の五台山で生身の文殊菩薩より引声阿弥陀経を授けられる。帰国の際に引声を忘れたため、船上より仏に祈ると、阿弥陀如来が現れ一節を教えた。円仁はこの如来を持ち帰り、残りのカヤの木で阿弥陀を刻み、その胎内に納めた。
 また、円仁は、比叡山の修行者の本尊になるようにと、如来の眉間に白毫(びゃくごう、仏の眉間のやや上に生えているという白く長い毛)を入れようとした。だが、如来は頭を三度横に振り拒否したという。円仁が、それでは京都に下り、一切衆生を導き女人を救うように請うと今度は三度頷いたという。
 円仁は、そのまま白毫を入れることをためらい、如来を比叡山常行堂に本尊として安置した。円仁没後、如来は東三条院と戒算の夢に老僧として現れ、そのお告げに従い、一切衆生済度のために都に下り真如堂の本尊になったという。(『花洛名勝図会』、1864)
 また、本尊は第66代・一条天皇母皇后が夢告により、延暦寺常行堂より女院の離宮に遷したものを東山に安置した像ともいう。10世紀後半になり、その像を摸刻したものが現在の像ともみられている。(『真如堂縁起』)
 本尊・阿弥陀如来像には、もうひとつの逸話がある。真如堂に安置された後、室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により真如堂は荒廃、阿弥陀如来も行方不明になった。安土・桃山時代、1603年、深誉は伏見の荒れた堂内に、金色に輝く阿弥陀如来を見つける。その姿に心痛め、持ち帰って五条に仏堂(大蓮寺)を建て安置した。
 再興された真如堂では、かつての本尊を探していた。やがて大蓮寺の像は、真如堂本尊であることが知れる。大蓮寺は、幕府から返還するように命じられる。深誉は念仏を称え、満願の21日目の朝になると、阿弥陀如来像が二体に分かれたという。このため、大蓮寺と真如堂で一体ずつを安置することになったという。
 また、深誉が念じ続けたところ、最後の夜に旅の僧が現れともに念じた。翌朝、僧の姿はなく、阿弥陀如来が二体になっており、両寺に分けて安置したという。
 本尊に対して、法然、親鸞は篤い信仰を寄せた。女性の篤い信仰も集める。洛陽六阿弥陀めぐりの第一番で、11月15日に限り開扉されている。
◆仏像・木像 本尊の脇に安置されている「千手観音」は、天台宗開祖・最澄(767-822)作と伝えられる。
 本尊脇侍の「不動明王坐像(長寿不動)」は、智証大師円珍(814-891)作という。平安時代の陰陽師・安倍晴明(921? -1005)の念持仏といい、晴明を横死の危機から救ったという。 
 本堂中陣に、浄土真宗開祖・親鸞(1173-1263)自作という、木像「合掌の御影」が安置されている。親鸞は当寺にも参籠し、阿弥陀如来を参拝している。像は一時、仏願寺に遷され、1945年頃に再び戻された。
 書院には、本尊の前立の「阿弥陀如来立像」、「親鸞聖人合掌像」、「不空羂索観音」が安置されている。
 お茶所には、「阿弥陀如来像(一光三尊善光寺如来)」が安置されている。江戸時代、1694年に開帳され、50日間法会執行され、そのまま当寺に奉安された。「日本三大如来」(ほかに長野善光寺、嵯峨釈迦堂清凉寺)の一つに数えられ、善光寺如来の分身といわれる。全身が黒いことから「黒如来」とも呼ばれている。
 「不動明王像」には、「永正十六年(1519年)」の修補銘がある。
 露座の「銅製阿弥陀像」は、江戸時代、1719年の造立になる。
 塔頭・法伝寺に、空海が刻んだという茶吉尼天像が安置されている。白狐に女性が乗っている。
◆唐金陀如来 
境内に安置されている唐金(からがね)弥陀如来は、江戸時代、1719年、六阿弥陀めぐりの祖・木食正禅(もくじきしょぅぜん)により建立されたという。
 唐金弥陀如来の台座正面、蓮弁に「木食正禅 造立」、像の背面に「寒夜三十日念佛修行例年墓回り成就廻向佛併書寫大乗妙典血經一部御内服納之 木食正禅造立 享保四巳亥歳八月十五日 弟子 蓮入 朋真 願真」と刻まれている。
 木食正禅は、造立のために3人の弟子と勧進を行い、正禅自らが作った像の首模型を担いで廻ったという。完成した像は、翌年、地車に載せ人々が曳いて真如堂へ運び込んだ。鋳造は六条大宮辺の鋳物師庄右衛門・喜兵衛による。銅製。
◆建築 本堂、開山堂、元三大師堂、薬師堂、三重塔、千体地蔵堂、鐘楼などがある。
 「本堂(真如堂)」(重文)は、江戸時代、享保年間(1716-1736)に建てられた。正面障子にケヤキ材素木の孔を開けただけの「引手」がある。7間7面、ケヤキ造、単層、入母屋造、本瓦葺。
 
「三重塔(法華塔)」(京都府指定文化財)は、江戸時代、宝暦年間(1751-1764)建立になる。1696年ともいう。江戸時代、1817年に再建された。当初、4仏が祀られていたという。後、舎利宝塔を安置した。下層中央に桟唐戸、左右に連子窓、擬宝珠勾欄付。方3間。本瓦葺。高さ30m。
 
「鐘楼」は、江戸時代、1759年に建立された。
◆鎌倉地蔵尊 地蔵堂に、下野国那須野の殺生石(せっしょうせき)で造られたという等身大の「地蔵菩薩」が安置されている。
 1300年前、中国殷(いん)に「白面金毛九尾」という、金色の毛と9つの尾を持つ狐がいたという。もとは天竺におり、千人の王の首を取った班足太子の塚神になる。中国に渡り美女姐妃の褒似に化け、皇帝紂王を虜にし国を傾けさせたという。やがて、正体が見破られた狐は日本に渡る。
 狐は右大臣・藤原道春の妹・初花姫、さらに玉藻前(たまものまえ)という才色兼備の女に変身し、鳥羽上皇の官女になり寵愛を受ける。上皇が病に罹り、玉藻前は上皇兄の薄雲皇子と謀る。安倍晴明の子孫で7代の陰陽師・安倍泰観(泰親とも)は、泰山府君祭を行い、これを見破り調伏した。狐は空を飛び下野国那須野原へと逃れた。上皇は、上総介広常、三浦介義明に狐退治を命じる。二人は神前で百日行を行い、狐退治のお告げを受けた。上総介の弓は狐を射抜き、三浦介が止めをこれを刺した。狐の魂は石になり、悪霊になり生き物を殺した。このため、「殺生石」と呼ばれ怖れられた。
 室町時代の僧・玄(源)翁禅師(1329-1400)は、文和年中(1352-1356)、石を柱杖(きり杖)で叩いて割り、悪霊を成仏させた。三つ(一つは成仏して消え去り、二つであったとも)に割れた石の一つで地蔵菩薩を刻み、鎌倉に建てた堂に祀った。金鎚のことを「げんのう(玄(源)翁)」というのは、禅師の名に由来するという。
 江戸時代初期、慶長年間(1596-1615)、像を信仰した慈眼大師の実弟で、幕府作事方大棟梁・甲良豊後守(1574-1646)に夢告があった。地蔵尊が真如堂に遷すようにと告げ、当寺に遷したという。(『鎌倉地蔵略縁起』)
 話は謡曲『殺生石』、『絵本三国妖婦伝』『玉藻前三国伝記』などにもある。地蔵尊は、福寿、延命、無実の罪を晴らし、心の病治癒の功徳があるという。
◆新長谷寺 新長谷寺は、洛陽三十三所第五番札所になる。かつて寺は、吉田神社の神宮寺として神楽岡西、藤原山陰邸内にあり、近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により本尊・十一面観音立像が真如堂に遷された。
 平安時代、第107代・陽成天皇(在位877-884)の頃、越前守・藤原高房は、西国に3歳の子を連れて赴いた。一人の猟師が亀を殺そうとしている。高房はその亀を助けた。翌朝、高房が出帆すると、海が荒れており、過って子が海に落ちた。助けた亀が現れ、子を背に乗せてその命を救った。高房は信心している長谷観音のご加護であるとして帰依したという。
 子は後の中納言・藤原山蔭であり、妻、子と幸せに暮らした。妻、病没後、後妻を迎える。子が生まれると、継母は先妻の子が疎ましい。山蔭が大宰府長官に任じられ、一家は九州に赴く。継母は船上から子を海へ突き落とした。山蔭が子を探していると、かつて山蔭を救った亀が再び現れ、その子も助けた。山蔭は、子を家に帰しても不憫だと思い、高僧に託したという。
 山蔭は、自らとわが子を2度救った大亀は、観音のご加護であるとして、神楽岡に新長谷寺を建立した。また、大和国の長谷寺(ちょうこくじ)十一面観音像を写した像を作り、春日仏師により8尺の大像を前立としたともいう。
◆石薬師堂 
石薬師堂の本尊は伝教大師作という石薬師如来になる。794年、平安遷都の頃、大地より光沢のある蓮華の蕾のような大石が現れたという。第50代・桓武天皇(在位781-806)は、石の上にお堂を建て、石の頭で薬師如来を彫りこれを安置した。その後、洛中では不思議なことが相次いだという。
 江戸時代、第106代・正親町天皇(在位1557-1585)は、今出川内府に命じて真如堂の僧・全海により、本尊として安置したという。
 現在の建物は、1966年に金光院(東山五条)より移された。
◆元三大師堂 元三大師堂(京都府指定文化財)は、平安時代の天台座主で中興の祖・元三大師(慈恵大師良源)画像を祀る。左に石薬師如来を安置する。
 大師は降魔(ごうま)大師ともいわれ、魔除けの符として貼られる角大師(つのだいし)、おみくじ「観音籤」という100番の発案者という。毎月3日に、護摩が焚かれる。京洛十八大師めぐり三番になる。
◆縣井観音堂 
縣井(あがたい)観音堂には、かつて本尊・閻浮壇金(えんぶだんごん)如意輪観世音菩薩(縣井観世音)が安置されていた。
 鎌倉時代、承久年中(1219-1222)、東洞院辺り(京都御苑内とも)に「縣井」が湧いた。井戸からは夜な夜な光が放たれ、御経が聞こえたという。第84代・順徳天皇の命により調べると、井戸の底に五寸あまりの仏が見つかった。仏像は真如堂に遷され、寺号を「法伝寺」とした。難産を救うとの信仰がある。
◆塔頭 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)後の再建により、塔中十二坊が創建された。近代、四坊が合併されるなどして、現在は8院(東陽院、松林院、吉祥院、覚円院、法輪院、理正院、喜運院、法伝寺)がある。また、その後、地蔵庵が再建された。また、北野神社にあった二末寺は廃寺になった。
◆神楽岡 境内のある神楽岡は、古くは中山とも呼ばれ、神との関わりが深い。
 神楽岡一帯は、神代の時代に、八百万の神が神楽を舞った聖地になっていたという。真如堂山門には敷居がない。夜に参集する神々の邪魔にならないように配慮されたためという。神々の乗る馬の蹄を痛めないためともいう。
 また、鈴声山の号も、神々の鳴らす鈴の音が響き渡る山を意味しているという。
 平安時代初期には、遊猟地康楽岡としても知られていた。南麓、栗原岡、中山は葬送地にもなっていた。
 土蜘蛛(山蜘蛛)にまつわる伝承もあり、源頼光と渡辺綱は、蓮台野で髑髏が空を飛び、神楽岡の森に消えるのを見た。あばら屋にたどると、巨大な蜘蛛の化け物がおり、これを退治した。(『土蜘蛛草子』)。このような土蜘蛛伝承は、時の権力に抗した勢力への賤称が基にあるとみられている。
◆安倍晴明・陰陽師 平安時代の陰陽師・安倍晴明(921-1005)、その子孫の陰陽家・土御門家に関する伝承がある。晴明が亡くなった時、晴明の念持仏の不動明王坐像も閻魔王宮に行く。不動明王坐像は閻魔大王に、晴明はまだ現世にいるべき人であり、現世に戻すようにと訴えた。閻魔大王はこれを聞き入れ、「結定往生之秘印」を授けて晴明を蘇生させたという。寺宝として自然石に五芒星を陰刻した印鑑(御本尊閻魔大王印鑑)が伝わる。晴明がこの世に戻った際に、懐中にあった印という。
 また、室町時代、文政年間(1444-1449)、陰陽師・安倍有道は、坐像の安倍家への返却を後花園天皇に請願し、天皇はそれを命じたという。坐像を唐櫃に納めて遷す途中、宮中の天皇に披露しようとした。符を切り櫃を開けると坐像は消えていた。その坐像は真如堂に戻り、東向きから北向きに座り直し、剣を膝に置いていたという。以後、不動明王坐像は真如堂に安置し続けることになったという。(『真如堂縁起』)
 晴明が閻魔王宮を訪れた際の様子を描いた、掃部助久国(かもんのすけひさくに)作の「安倍晴明蘇生図」は、宝物虫払会(7月25日)で一般公開されている。拝観者は晴明が閻魔大王から贈られたという五芒星を象る金印を押した紙「結定往生之秘印」を頭に当て加持を受け、往生極楽護符が授けられる。天寿全う、極楽往生のご加護があるという。
 晴明の念持仏の不動明王像は、11月15日に公開されている。
 境内に、江戸時代前期の公卿(非参議)・陰陽家の土御門泰福(1655-1717)の墓、土御門家、1612年、土御門泰吉に始まる別家・倉橋家の墓など50基ほどがある。遠祖は阿部倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)にあり、真如堂が一条大橋(元真如町辺)にあった際に、近くに晴明の邸宅(土御門町辺)があったことから関係が生まれたとみられている。
◆六阿弥陀巡拝 六阿弥陀巡拝(めぐり)」は、江戸時代、1717年に安祥院の養阿が阿弥陀仏の霊感を受けて発願したものという。縁日の日には、真如堂で洛陽六阿弥陀巡拝の証をもらい、蓮華の朱印を受け、先祖回向、極楽往生を祈願する。その後、永観堂、清水寺阿弥陀堂、安祥院、安養寺の順で回り、誓願寺で結願する。功徳日とされる1月15日、2月8日、3月14日、4月15日、5月18日、6月19日、7月14日、8月15日、9月18日、10月8日、11月24日、12月24日、春秋彼岸に3年3か月巡拝する。無病息災、家運隆盛、諸願成就を得ることができるという。
 札所は、1番・真如堂(真正極楽寺、左京区)の阿弥陀如来、2番・永観堂禅林寺(左京区)の阿弥陀如来、3番・清水寺(東山区)の阿弥陀堂の阿弥陀如来、4番は安祥院(日限地蔵、東山区)の阿弥陀如来、5番・安養寺(中京区、新京極)の阿弥陀如来、6番・誓願寺(中京区、新京極)の阿弥陀如来になる。
◆赤崎弁天 赤崎弁天(弁財天)は、弁才天本坐像を安置する。室町時代、1519年、美作国に善阿弥という念仏行者が、真如堂の勧進を周防国赤崎弁財天宝前で行い、断菜木食して祈念し、足利義政の寄進により成就した。このため、後に勧請した。八臂像で八手に、弓、刀、斧、羂索、三股軾、独鈷杵、輪、箭を持つ。
◆文化財 仏師運慶の願経の平安時代、1183年の「法華経六巻」(国宝)は、安元年間(1175-1177)、運慶が法華経書写を発願し、阿古丸の援助、快慶、一門の仏師により書写された。
 室町時代、「永正七年(1510年)」修銘のある「元三大師画像」。
 江戸時代、1670年作の「文殊菩薩画像」(重文)。
 室町時代、1524年、土佐派の掃部助久国(かもんのすけひさくに)作の「真如堂縁起」三巻(上中下巻)(重文)には、阿弥陀如来の前身法蔵比丘の故事、本尊、真如堂建立と沿革、応仁の乱による本尊移転、阿弥陀如来の霊験、再建された本堂の落慶供養なども描かれている。また、安倍晴明判伝説の初見史料になっている。原本は京都国立博物館寄託、宝物虫払会(7月25日)で写本が公開されている。
 「慈円僧正消息」(重文)、江戸時代の狩野山楽筆「寒山拾得」、足利義政寄進の油壷「ルソンの壷」は「釉貼花花卉鳳凰六耳壺」ともいわれる。当時は「汲めども尽きぬ真如堂の油壺」ともいわれた。
 鎌倉時代、1325年に後醍醐天皇により寄進の「舎利塔」、江戸時代中期の「鶯丸刺繍観経曼荼羅」、江戸時代中期の「親鸞聖人座像」。
 江戸時代中期の海北友賢、僧・厭求(えんぐ)筆の「涅槃図(大涅槃図)」(縦6.2m、横4.5m)は、釈迦入滅に際して集まった菩薩、天部、法弟、さらに127種と日本で最も多い生き物(象、キリン、昆虫など)が色鮮やかに描かれている。左下には水辺が描かれており、烏賊、蛸、鯨などの海洋生物もいる。1709年に制作され、三井家の女性により寄進されたものという。
 本堂の三尊奉安の厨子は、江戸時代、元禄年間(1688-1704)、5代将軍・徳川綱吉と母・桂昌院の寄進による。
 書院の孔雀の間、鶴の間に前川文嶺の障壁画がある。
 
鐘楼に吊るされている梵鐘は名鐘とされ、撞木の叩き方、天候で音色が変わるという。太平洋戦争中(1942)の金属供出により持ち出された。府下で集められた数は990にもなったという。全国からは1万個以上が集められた。多くは潰され、わずかに残された30(全国では380個ほど)ほどのひとつという。香川の精錬所にあった。戦後、1946年、三井造船玉野工場業務部長(当時)・三田三郎の尽力により奇跡的に寺に返還されたという。 梵鐘には、金属供出の際に、材質を確認するために開けられたという二つの小さな穴が開いている。
◆庭園 書院東の「涅槃(ねはん)の庭」は、1988年、曽根三郎(1946-?)作庭による。直線と曲線により刈り込まれた二段の生垣の奥に、大文字山と東山を借景として取り入れた枯山水式庭園になる。曽根の作庭としては、天龍寺方丈前庭園がある。
 築山と白砂、桧の巨木、楓などが配置されている。東山の稜線に呼応するように、苔地の築山に、左を頭にして横たわった釈迦が巨石で組まれている。その周りに、集まった5人の弟子と釈迦の生母、そのほかの生類、水生の生き物を表したという石が据えられている。石は、木曽川上流から運ばれたという。
 「随縁の庭」は、2010年、重森三玲孫・千菁(ちさお)により作庭された。随縁とは、随縁真如、絶対不変の真理も、時としてさまざまな変容を見せることを意味する。仏殿蟇股にある四つ目の家紋が題材になっており、葛石で囲まれた四角形、五角形は黒色と灰色の枠になり、その中心に石が据えられている。これらは、白川砂、砂利、黒砂利、たたき、苔、植栽により構成され、複数の多角形の組み合わせによる幾何学的な意匠になっている。石のチャートなど主な材は、境内にあったものが再利用され、玉垣、墓石も用いられた。植栽も以前よりあった槇、檜、オトヨウゾメなどが使われている。
 
庭園に据えられている本歌・燈明寺型石燈籠は、作者は不明という。鎌倉時代、山城国にあった燈明寺(相楽郡加茂町)に伝わる石灯籠で、もとは9基あったという。日本一古い灯籠ともいう。鑿と金槌だけで造られ、接着されていない。新町三井家山居士(1788没)が寺より入手、新町の同邸に置かれていた。1955年、東京水道町の邸に移された。1985年に6個の基壇石、火立石とともに当寺に寄贈された。
◆たてかわ桜 立皮桜(たてかわざくら)は、幹に松の木のような筋が縦に入る。江戸時代、3代将軍・徳川家光の乳母・春日の局(1579-1643)が、父の斉藤内蔵介利三の菩提を弔うために植えたという。
 もとは、エドヒガン系、幹廻り1mの巨木だった。1958年の伊勢湾台風により倒木した。その後、接木により復活している。
 水上勉は『桜守』で、この桜を題材にした。桜守の「宇多野」が接木に成功する設定になっている。だが、実際には、京都の著名な桜守による接木は活着しなかった。当寺の貫主が接木に成功したと説明板にある。
◆映画 境内の一角に「京都映画誕生」の碑が立てられている。1908年、牧野省三は横田商会(横田永之助)の依頼により、真如堂境内でチャンバラ劇映画「本能寺合戦」を初めて監督し撮影した。日本初の時代劇映画になる。境内を本能寺に見立て、森蘭丸の奮闘場面が撮影された。牧野の千本座の役者らが出演している。
 時代劇映画「鬼平犯科帳」(1995年、松竹)の撮影が行われた。境内に茶店が設けられた。江戸の大泥棒・荒神のお豊(岩下志麻)が、火付盗賊改方長官・長谷川平蔵(2代目中村吉右衛門)を見かける。
◆墓 江戸時代、第111代・後西天皇皇女・真珠院宮、藤原氏一門、正親町家、冷泉家、油小路家、六角堂池坊家、春日局の父・斎藤内蔵助利三、蜷川親長、猪飼敬所、海北友松、中林竹洞、竹渓、望月玉泉の墓などがある。
 斉藤内蔵介利三(1534/1538?-1582)は、明智光秀の重臣であり、本能寺の変(1582)後、山崎の戦いにも参戦、だが、秀吉軍に近江堅田で捕まり、六条河原で斬首された。首は、当寺の東陽院の開祖で利休とも親交があった東陽坊長盛(1515-1598)と、利三と親しかった画家・海北友松(1533-1615)により奪って持ち帰えられたという。真如堂に葬られた。現在、利三と友松の二人の墓は、並んで眠っている。
 
江戸時代前期の公卿(非参議)・陰陽家の土御門泰福(1655-1717)、土御門家の墓もある。
 
安倍晴明の子孫の墓として、安倍晴明の19世で陰陽師・土御門久脩(1559-1625)は、安倍有脩の子になる。1572年に元服し、陰陽頭、左馬助、天文博士を歴任した。織田信長、豊臣秀吉に仕える。1595年に秀吉により追放され若狭国名田庄に移る。1600年に京都に戻り、徳川家康に陰陽道宗家と認められ、公家昵懇衆のひとりとして仕えた。家康、秀忠、家光、後水尾天皇などの即位を祝う天曹地府祭を執行した。
 その久脩の次男、初代民部卿・倉橋泰吉(1599- 1670) が、1612年に勅許により別家・倉橋家を創設した。倉橋家の遠祖は飛鳥時代の官人・阿部倉梯麻呂(?-649)といい、大和国十市郡倉橋が出身地になる。
 
江戸時代前期の公卿(非参議)・陰陽家の土御門(安倍)泰福(1655-1717)は、平安時代の陰陽師・安倍晴明の子孫で、室町時代以来の土御門家を名乗った家に生まれる。1661年、家督を継ぐ。土御門家は代々陰陽頭を務めていたが、江戸時代初期以来、幸徳井家(賀茂氏)側との対立が続いた。1682年以後、泰福が陰陽頭に就任し、翌1683年には諸国の陰陽師を支配・免許の権限を得る。1699年、土御門家を陰陽道宗家となる。山崎闇斎の垂加神道を学び、陰陽道・神道による神道理論(土御門神道)を打ち立てた。
 冷泉家の為治(1626-1649)-為臣(1911-1944)、為任(1914-1986)、医師・20代・北小路経彦の墓がある。
 医家・儒学者・向元升(1609-1677)の墓には貝原益軒の撰文がある。その長男・向井元端(1649-1704)、俳人・向井去来(元淵、1651-1704)は元升の次男になる。かつて五輪塔が立てられている。境内茶所前にには句碑がある。「涼しさは野山にみつる念仏かな」。
 旧三井家の菩提寺であり、三井高利(家祖)夫妻の墓がある。東三条院の宮の弟・藤原道長の愛妾・桜ノ内侍の子が三井財閥の遠祖にあたる。かつては、塔頭東陽院にあり、明治期(1868-1912)中期に本山に移された。
◆お十夜 十日十夜別時念仏会は、室町幕府6代将軍・足利義教に仕えた伊勢(平)貞経の子・貞国の逸話に起因している。
 貞国は若い時より阿弥陀如来を崇敬した。永亨年間(1429-1441)、出家しようと真如堂で三日間参籠した。夢枕に立った僧が、さらに三日三晩に延期するように告げた。その通りにすると、兄の謹慎により貞国が家督を継ぐことになる。貞国は阿弥陀の導きに感謝し、さらに七日参籠した。これを「十夜」といい、当寺が発祥地となった。また、第102代・後花園天皇は、これを聞くに及んで、さらに七日七夜の念仏を続けるようにとして、十日十夜の方式を定めたという。その後、第103代・後土御門天皇の勅により全国の浄土宗寺院に広まる。天台宗の中で最も盛大なものであり、この時期に善行が十日十夜があると、他方諸仏の国土で千年の善をするにも勝る。無量寿経によるともいう。
 5日、夕刻から連日、「鉦講(かねこう)」の人々(鉦講員)による鉦が叩かれる。結願の11月15日には、貫主が導師になり、稚児、僧によるお練り法要がある。「うなずきの弥勒」が開帳される。その手には「縁の綱」が結ばれ、堂の外の角塔婆まで引かれている。参詣者はその綱に触れて阿弥陀との縁を結ぶ。中風除け、「たれこ止め」(おもらし)の効能があるという小豆粥「十夜粥」の接待もある。なお、粥のことを「おじや」というのは、お十夜の転訛ともいわれている。
◆花暦・樹木 ツバキ、ミズキ科のサンシュユ、サクラ、、アジサイ、黄色い花をつけるハナノキ、境内に400本のカエデがあり、紅葉の名所として知られている。
 吉祥院近くにモクゲンジ、鐘楼近くにオオモクゲンジ、池の端にアセビの大木がある。涅槃の庭には、ツツジ科スノキ属シャシャンポ、ボダイジュ(区民の誇りの木)がある。実が二つ以上つくものを財布に入れておくとお金がたまるという。沙羅双樹(ナツツバキ)などがある。
 池近くにハナノキがある。1935年に植えられた。かつて木曽福島にあり、府立植物園を経て移植された。樹高10m、幹周り1.6m。
 立皮桜(エドヒガン)は、樹皮が縦に走る。春日局(1579-1643)が、父・斉藤利三(1534-1582)の菩提のために手植えしたという。
◆年間行事 初洛陽六阿弥陀めぐり(1月15日)、涅槃図公開(花供曽<はなくそ>あられが授与される。和菓子店の「田丸弥」が手掛ける軽く焼いた球状のあられであり、黒砂糖をまぶしている。参詣者に無病息災のために授与されている。)(3月1日-31日)、涅槃会法要(3月15日)、宝物虫払会(「安倍晴明蘇生図」の公開、晴明が閻魔大王より贈られたという金印による祈祷がある。)(7月25日)、引声(いんぜい)阿弥陀経会(836年に唐に渡った慈覚が、五台山の文殊菩薩より極楽世界八功徳池の波音に唱和するという引声阿弥陀経を伝授された。いまも伝えられ1000年以上の歴史を持つ。当日は総により阿弥陀経などが唱和される。)(10月14日-16日)、十日十夜別時(べつじ)念仏会(11月5-15日)、観経曼陀羅公開(11月)。


*室内の写真撮影は禁止。
*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京の古寺から 11 真如堂』『鈴声山真正極楽寺 真如堂』『京都・山城寺院神社大事典』『京都大事典』『京都・美のこころ』『京都古社寺辞典』『昭和京都名所図会 2 洛東 下』『増補版 京の医史跡探訪』『稲荷信仰と宗教民俗』『旧版 京のお地蔵さん』『京都の映画80年の歩み』『シネマの京都をたどる』『京都絵になる風景』『京都まちかど遺産めぐり』『京都はじまり物語』『京都の寺社505を歩く 上』『京の寺 不思議見聞録』』『京都 神社と寺院の森』『京都を歩こう 洛陽三十三所観音巡礼『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』『京都のご利益徹底ガイド』『京のしあわせめぐり55』『京の福神めぐり』『週刊 京都を歩く 28 吉田』『週刊 古社名刹巡拝の旅 26 吉田山と白川』『週刊 日本の仏像 第43号 観音寺 国宝十一面観音と蟹満寺・国宝釈迦如来』『仏像めぐりの旅 4 京都 洛中・東山』、サイト「木食正禅上人と阿弥陀如来露仏-境内霊譚奇談集Ⅸ 竹内純照」


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石薬師堂

書院の門

本堂から続く回廊

縣井(あがたい)観音堂

三千仏堂

大日如来

千体地蔵堂

新長谷寺

鎌倉地蔵尊



元三大師堂(京都府指定文化財)

元三大師堂

鐘楼

鐘楼

鐘楼、梵鐘

梵鐘には、金属供出の際に、材質を確認するために開けられたという二つの小さな穴が開いている。

鐘楼下の石段には、堀川に架橋されていた三哲橋(塩小路通)の遺構が使われている。

赤崎弁天(弁財天)

宝篋印塔


お茶所


閼伽水、創建以来の霊水といわれている。


唐金(からがね)弥陀如来


唐金弥陀如来の台座正面、蓮弁に「木食正禅 造立」とある。

立皮桜(たてかわざくら)
庭 園

書院


庭園「涅槃(ねはん)の庭」


「涅槃(ねはん)の庭」、釈迦の元を訪れた海の生物



大文字山の借景

東山と相似、借景は東山、二段目の生垣は作庭当初はなかったという。次第に借景が失われつつある。


「涅槃(ねはん)の庭」、釈迦に見立てた石組と集まった弟子たち



釈迦の母堂を表すという妃摩耶夫人

庭園に据えられている本歌・燈明寺型石燈籠

書院南


ツツジ科スノキ属シャシャンポ

シャシャンポ

書院北の露地

露地

仏殿

仏殿蟇股にある四つ目の家紋

「随縁の庭」

「随縁の庭」

「随縁の庭」、白川砂、砂利、黒砂利が使い分けられている。

書院四季殿、春の間、国井應祥の障壁画などがある。
墓碑


たてかわ桜


海北友松(右)、斎藤内蔵助利三の墓

向井去来の墓はなく、一族の墓のみが残されている。

東陽坊長盛の墓

陰陽権助賀茂保屋ほか賀茂氏の墓

安倍晴明の子孫の墓

安倍泰福の墓

「京都映画誕生の碑」

洛東の眞如堂にして、善光寺如来開帳の時
「凉しくも野山にみつる念仏哉」去来
寺が所蔵する善光寺如来の御開帳に際して詠んだ。
塔頭、そのほか

喜蓮院

理正院

法輪院

松林院

東陽院


覚円院、去来の寺、門の脇に植えられた「連理のもみじ」、連理とは、木の枝と枝が重なり、木理が通じたことという。白居易の長恨歌に「吾、天に在りては比翼の鳥となり。地に在りては連理の枝とならん」とあり、男女の愛の深さをいう。

吉祥院

法伝寺、空海が刻んだという茶吉尼天像が安置されている。白狐に女性が乗る。

回向柱(5m)、縁の綱、十日十夜別時(べつじ)念仏会(11月5-15日)

吒枳尼天

吒枳尼天

【参照】境内西にある平安時代、第57代・陽成(ようぜい)天皇(869-949)の神楽岡東陵(かぐらおかのひがしのみささぎ)。第56代清和天皇の第一皇子、母は権中納言藤原長良(ながら)娘・女御の藤原高子(二条后)。

【参照】将軍塚より見た神楽岡、中央付近の丘

【参照】白川のサクラ
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