氷室神社 (京都市北区)
Himuro-jinja Shrine
氷室神社
 氷室神社
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拝殿、屋根はこけら葺、前後は唐破風屋根


拝殿、屋根はこけら葺、前後は唐破風屋根、両側面は千鳥破風

拝殿、蟇殿は桃山風花鳥の彫刻。


本殿覆屋


本殿


本殿扁額「氷室大明神」


本殿

 京都市内の北北西、鷹ヶ峰、京見峠、城山の峠を越えた山里の氷室(ひむろ)の地に、氷室の産土神、氷室神社(ひむろ じんじゃ)がある。周辺に氷を産した氷室跡、氷池跡などが残されている。
 祭神は稲置大山主神(いなぎおおやまぬしののかみ)を祀る。祭神は、第15代・応神天皇皇子・額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)に氷を献上したという伝承がある。
 古来より、痘瘡(とうそう、疱瘡/天然痘)除けの神として信仰された。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 平安時代中期、927年、『延喜式』には、この地、栗栖野を含む氷室が21か所があり、山城6か所中、この地でも氷池(ひいけ)風神を祀ったと記されている。
 中世(鎌倉時代-室町時代)以降、鎌倉時代とも、宮中への蔵氷の献上に携わっていた主水正(もんどのしょう/もりとりのつかさ)・清原家が、氷室、氷室池の守護神として勧請したという。(社伝)
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、痘瘡の神として崇敬される。
 江戸時代、1636年、1618年とも、拝殿は、東福門院の寄進と伝えられる。内裏内小御所の釣殿(女御御里御殿とも)の一部が移されたという。(社伝) 
 1787年、当社が描かれている。(『拾遺都名所図会』)
◆額田大中彦皇子 皇子・額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのおうじ、生没年不詳)。3、4世紀の応神天皇(201-310)の皇子とされる。母は高城入姫(たかきのいりひめ)。『日本書紀』では、応神天皇没後、皇位継承に関わり、倭(やまと)の屯田と屯倉にまつわり、異母弟・大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)(第16代・仁徳天皇)と争い阻まれた。闘鶏(つげ)で氷室を見つけ、仁徳天皇に献じたという。
◆建築 「拝殿」(京都府登録有形文化財)は、第108代・後水尾天皇中宮・東福門院(1607-1678、徳川和子)の寄進という。茶人で建築家・小堀遠州(1579-1647)が手掛けた建物ともいう。江戸時代、1636年、後水尾天皇第2皇女(興子内親王、1623-1696)が近衛家に降嫁した際に、内裏内小御所に建てられた釣殿(女御御里御殿とも)が移設されたともいう。前後は唐破風屋根、両側面は三角の千鳥破風、蟇殿は桃山風花鳥の彫刻。方一間(1.8m四方)、杮(こけら)葺。 
◆氷室 氷室(ひむろ)では、氷の生産と貯蔵が行われた。古くより宮中への氷の献上を行った。第16代・仁徳天皇(257-399)の頃より行われていたともいう。(『古事記』)。単に氷としてではなく、氷は漢方薬でもあり、清浄な天然水「夏氷(なつのこおり)」(水部天水類)が産された。(『本草網目』)。
 氷室についての文献初見は、古墳時代、『日本書紀』(374年)に、額田大中彦皇子が大和国闘鶏(つげ、現在の奈良県天理市福住町)での狩の際に、山中で氷室(闘鶏の氷室)を発見し、天皇に献上したという。奈良春日野にも同じような伝承と氷室があった。『日本書紀』孝徳紀に登場する「氷連」姓は、朝廷献上のための氷室を管理した職とみられている。
 「土を掘ること丈余(ひとつえあまり)。草(かや)を以って其の上に蓋(ふ)く。敦(あつ)く茅萩(ちすすき)を敷きて、氷を取りて其の上に置く。既に夏月(なつ)を経るに泮(さ)えず。其の用(つか)ふこと、即ち熱き月に当たりて、水酒に漬して用ふ」。
 氷室は、京都に10か所(6か所とも)あり、大和、河内、近江、丹波など各地に合計21か所が設けられたという。京都の主な推定される氷室は、①この地の愛宕郡栗栖野(くるすの)(北区西賀茂西氷室町)、②葛野郡徳岡(右京区御室住吉山)、③愛宕郡小野(左京区上高野氷室山・松ヶ崎丈ヶ谷、鞍馬二ノ瀬)、④愛宕郡栗栖野土坂(あふさか、長坂の誤記とも)(北区西賀茂西氷室町)、⑤愛宕郡栗栖野石前(いわさき/いはさき)(北区衣笠氷室町)、⑥賢木原(不詳、樫原)とされる。丹波国には氷所(ひどころ、八木町)があった。(『延喜式』)
 氷室は、賀茂氏との関わりが深い。鴨県主(かどのかもあがたぬし)は、奈良時代-平安時代、律令制下の主殿(とのも)に仕え、賀茂社の神事、宮中の天皇の乗り物、行幸付き添い、薪炭、灯火、湯水、氷室の氷などの管理・調達などにも関与したとみられている。
 平安時代、宮内省に属する「主水司(もんどのつかさ/もりとりのつかさ)」という役人がおり、上賀茂神社鴨県主同族会の中から選ばれた。主水司は、宮中内の井戸と氷室を管理した。元日には、主水司により「氷(ひ)のためし」が行われていた。各地の氷室の氷の厚さを測り、豊作の吉凶を占った。このため、宮内省は氷室の巡検を行い、氷が厚く張るようにと氷室神社を祀り祈願した。平安時代-近代まで、旧暦6月15日に、宮中に氷を送り届ける行列が仕立てられたという。
 氷室の詳細はわかっていない。冬場、氷室池(「よしが池」)に張った氷は、洞窟や地面に掘った穴に保管された。底には木の枝葉を敷き、板を置いた。この上に氷を置き、枝葉を載せる。さらに、萱などで厚く覆い、茅葺き小屋などを建て長期保存したとみられている。夏場(4月-9月)に、毎日定量の氷が取り出され、峠を越え都まで運ばれた。禁裏御用品として朝廷などに献上された。氷は、水飯(飯を白湯に浸し、氷を入れたもの)として食されたという。「氷のおもの」と呼ばれた。かき氷に、甘葛(あまづら)を入れて食した。冷菓みなずき、酒冷やし、熱さましにも用いたという。また、夏場の遺体の腐敗防止にも用いたと考えられている。
 氷室については、『山城名跡巡行誌』、『捨遺都名所図会』(1787)に村の様子が描かれている。
◆氷室跡 この地の氷室(京都市指定史跡)は、現存する唯一の場所になる。江戸時代、1686年の『雍州府志』には、「氷室が絶ゆ」と記されており、この時点で使用されなくなったとみられる。ただ、近代、明治期(1868-1912)にも使用されていたともいう。
 現在、氷室の氷室跡は同地周辺に3つの窪地が残されている。いずれも山の斜面にあり、直径6-8mの円形であり、深さ2m-2.5mある。氷を造った池は周辺に5か所現存しているという。現在も地域の灌漑用水池として利用されている。
 近代、京都の実業家・山田啓助(1844-1912)は、製氷業で成功を納め「西の氷王」といわれた。当初、この池の水を利用して「龍(竜)紋氷室」を生産していたという。1883年、社名を「龍紋氷室」に定めている。
◆水無月 6月夏越の祓えに和菓子店で売り出される京菓子「水無月(みなづき)」は、氷室の節会に因む。この頃、氷室から切り出された氷が、宮中に供御(くご)されていた。これを模倣し、庶民が外郎(ういろう)菓子を作ったとも、公卿が氷餅を作らせたともいう。
 外郎生地に小豆をのせ、三角形に切られている。小豆は悪魔払いの意味があり、三角の形は暑気を払う氷を表しているという。
◆墓 氷室跡の北西の丘陵に、「御殿(おとの)の墓」があり、主水司(もひとりのつかさ)の清原氏(正二位清原朝臣墓)、分家・伏原氏(故正三位伏原宣諭卿歯牙碑)の墓になる。清原頼業(よりなり)以来の清原氏はこの地を治め、主水司を世襲していた。氷室神社も清原氏の創祀によるとされる。
◆年間行事 例祭(氏子8軒によって行われる。かつて宮中に氷を献上していた日に当たるという。)(6月15日)。


*年間行事・は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都市の文化財 第12集』『平安の都』『京都隠れた史跡の100選』『京都まちかど遺産めぐり』『京都府の歴史散歩 上』『昭和京都名所図会 3 洛北』『京都の地名検証 3』『京都の寺社505を歩く 下』


        京見峠      福王子神社      仙洞御所・大宮御所      京都御所(京都御苑)        

境内社覆屋

境内社

境内社、不明

境内社、不明

江戸時代、『拾遺都名所図会』に描かれた境内の様子はほとんど変化がないという。説明板より。

境内周辺の杉林
氷 室 跡

氷室跡の碑

氷室のある杉山

氷室神社の北西、里近い杉山にある氷室跡、いまも3つの大きな窪地が近接して開いている。

「御殿(おとの)の墓」、正二位清原朝臣墓

故正三位伏原宣諭卿歯牙碑

周辺の山並み

氷室地区は7、8軒の人家が残る山里

【参照】京菓子「水無月」
 氷室神社 〒603-0000 京都市北区西賀茂氷室町 
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