圓(円)光寺 (京都市左京区) 
Enko-ji Temple
圓光寺  圓光寺
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瑞雲閣


奔龍庭








地蔵尊
 洛北の圓光寺 (えんこうじ)は、「十牛(じゅうぎゅう)の庭」が知られている。号は瑞厳山(ずいがんざん)という。 
 臨済宗南禅寺派、本尊は千手観世音坐像。
 京都洛北・森と水の会。御朱印が授けられる。
◆歴史年表 安土・桃山時代、1601年、徳川家康は文治政策をとる。伏見指月(しげつ)に学問所の伏見学校(伏見区桃山立売町付近)を開く。下野足利学校の庠主(ようしゅ、校長)で僧の三要元佶(かんしつ げんきつ)を招いた。
 その後、三要を開基として学校を寺に改め、圓光寺と称した。
 江戸時代、1603年、圓光寺は相国寺の境内に移される。
 1620年、焼失している。
 1623年、大名・細川忠利により縮小して再建された。以後、相国寺と圓光寺の間に寺地を巡る対立が生じた。
 1667年、幕命により、沢雲住持の時、現在地の愛宕郡修学院村に移転している。「洛陽学校」とも呼ばれたという。異説もある。
 1684年、相国寺の末寺、幕府直轄の独立寺院を経て南禅寺末寺となる。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、無住となり荒廃した。
 1906年、廃寺となりかけたが、尼僧・南嶺尼(なんれいに)により整備され、12代住持に就く。その後、南禅寺唯一の尼衆専門道場として引き継がれる。
 1917年、婦人修養道場が開かれた。
 現代、近年、尼寺は廃されている。
◆三要元佶 安土・桃山時代-江戸時代の臨済宗の僧・三要元佶(さんよう げんきつ、1548-1612)。閑室(かんしつ)元佶。肥前国に生まれた。父は野辺田伝之助、晴気城主・千葉胤連ともいう。幼少で円通寺で得度、金庭口菊に師事、その法嗣。足利学校の九華老人・玉崗瑞與に学ぶ。1587年、足利学校の9代庠主となる。1591年、小田原の後北条氏滅亡に伴い、豊臣秀次に従い京都に移る。1600年、関ヶ原の戦いでは、徳川家康の陣中に随行し、易の占筮によって功績をたて、南禅寺の坐公文(いなりくもん、入寺せずに官銭を得る)を得た。1601年、家康の建立した伏見・円光寺の開山、学校の主宰。1603年、家康の命により円光寺は相国寺に移る。三要は寺社訴訟など政務を行う。1609年、家康建立の駿府・円光寺に移る。佐賀・三岳寺の開山。駿府・円光寺で亡くなる。
 四書五経に通じた。家康に与えられた木活字により慶長古活字本の伏見版を手がけた。帰依した家康には禅、政治諮問、武術兵法も授けた。金地院崇伝、西笑承兌、板倉勝重らとともに、寺社奉行、行政訴訟、朱印状の事務取扱、外交文書起草の任にも関わる。
◆細川忠利
 江戸時代初期の大名・細川忠利(ほそかわ ただとし、1586-1641)。父は細川忠興、母は明智光秀の娘・ガラシャ。豊前小倉藩第2代藩主、肥後熊本藩初代藩主となった。
◆円山応挙 江戸時代の画家・円山応挙(まるやま おうきょ、1733-1795)。丹波国桑田郡穴太村(亀岡市)の農業・丸山藤左衛門の次男。1740年頃近くの金剛寺に小僧として入る。1747年15歳で呉服屋「岩城」、後に高級玩具商「尾張屋」に入る。13-14歳で上京したともいう。17歳頃(15歳とも)、狩野派・石田幽汀に絵を学ぶ。1759年、西洋渡来の覗き絵(浮絵)を制作する。1763年頃、宝鏡寺の蓮池院尼公を知る。1765年頃、円満院門主祐常と親交する。1766年頃、「応挙」と改名し、「応挙」の落款を用いる。1773年頃、「雲龍図」(東寺観智院旧蔵)を描く。1775年、「平安人物志」に画家部第一位で記載され、京都四条麩屋町西入に住んだという。1786年、紀州無量寺の障壁画を描く。1787年、一門とともに大乗寺(兵庫県香住町)障壁画を描く(第一期)。1790年、禁裏造営で一門により障壁画を制作する。 1795年、一門とともに大乗寺障壁画を描く(第二期)、悟真寺(四条大宮西入)に葬られる。
◆鵜飼石斎 江戸時代前期の儒学者・鵜飼石斎(うかい せきさい、1615-1664)。江戸の生まれ。子に鵜飼錬斎、称斎。那波活所(なば かっしょ)に学ぶ。1646年、摂津尼崎藩・青山幸利に仕え、1660年、致仕し京都油小路で私塾を開く。山崎闇斎、毛利貞斎と並ぶ。著に「明清闘記」、編著「本朝編年小史」など。円光寺に葬られた。
◆中村惕斎 江戸時代前期の儒学者・中村惕斎(なかむら てきさい、1629-1702)。京都生まれ。呉服屋の子。独学で朱子学を修め、天文、地理、度量衡、音律を究め、伊藤仁斎と比較された。著「四書示蒙句解」「訓蒙図彙」など。円光寺に墓がある。
◆村山たか女 江戸時代の尼僧・村山たか女(むらやま たかじょ、1809-1876)。たか。近江に生まれる。父は多賀大社・般若院の社僧、母は彦根の芸妓という。また、父は尊勝院長老、母は般若院の娘ともいう。すぐに養女に出された。美貌の人であり、三味線、歌、茶、華道も嗜んだ。江戸幕府の大老で、井伊直弼の兄・井伊直亮(1794-1850)の侍女、祇園の芸妓・可寿江として名をはせた。後に金閣寺住職に囲われた。その坊官・多田一郎の妻となり、帯刀(たてわき)を産む。近江彦根藩第15代藩主で、江戸幕府大老・井伊直弼(1815-1860)の愛人、後に国学者で井伊参謀の長野主膳(1815-1862)の妾になった。第121代・孝明天皇の女官になり、直弼、主膳の隠密として尊攘派志士の情報を流した。1858年、尊攘派らを弾圧した安政の大獄に協力、貢献する。1860年、桜田門外の変で直弼が暗殺される。1862年、その報復のために、長州と土佐藩士により洛西で捕らえられる。主膳は彦根で斬首、たか女は三条大橋に尼姿で晒された。子・帯刀は粟田口で斬られた。3日後、たか女は宝鏡寺の尼僧により助けられる。その後、清凉寺、圓光寺を経て金福寺に寺守として入る。尼となり妙寿と称した。金福寺で晩年の14年間を過ごした。直弼の菩提を弔い、日々戒名を書き綴ったという。金福寺で亡くなる。墓は圓光寺にある。
 生涯は、舟橋聖一『花の生涯』、諸田玲子『奸婦にあらず』に描かれている。
◆サイド・オマール 近代のマレーシア人留学生・サイド・オマール・ビン・モハメッド・アルサゴフ(Syed Omar、1926-1945)。マレーシアのジョホール州の王族(サルタン)の出身。祖父は州の首相になった。1943年東条内閣の要請による第1期南方特別留学生として来日し、東京での日本語研修後、広島高等師範学校(広島大学)で学ぶ。1945年8月6日、寮で原子爆弾により被爆した。重症を負いながら、大八車で市民の救護にあたったという。帰国するために東京に向かう途中、京都で発症し下車した。京大付属病院に入院、当院での被爆者第一号になる。9月3日、急性放射線障がいにより急逝した。18歳。遺骸は当初、京大留学生により大日山墓地に葬られ、1961年、命日に当寺墓地に遷された。
◆伏見学校・伏見版 江戸時代初期、徳川家康は文治政策により、足利学校庠主、第9世・三要元佶を招き、1601年に学問所の伏見学校(圓光寺、円光寺)を開いた。
 僧俗問わず門戸が開かれ、儒学者・藤原惺窩(せいか、1561-1619)、朱子学派の林羅山(1583-1657)も講じた。
 一角にあった圓光寺では、家康から贈られた木活字版(圓光寺活字)による活字印刷が行われた。和漢書の出版は伏見版、圓光寺版ともいわれた。『孔子家語』(1599)、『七書』(1606)まで6種の漢籍が刊行されている。
 なお、圓光寺は、伏見のほかに、駿河にも存在した。
◆建築 禅堂は、12代・南嶺尼(なんれいに)により建立され、尼僧の専門道場とされた。
◆文化財 徳川家康寄進の木活字(伏見・圓光寺版)5万個(重文)が現存する。日本最古の活字になる。家康寄進の朝鮮文書、書籍、朝鮮の木活字10万。伏見版による『貞観政要』『武経七書』などがある。
 安土・桃山時代の絹本著色「元佶和尚像」一幅(重文)。
 江戸時代、1776年、円山応挙筆の紙本墨画「雨竹風竹林図屏風」六曲一双(重文)(各160.3×353.3㎝)は、墨の濃淡により、遠近を取り入れて雨にかすみ、風に揺れる竹林風景を描く。
◆庭園 方丈前の「十牛(じゅうぎゅう)の庭」は、枯山水式庭園になる。「十牛の庭」「昇龍の庭」「古池」の3つからなる。
 「古池(栖龍池、せいりゅうち)」は、洛北で最も古い庭池、庭といわれ、高野川産の川石を使って石が組まれている。
 「十牛」とは、仏道入門から悟りに至る10の道程を、童子と牛に喩えて表した。苔庭の東に巨石「臥牛石」が据えられている。これを主石、起点とし、大小10石の伏せ石が牛に喩えられ配されている。さらに、サツキの刈り込みとイロハモミジの疎林で構成されている。ほかに、百日紅、皐月、芍薬、竹林などの植栽がある。
 東南のひょうたん形の栖龍池にある「昇龍の庭」は、1969年に大改修された。滝口、中島が造られている。
 近年作庭の枯山水式庭園「奔龍庭」は、白砂に龍を表す石が伏せられ、稲妻を表す石柱が立てられている。砂紋の雲海より姿を現した龍の姿という。方形の切石が組石を緩やかに迂回している。枝垂桜が植えられている。
 方丈上り口に、水琴窟が置かれている。
◆十牛図 画集の「十牛図(じゅうぎゅうず)」は、禅の公案集をまとめたものであり、中国の宋代に生まれた。いくつかの異本がある。12世紀宋の廓庵師遠(かくあんしおん)のものは、もっとも知られている。円相内に牛(本来の自己)と修行者(自身を表す童子)が、10の絵で描かれている。童子は逃げた牛を追い捕え飼い慣らそうとするなかで、自己を見出し、やがて禅の悟りに至る過程を描いている。
①尋牛(じんぎゅう)は、 童子が牛を捜し、見失った自己を回復しようとする。②見跡(けんせき)は、牛を捜す中でその足跡を見出し、童子は自己回復の手掛かりを得る。③見牛(けんぎゅう) は、小蔭に隠れていた牛を見つけ、童子は修業の中で自己の姿を垣間見る。④得牛(とくぎゅう) は、牛を捕まえようとして、まだ自己が己のものでないことに気づく。⑤牧牛(ぼくぎゅう)は、 牛をてなづけ、悟りのための修行を表す。⑥騎牛帰家(きぎゅうきか)は、 童子が牛の背に乗り家へ帰る。自己を手に入れ悟りが得られる。⑦忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん) は、 童子が家に戻り牛のことも忘れる。悟りを得たと思うことは実はまだ迷いから脱していない。その思いを消し去り、本来の自己の姿に気づく。⑧人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう) は、円相内に何も描かれていない。悟りも修行者もない空、無、非思量(すべての相対的な観念を捨てた無分別の境地)を意味している。⑨返本還源(へんぽんげんげん) は、美しい 原初の自然が描かれている。あるがままの自然世界、悟りの境地を示している。⑩入てん垂手(にってんすいしゅ)は、童子は僧となり里へと向かう。悟りとは最後ではなく、最終は人々を救い導くことを教えている。仏となり菩薩となることを説いている。
◆墓 東の裏山に、東照大権現(徳川家康、1543-1616)、江戸時代・近代の村山たか女、江戸時代前期の儒学者・鵜飼石斎、江戸時代前期の儒学者・中村惕斎の墓がある。
 マレーシア人のサイド・オマール(Syed Omar、1926-1945)のイスラム式の墓がある。
 「母を遠くはなれてあれば南にながるる星のかなしかりけり」、サイド・オマール、1945年8月25日。墓碑には、武者小路実篤(1885- 1976)の追悼文が刻まれている。「君はマレーからはるばる日本の廣島に勉強しに来てくれた それなのに君を迎えたのは原爆だった 嗚呼 実に実に残念である 君は君の事を忘れない日本人あることを記憶していただきたい」。 
◆花暦 新緑の「緑紅葉」、ツツジ、紅葉の庭がある。
◆修行体験 暁天坐禅会(毎週日曜日6:00-7:20、坐禅・粥座・朝食)。。
◆年間行事 サイド・オマール法要(9月第1日曜日)。


*年間行事などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『禅僧がめぐる京都の名庭』『京都大事典』『京都案内 歴史をたずねて』『京都・山城寺院神社大事典』『京都府の歴史散歩 中』『事典 日本の名僧』『京都の寺社505を歩く 上』『おんなの史跡を歩く』『京に燃えたおんな』『京を彩った女たち』『幕末京都 新選組と龍馬たち』『京都 四季の庭園』『秘密の京都』『京都の隠れた御朱印ブック』『週刊 日本の美をめぐる 37 リアルに描く円山応挙』



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玄関

「琳派彩還 四季草花図」、渡辺章雄

庫裏


瑞厳山の扁額


蟠龍窟

鐘楼

庭園


巨石「臥牛石」



ひようたん形の古池


水琴窟


「日おもてに空を透かせて冬もみぢ 伊佐」

「坂道をのぼり来たりて月読の 光あまねきに打たれ佇つかも 望久太郎」



東照大権現(徳川家康)の墓

惕斎先生仲君之墓(右)、鵜飼石斎墓


ヤマフジ

たか女の墓、法名清光素省禅尼。


サイド・オマールの墓、武者小路実篤(1885- 1976)の追悼文がある。「君はマレーからはるばる日本の廣島に勉強しに来てくれた それなのに君を迎えたのは原爆だった 嗚呼 実に実に残念である 君は君の事を忘れない日本人あることを記憶していただきたい」 

山腹からの眺望



ミツバツツジ
 圓光寺 〒606-8147 京都市左京区一乗寺小谷町 13  075-781-8025  9:00-16:30
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