静原神社 (京都市左京区)
Shizuhara-jinja Shrine
静原神社 静原神社 
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拝殿
 洛北、山間の静原の里に、静原神社(しずはら じんじゃ)はある。静原は志津原とも記され、鞍馬と大原を結ぶ峠道が通じていた。
 当社は「静原社」、古来より「二宮社」、「二ノ宮」とも称された。式内「須波(すは)神社」(『山城志』)ともいう。確定はされていない。
 祭神は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を祀る。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 
古墳時代、322年、第13代・成務天皇の頃、山城国愛宕郡志津原に創建されたという。伊奘諾尊は高天原に坐し、瓊瓊杵尊は日向の高千穂峯に天降つ。社は当初、静原楢小川の上流、「河合谷意美和良川」に鎮座していたという。本社に伊奘諾尊、奥御前に瓊瓊杵尊を祀り、「二宮社」「二ノ宮」と呼ばれていた。(社伝)
 飛鳥時代、第40代・天武天皇(631?- 686)が逆徒に襲われた際に、この地に赴き身も心も静かになったとして、以来、地名を「静原」と称したという。天皇は、刀、弓、矛などを社に奉納し、敵の退散ができたため、江州浅井郡の地330石を寄付したという。なお、現社地は「真路山」、御旅所は「天皇社山」と称されている。
 奈良時代、711年、3月3日より当社の祭祀が始まるという。
 室町時代、明応年間(1492-1501)、岩倉・山本対馬守は、この地に静原城(城谷山)を築く。細川政元と戦になり兵火により、当社の古文書、社記などが焼失した。第82代・後鳥羽天皇、第96代・南朝初代・後醍醐天皇の綸旨(りんじ)、鎌倉、室町将軍の御教書などもすべて失われた。
 安土・桃山時代、豊臣秀吉による天正検地(天正の石直し、1582-?)により、社領330石も没収される。下鴨社領として30石が定められ、近代、明治期(1868-1912)まで続いた。
 江戸時代、上賀茂社の末社であり、4月初酉の日の祭りに用いる葵は、当社より採取していたとも記されている。(『雍州府志』)
 現代、1960年、管轄下にあった下鴨神社より分離独立した。 
 2007年より、フタバアオイの境内、裏山への植栽事業が始まる。
◆末社 末社は豊受神社、貴船神社、天満宮社、比賣社、猿田彦社、香取社、惣山神社、八幡宮社、天照大神宮などを祀る。
◆葵祭 江戸時代に、当社は上賀茂社の末社であり、4月初酉の日の祭りに用いる葵は、当社より採取しているとの記述がある。(『雍州府志』)
 安土・桃山時代、豊臣秀吉による天正検地(天正の石直し、1582-?)により、社領330石も没収された。上賀茂社領として30石が定められ、近代、明治期まで続いたともいう。
 また、かつて下鴨神社の管轄下にあり、氏子は「静原沙汰人(しずはら さたにん)」といわれた。葵祭に使われるフタバアオイも当社より献上していたという。下鴨神社に2カ月間泊り、葵祭、下鴨神社の御蔭祭のために奉仕していたという。また、御蔭祭には榊(さかき)を奉じて参加していたともいう。
 下鴨神社の御蔭祭での氏子による神幸行粧などへの奉仕は、いまも続けられている。
◆フタバアオイ かつて、葵祭に使われるフタバアオイ、桂もまた静原に自生しているものを用いていたという。
 その後、境内を取り巻く環境変化により自生地が減少した。数十年前から奉仕は中止された。2007年より境内、裏山へのフタバアオイ植栽事業が始まる。その後、葵祭の際の奉納も再開された。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 当社案内板、『京都・山城寺院神社大事典』『雍州府志』『京都府の歴史散歩 中』『昭和京都名所図会 3 洛北』『京都大事典』 


                上賀茂神社      下鴨神社      御蔭(みかげ)神社     

本社


杉の巨木

【参照】フタバアオイの花、葉
周辺

静原神社の西にある天皇社、静原神社の御旅所

静原神社の西にある若宮神社

静原の里

鴨川の支流のひとつ静原川
 静原神社 〒601-1121  京都市左京区静市静原町1351 
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